<第三章>・一匹狼
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佐和の涙が徐々に止まるにつれ、航大の瞼がだんだんと下がってきているのが分かる。
仕方がない。何せまだ6歳の幼子。
もうすぐ時計の針が11時を指し示すこの時間は、航大にとってはもう夜中なのだ。いつもなら寝ている時間。当たり前だが、子供と大人の体内時計は同じようには回らない。
『航大君、ここで少し寝てていいよ。』
烏江は、お座敷の座布団をかき集めて簡易な布団を作り、そこに航大を呼んだ。航大は、促されるまま静かに横になる。
そして、店にある膝掛けブランケットをそっと航大にかけてあげると、烏江は静かにその場を後にした。
『佐和さん。』
『はい。』
航大が眠りにつくのを遠目で確認したのち、司は本題を切り出した。
『まず、あなたと航大君に暴力を振るっている人物から、伺っても構いませんか?』
『もちろんです。』
佐和の口から、ゆっくり言葉が紡がれる。
『沢崎 慎二と言います。
半年前からお付き合いをしている男性で……。』
『沢崎さんについて詳しくお聞きしても?』
『はい。
歳は30で、私より一つ上です。
仕事は、ゲーム会社で働いていると聞いたことがあります。
彼自身、機械にはとても強く、家のパソコンも何度も直して頂きました。』
『なるほど。ちなみに、沢崎さんとの出会いは?』
『……以前、住んでいたアパートのお隣さんだったことがきっかけです。
シングルマザーの私に何度も優しく声をかけて下さって、私が風邪を引いて寝込んでしまった時には、わざわざ航大のために晩御飯をお裾分けしに来てくれて……。』
惚れるには十分の理由だろう。
司は、先を促した。
『沢崎さんのお人柄について聞かせて下さい。』
『優しくて、誠実な方でした。
でも、同棲を始めてから急に人が変わったように暴力的になって……。』
『同棲を始めたのはいつ頃ですか?』
『2ヶ月ほど前です。』
んん…と、司は顎に手を当てる。
これが単なる家庭内暴力なら、少し粗っぽく言えば力ずくで解決してしまえそうなものだが、何故かこのとき司には……DVだけではない何かがこの件に関わっているような気がして、異様な胸のざわめきを覚えた。
『思い出すのは辛いかもしれませんが、暴力を振るう時の沢崎さんの様子について、尋ねても構いませんか?』
『は、はい……。
きっかけは、私が彼の浮気を疑ったことで…。』
『浮気、ですか……?』
『はい。
在宅作業も多いですから、仕事柄、というのもあるのかもしれませんけど、彼は凄く携帯の着信に敏感なんです。
それに、メールを打ったり電話の受け答えをするのも、私の見えないところでコソコソとやっている事が多くて…。』
『それで、沢崎さんを疑い、怒らせてしまったと?』
『…はい。
実は私、元夫──航大の父親と離婚した原因が、浮気だったんです。
だからちょっと、私も敏感になりすぎていた節もあったというか…。
それでも、あんなに怖い彼を見たのは初めてでした。
そしてそれを皮切りに、彼、些細なことでもすぐ怒るようになってしまって……。
自分の思い通りにならない時や、虫の居所が悪い日には、大きな声で怒鳴り散らしたり、私達を蹴ってきたりして……。』
後ろめたそうに、佐和は俯く。
『あ、あの、別れようとは、思わなかったんで───』
『思いました…っ…!!』
佐和は、つい大きな声を出してしまったと驚き、そして後悔しているように見えた。
『ご、ごめんなさい……。』
『…いえ。私の聞き方が間違っていました。』
司は、極めて柔和な笑みを浮かべると、
『別れられない理由が、ちゃんとあったんですよね。』
と優しく問いただした。
はい、と佐和は首を振る。
『……別れたいと、ちゃんと言ったんです。
でもその時、彼は……。』
『寝ている航大君に、刃物を突き付けた。』
