<第三章>・幸せをはかる天秤
『お待たせしてすみません。では、始めましょうか。』
矢野倉 優のいる部屋に戻った司は、チラッと時計を見た。
時刻は2時15分。ここまで予定通りだ。
『では、今回のご相談をお伺いしましょう。』
すると、優はさっきより意志のある瞳で司を真っ直ぐ見つめた。
『私は、恋も結婚も…したいと思ったことがありません。』
それはどうしてですか?司は、咎めることなく優しく尋ねる。
すると優は、深刻な表情でこう告げた。
『……嫌、だからです。』
『嫌?』
はい、と優は首を振る。
『よく周りに誤解されてしまうのですが、私は別に、“恋をして傷付くのが怖い”とか、そういう理由で人を好きになれないんじゃなくて……。
恋をして、自分自身を嫌いになってしまうのが嫌だから、人を好きにならないというか……。』
ここまで聞くとよく分からない話だが、司は理解ある口調で続きを促した。
『それはつまり優さん、あなたは、”恋をしている時の自分が嫌い”…ということですか?』
『はい。』
はっきりと肯定した優は、僅かに目を伏せた。
『恋をすると、どうしても自分と周りを比べてしまうじゃないですか?
例えば、“あの娘よりは私の方が可愛いな”と、気付かぬうちに相手のことを見下していたり、“彼を誰かに取られたくない”と思うばかりに、勝手に嫉妬心を抱いてしまったり……。
事実、私にもそういった経験があります。』
だから、と優は顔を上げる。
『そうやって、誰かを好きになるばかりに周りに醜い感情を抱いてしまう自分が、私は嫌いです。
もちろん、人を愛すること自体は素晴らしい事だと思うし、誰かを心から愛せる人を尊敬だってしています。
それに、恋は私達の心を豊かにしてくれる素敵なものだという事も分かってはいるんです。分かってはいるのですが……』
言葉に詰まる優に、司は代わりに言葉を紡いだ。
『つまり優さんは、恋をしている時の自分より……仕事をしている時の自分の方が好き、ということですね?』
『……はい。
自分の好きなデザインが描けた時、それが製品になった時、自分の描いたデザインが誰かのお気に入りになった時、本当に心から幸せだと感じるんです。
もちろん、デザイン業界も競争社会であるのは分かっています。
“なんであの人のデザインが選ばれるの…?”そう感じることは何度もあるし、それで嫉妬してしまうこともあります。
でも……上手く言えないけど、やっぱり私は、“仕事をしている時”の自分の方が好きなんです。』
すると司は、ポツリと溢した。
『自分を嫌いになりたくないから、人を好きにならない……』
『やっぱり、そんな理由ではおかしいでしょうか…。』
不安げに司を見つめる優に、司はいいえ、と返した。
『むしろ、理にかなってる気がします。』
『え?』
戸惑いを隠せない優に、司ははっきりと答える。
『この世の中、例え血が繋がっていようがいなかろうが、紙切れ一枚、もしくは、何もなくても相手との縁があっさり切れてしまう。それが現状です。
どれだけ相手を憎もうが嫌おうが、別れる時はほんの一瞬。
──ですが。』
司は、その顔に不敵な笑みを含んだ。
『自分……という生き物だけは、どれだけ嫌いになっても、一生付き合っていかなければならない。
例え離れたくても、離れることが許されないんです。』
その言葉に、優は胸を強く打たれる。
『……それじゃあ…私、このままでもいいんでしょうか……?』
その目からは涙が溢れ、言えなかった思いが、理解ってもらえなかった辛さが、全て滴となって流れ出ていた。
『私…』
ぼろぼろ溢れる涙を拭いながら、優はしゃくりをあげて言った。
『自分を……誇れない、生き方を……したくなく…て……っ。
……自分を嫌いになるって、しんどいじゃないですか……自分を好きでいられないって、苦しいじゃないですか…っ。
だから、恋はしないって決めました……。
そしたら、男ウケとか気にしなくてよくなったし、周りの綺麗な女性を見ても…嫉妬とか、しなくて済んで、すごく楽で……。
それに、意味もない合コンとかお見合いにかけていたお金も、自分の趣味や仕事のために使えるようになって……。』
『…はい。』
『私、思うんです…。……恋をしないって決めて、それを寂しいと感じるなら、ただの強がりかな……って。
でも、私は……何も思わなかった。……むしろ、前より凄く生きやすくなって、今が幸せだな……って心からそう思えたんです…。
だけど、だけど、……っ、っ、』
小刻みに震える彼女を見て、司は胸が苦しくなった。
彼女の生き方は彼女が決めるものだ。それを否定するなどあってはならないことで、そんな人間は所詮人類のクズに過ぎない。
『周りは、優さんの考えを理解しようともしなかった。
いや、それ以上に……
“恋をしない”と決めたあなたを、“寂しい人”と決めつけた。』
優の眉間の皺が、一層深くなる。
『はい……。