『………っ!!?』
その反応は図星だ。
『それは本当かい、桂木さん。』
篠原は、驚く佐和に心配そうに声をかける。
すると佐和は、当時の状況を思い出したのか、怯えたように続けた。
『……はい。
台所にあった料理包丁を、ソファで眠ってしまった航大に向けたんです。あの人は。』
でもどうして……と司を見る佐和に、司は静かに語った。
『私、人の気持ちを悟るのが得意なんです。
佐和さん。あなたは今───あそこに置かれている包丁を、一瞬、視界の端に捉えましたね?』
厨房に置かれてある料理包丁を指差し、司は尋ねる。
『そ、それだけで?』
『それだけ分かれば十分です。』
司の鋭敏な神経は、今日も健在なようだ。
『話を戻しますが、脅された……ということですか。
「別れるなら、子どもの身に何があっても知らないぞ」と。』
『はい。
後、暴力を誰かに喋ったら、航大に何するか分からない…。とも、言われてしまって……。』
力なく震える佐和に、烏江は温かいお茶を差し出した。
『もし、良かったら。』
『……っ。ありがとうございます。』
周りが作り出す優しいぬくもりに、佐和はそっと息をつく。
そして、烏江が出してくれたお茶を一口飲むと、話を続けた。
『それで今まで、警察にも相談できなくて……。
でも、彼と別れられないとなると、もっと困ったことになってしまうんです。』
暴力を振るう男から別れられない、ということ自体も既に困ったことなのだが、佐和の言葉にはまた別の“困ったこと”が控えているようで、司は心の中でため息をついた。
『お伺いしても?』
『はい。
実は先日、元夫が航大の親権を自分に寄越せと言ってきたんです。』
『それまた急なお話で。』
だんだん話が複雑化してくる中、人生経験がこの中で一番豊富な篠原は、軽く相槌をうった。
『そうなんです。
今から話す問題には、元夫が大きく関わってくるので先にご説明させて頂きますと、私の元夫の名は黒瀬 真幸と言って、もしかしたらみなさんご存じかもしれませんが、某有名携帯会社、黒瀬グループの御曹司なんです。』
『あぁ、あの、ハードバンクの?
僕もそのスマホ、使っています。』
一番に声をあげたのは、烏江だった。
『あ!えっと……黒い猫のCMのやつかい?』
と篠原が首を傾げると、烏江は頷く。
『そうです、そうです。
年商8000億とか噂される会社ですよ。』
『8000億……』
シビアに目を細めた司に、佐和は苦笑いする。
『ほんと、不思議ですよね。
私は至って平凡な家庭に生まれたというのに、そんな、本来なら出会うきっかけすらない凄いお金持ちと一度は恋に落ちて、結婚までしたのですから。』
自嘲気味に話す佐和に、篠原は優しく言葉を紡ぐ。
『何が起こるか分からない、それが世の中と言うものですよ。』
『そうですね…。彼との結婚は、まさしくそんなものでした。』
『ところで、どうして黒瀬さんは今頃になって航大君の親権を欲しいと言ってきたんですか?』
司の質問に、佐和は微かに皺を寄せた。
『先程も言いましたように、夫が私と離婚した理由は、夫が他の女性と浮気したことにあります。
黒瀬はまぁ……お金はもちろんのこと、見た目も良くて…。』
『天が二物を与えまくったタイプですね。』
嫌悪感あらわに司が言うと、佐和も同調する。
『そうなんです。
まぁ、そんな彼に惹かれた私も私なんでしょうけど……。
それで、黒瀬の不倫相手が、当時彼の秘書をしていた“柊木 愛”っていう私より2つ歳下の可愛らしい女の子で。
その柊木さんを、彼は身籠らせてしまったんです。』
『………はぁ。』
その場にいる全員、黒瀬のクズっぷりに思わず本音が漏れる。
『つまり、佐和さん自身が浮気を理由に離婚を切り出した訳ではなく、黒瀬さんの方から「身籠らせてしまった責任をとって彼女と結婚したいから、別れてくれないか。」みたいなことを言われたというわけですね?』