たくさんの人に……“結婚しないのか”って聞かれて、その度に何度も自分の気持ちを伝えて……。
でも、誰一人、私の気持ちなんて、分かってはくれませんでした……っ。
…でもまぁ、別に始めから分かってもらえるなんて思ってなかったし、どんな生き方にも批判はつきものです。
もちろん、心ない事を言われて悲しまなかったかと言われれば嘘になりますが、自分の考えを貫くなら、それ相応の覚悟は必要。
それに私は、例え周りに何を言われようと、みんなと同じように“幸せになりたくて”この生き方を選んだだけだから、何も間違った事なんてしていません。だけど……』
それでも、彼女の涙は止まらなかった。
それもそうだろう。
“平行線のまま答えの出ない問い”と揶揄するくらいには、この館の扉を思わず叩いてしまったくらいには、本人も知らず知らずのうちに苦しんでいたのだ。
『だけど……、どうされたんですか。』
再び大きくなる涙粒を拭いながら、優は言った。
『私は、自分を嫌いになりたくなくて、“恋をしない”と決めました。
でも、それを知った父が、“お前の花嫁姿は見れんのか…”って、ポツリ、寂しそうに溢したんです。
それに母も、“孫の顔が見たかったな……”って。
私、両親のこと大好きなんです。それなのに、悲しませてしまった。
これで私に兄弟でもいれば……まだ救いはあっただろうけど、だけど………。
生憎私は一人っ子で、私が結婚しなければ、花嫁姿を見せることも、孫の顔を見せることも出来ない……っ。』
堰を切ったように溢れ出る涙と言葉達。
そのどれもが“真剣”という名の重みを持っていて、司の心を酷く掻き回していた。
『神路さん……、私、どうしたらいいんでしょう……っ?
周りに嫉妬してしまう醜い自分が嫌いで、自分を嫌いにならないためにした選択だったのに、だったのに………。
私はまた……この選択をしたばかりに、両親を悲しませてしまった親不孝な自分を……っ、嫌いになってしまいそうで、ならないんです……。
もう……何をどうしたらいいのか、分からなくなってしまったんです……。』
珍しく司は、かける言葉を失った。
──大切な人の幸せと、自分の幸せ。
優の場合、自分の幸せをとっても親不孝な自分を嫌いになってしまうし、両親の幸せをとっても、周りに嫉妬してしまう醜い自分を嫌いになってしまう。
結局どちらの道を選んでも、優自身が心から幸せになることはない。
『優さん。』
優しさが起こしたこの連鎖を悲劇にしないため、司は慎重に言葉を選んで言った。
『私はあなたに、あなたの生き方を貫いて欲しいと思っています。』
それはつまり、両親の望みを捨てろということ。
でも司は、救いを求めてやってきてくれた依頼主の期待を、決して裏切ったりはしなかった。
『今回の問題は、正直言って凄く難しいです。
なぜならそれは、どちらの幸せを選んでも、あなた自身が幸せになれない選択だからです。』
優は涙で腫れた目を一生懸命開いた。
『でも、これだけは忘れないで下さい。
あなたの人生はあなただけのもの。
それに、ご両親の幸せがあなたの幸せであるように、あなたの幸せもまた、ご両親の幸せだということを。』
はい、と優はゆっくり頷いた。
『人はみな、幸せになるために生きています。
勉学に励む理由も、仕事をする理由も、結婚をする理由も、全てはその先にある幸せのためです。
もっと言うなれば、お金そのものにだって価値などありません。
でもみんな、あんな紙切れ一枚のために身を粉にして働き、時には人生をも狂わせる。
それはどうしてでしょう。』
優しく問いかける司に、優はゆっくり答えた。
『それは……っ、そのお金で得られる幸せを、みんな求めているから。』
『はい。』
司は、優しく微笑みながら言った。
『結局みんな、例え何をしていようと、知らず知らずのうちに幸せを求めて生きている。
あなたは……一人っ子である今の状況を悔やんでいるようですが、私はそうは思いません。』
『え?』
『例え、“そんなのは子供のエゴだ”なんて言われても、たった一人の大事な娘だからこそ、ご両親はあなたに幸せになって欲しいと思っていると思います。
自分達の望む未来が叶えられない、そのことであなたが苦しんでる……なんて、ご両親も本望ではないでしょう。』
『……でも、』
『まぁいつの時代も、結婚=人生の幸せと捉えている人間は非常に多いです。
もちろん、それも間違いではないんでしょうけど、それが幸せの絶対的な公式かと問われれば、間違いなく違う。
幸せ=の先に続くものは、限りなく人それぞれです。』
気付けば、優の涙は止まっていた。
『あなたにとっての幸せは、仕事だった。
それだけの話です。
それ以上でもなければ、それ以下でもない。
優さんの生き方、私はかっこいいと思っています。
いや……お名前の通り、本当にお優しい方なんだなって。』
司は、ふと慈愛の含む笑みをもらした。
『誰も憎みたくないから、恋愛的な意味で人を好きにならない。