『はい。
それにたまたま、その柊木さんも有名企業のご令嬢だったみたいで。
黒瀬も、その会社と揉めたくはなかったんでしょう。
それで、捨てても特に害のない私と航大を切り捨てたんです。』
先程の沢崎に対する態度とは一変、佐和は少し怒気を含んだ声色で続けた。
『それがまぁ、今から三年前の話なんですけど。
それだけなら別にいいんです。
私も、そんなろくでなしと夫婦なんか続けたくなかったので。
それにもちろん、彼も当時は自分に否があるとして、私がどうしても欲しいと言った航大の親権を譲ってくれました。
養育費だって、きちんと払ってくれてましたし。』
でも何故か、佐和の腹の虫は収まらないようだ。
その証拠に、顔を真っ赤にして、その目からは涙をこぼしていた。
『でも、でも……、先日、彼は私に言ったんです。』
悔しそうなその表情に、司も腹の底から沸々と熱いものが込み上げてくる。
『柊木さんはどうやら……私達が離婚するきっかけにもなったその子を、流産してしまったそうなんです。
それからというもの、彼女は子どもを身籠ることに抵抗を示すようになってしまったらしく……。
でも、黒瀬は一流企業の社長です。
出来れば、跡取りとなる子どもが欲しい。
ただ、柊木さんの精神状態は非常に不安定らしく、彼女との間に次の子をもうけるのはもう無理だと、そう言っていました。』
『だから、航大君の親権を寄越せと?』
『はい。』
すると、烏江はそっと会話に口を挟んだ。
『じゃあ…と言うと柊木さんには酷な言い方になりますが、では、その柊木さんと別れて別の女性を妻として迎え入れたらいいのでは?
なぜ、航大君にこだわる必要が……。』
『それは私もそう言ったんです。でも……』
『柊木さんの会社を、敵に回すような真似はしたくなかった。』
司が、食い気味にそう答える。
『神路さんは、さすがですね。』
諦めたように、佐和は笑った。
『その通りです。
彼女と結婚してからというもの、彼女の会社とも黒瀬グループは深い繋がりが出来ました。
だから多分、黒瀬は……彼女の会社から今まで通り支援を受けられる形で、跡取りが欲しい。
そう考えたに違いありません。
とすると、解決の糸口は一つに絞られる。
それは……柊木さんとは離婚せず、航大の親権を自分の物にすること。』
その言葉を聞き、司の怒りは沸点に達した。
『───ば、』『馬っ鹿馬鹿しい。』
しかしながら、先に口を開いたのは蓮である。
『か、神路さん?』
悪魔が見えない佐和が不思議そうに尋ねると、司は、
『いえ……』と目を丸くして蓮の方を見た。
珍しく、蓮が怒っていた。
いつもの優しげな瞳は鋭く尖り、呆れたような、信じられないといったような感情が、さっきの一言に全て現れていた。
どうやら蓮は、静かに怒るタイプのようだ。
実際、その端正な顔は少し固くなった程度で、“怒り”という感情を如実に表してはいない。
けれど、それでも妙な気迫を感じるのは、蓮が黒瀬というろくでもない男に心底腹を立てているからだろう。
『……佐和さん。』
『は、はい。』
司は、極めてどす黒いオーラを背中から放ちながら、言った。
『これ以上は語らなくて結構です。
その先の黒瀬の行動は、なんとなく読めましたから。
──その後、もちろん佐和さんは航大君の親権なんて黒瀬に渡すつもりはないと断った。
けれど黒瀬は、どこで情報を仕入れたのか、あなたがDV彼氏と付き合っていることを知り、あなたにこう言った。
「暴力を振るう男と一緒に暮らしている君と、妻もいて、今後の航大の養育費も心配する必要のない僕。
裁判をしたら、果たしてどっちに親権が渡るだろう……と。」』
佐和は、泣きながら頷いた。
『悔しいけど……黒瀬の言っていることは正論です…。
だけど私は、……航大とずっと一緒にいたいっ。
でもそのためには、沢崎と別れる必要があって、でも彼は、「別れるなら航大の安全は保証できない」って脅してきてて…。
どうしたら、一体どうしたらいいんでしょう……っ、』
すがるような目で司を見る佐和に、司は真摯に向き合った。
『神路さん……。
私、何でもします。だから、だから………っ。
航大と、これからも一緒にいられる方法を、教えてください…。』
愛する息子を想う母親の気持ちに、司は負けを認める。
けれど、今回ばかりは敵の存在が大きすぎるのも事実だ。
……そう簡単に、引き受けるわけにもいかなかった。
悩む司に、篠原はそっと声をかける。
『司ちゃん。』
けれど司は、その一言で篠原の言いたい事を大体悟っていた。
『篠原さんの言いたいことは分かります。
今回ばかりは手を引け。──そう仰りたいのですね?』
篠原は、難しい顔をして頷く。
『あぁ。
今回ばかりは、司ちゃん一人で解決できるような問題じゃない。
いくら君が清美さんの跡継ぎとは言え、君だってまだ高校生だ。
分かるだろう?』
『そうですね……。』
司は素直に頷いて見せた。……でも。
『では一体、誰がこの親子を助けるというのですか?』
声色が一段と低くなる。目付きも相変わらず鋭い。
しかしその顔には、確実に勝算の見えた、不敵な笑みが浮かんでいた。
『神路さん……。』
『確かに、私一人なら、今回のこの案件を受けなかったことでしょう。』
チラリと、蓮の方を一瞥する司。
あの心優しい蓮を、ここまで怒らせたのだ。
きっと彼も、この案件を解決させたいに違いない。
それだけでも、この依頼を受ける価値はあると…司は思っていた。
『多分、黒瀬は先手を打ってきます。
例え佐和さんが弁護士を雇ったとしても、探偵を雇ったとしても、必ずその組織を金で言いくるめて、自分の味方につけるはず。
そうすればもう、佐和さんはどの組織を頼ることも出来ない。
ですが私は、どこの組織にも属さない一匹狼です。』
それに、と司は確かに微笑んだ。
『私には、失うものなんて何もありません。
だから、例え向こうが脅そうとしてきても無駄です。』
生憎司には、人質に取られるようなものは何もなかった。
なぜなら、学校も、友達も、家族も……。
失ったところで、司にさして影響はないからだ。
そうはっきり言えてしまうくらい、司はそのどれもに情を抱いていなかった。──特に、家族には。
『でも、司ちゃんにだって両親が……。』
そう言う篠原に、司は嗤う。
『両親?そんなの名ばかりですよ。』
『え?』
『まぁもし、失うとしても……』
蓮の足元を視界の隅に捉え、司は口をつぐむ。
そんな最悪な結果になんて、絶対させやしない。
すると、蓮が司の方をチラッと見た。
察しのいいこの悪魔は、司の発言の続きが分かったようだ。
分かったうえで、ようやくその剣幕を緩めてくれた。
『佐和さん。
実は私、切り札を持ってるんです。』
本当に、自分だけではどうしようも出来ないと悟った時。
その時が来たら、使おうと心に決めていた。
………代償のない、契約を。
『だから、』
心配そうにこちらを見る佐和に、司は努めて明るく笑った。
『引き受けましょう。
黒瀬や沢崎から、私達の手で航大君を守り抜きましょう。』
悔し涙に、ほんの少し希望という名の光が宿った涙を流し、佐和は司に抱きついた。
その様子を見て、篠原も諦めたように呟く。
『忘れてたよ。
司ちゃんが“来るもの拒まず”な性格だったのを。』
『そうですね。
まぁ彼女の場合、“去るもの追わず”でもありますけど。』
苦笑いしながら、烏江が付け足す。
『じゃあまず、作戦会議からしましょうか。』
何かいい作戦でもあるのか、司の目は好戦的に輝いていた。
そして、そのあまりに完璧な作戦内容に一同が大きく賛同したのは、もちろん言うまでもない。
ブックマークに評価ポイント、本当に嬉しく思っております。ありがとうございます!
これからも、この拙作にお付き合い頂けましたら幸いです。