それを周りが、“寂しい人”と簡単に決めつけてあなたを傷付けるのなら、私はすぐにこう言い返します。
“人の生き方を否定的な言葉で片付けるお前らの方が、十分寂しい人だろう”───と。』
ギラついた目に、凄みを帯びた声。
司を敵に回したものの末路など考えたくなくなる程、それは気迫に満ちた一言だった。
『ははっ、そんなこと言ってくれる方、ほんとに初めてです。
あの……神路さん。
私の生き方って、ほんとに間違ってはいないのでしょうか?』
ようやく少し笑えるようになった優に、司は自信に満ちた声色で返す。
『もちろんです。』
だからと言って、根本的な事は何も解決していない事は司にも分かっていた。
しかしそればかりは、司が何を言っても全てが憶測に過ぎないため、ここはご本人登場、という展開で間違いはないだろう。
『ちなみに優さん。
今さっきまでのお話を、ご両親にされたことは?』
優は、ゆっくり首を振った。
『ありません。……というか、両親の本音を聞いてから、ウチでは結婚の話はタブーになってしまったというか…』
司の顔が不敵に歪む。
そして──隣の部屋に聞こえないよう、小声で優に囁いた。
『じゃあ大丈夫です。何も心配はいりません。』
『?』
そう軽くウインクをした司は、そのまま部屋を出て、隣の部屋の扉を軽く叩いた。
『失礼します。
矢野倉ご夫妻………娘さんの幸せのため、一肌脱いで頂けますね?』
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隣の部屋で矢野倉夫妻と一緒にいた蓮は、司がなぜ二人をここに呼んだのか、その理由をしかとその目に焼き付けていた。
≪ありません。……というか、両親の本音を聞いてから、ウチでは結婚の話はタブーになってしまったというか…≫
隣から聞こえてくる、依頼主、矢野倉 優の声。
それを聞き、母親の方はもう泣きそうになっており、父親はというと──神妙な面持ちのまま、隣の部屋とこちらを遮るその薄い壁を、ただ呆然とした様子で見つめていた。
『なるほどな……』
以前、隣の部屋で感動の再会を果たした志垣姉弟の会話(※第13部参照)を、この部屋で司と二人聞いていた事があった。
多分ここは、わざとなのか立付不良なのか、この部屋と隣の部屋を遮る壁が薄く、隣の会話がもろ丸聞こえしてしまう。
それを逆手にとった司は、矢野倉夫妻をここに呼び、優の本音を聞いてもらおう……そう考えたに違いなかった。
『ふっ……』
相変わらずの利口っぷりに言葉も出ないが、蓮は机に腰をかけ、司の悟りを最後まで見届けることにした。
すると。
───コンコン。
『失礼します。
矢野倉ご夫妻………娘さんの幸せのため、一肌脱いで頂けますね?』
もちろん司は、二人がここで話を全て聞いていた前提で事を進めている。
『神路さんの目的は……初めからこれだったんですか。』
そう口を開いたのは、夫、忠道の方だった。
『騙すようにしてここまで連れてきてしまった事は謝ります。
ですが、心優しい優さんのこと。
きっとご両親に本音が言えなかったのだろうと思い、このような形を取らせて───』
『家の事情に首を突っ込まないでくれ……!』
突然の厳しい怒鳴り声に、隣にいた美保子も後ろにいた蓮も、驚きのあまり目を見開いていた。
しかしそんな中、顔色一つ変えずに言葉を返す人物が一人。
『残念ながらそれは無理です。
どんな事情があるにせよ、私が悟ってしまった以上──この件を放っておくことなど絶対に出来ません。』
意志の滾る強情な瞳。
その言葉にハッと息を飲んだのは、決して蓮だけではなかったはずだ。
すると。
『お、お父さん!?』
さっきの怒鳴り声で隣の部屋の存在に気付いたのだろう。
急いで室内に入ってきた優は、両親の元に駆け寄って尋ねた。
『どうして、お父さんとお母さんがこんなところにいるの?』
『私がお呼びしました。』
気まずそうな顔をする二人に代わって、司が答える。
『神路さん……どうして……。』
『これは、お父様の仰るように矢野倉家の問題だからです。
部外者の私が何を言っても解決しない。
この問題を放置するも解決するも、ご家族の皆様が話し合わない事には、事態は一向に良くなりません。』
堂々と正論を言い述べた司に、その場の誰もが返す言葉を失っていた。
そして司は、申し訳なさそうに微笑み、
『私は今から席を外します。
これを良い機会にするもしないも、みなさん自身です。
幸せとは何なのか、そんなの第三者の私が語らなくても、みなさん自身が信じたものを、最後まで貫いてみせて下さい。』
と、その場を後にした。
『………。』
残された三人は、互いの顔を見ることなく、ただ黙って誰かの言葉を待っていた。
けれど生憎、ここには全てを悟って導いてくれる、司のような存在はもういない。
『お父さん、お母さん。』
重苦しい雰囲気に誰もが項垂れている中、唯一顔をあげたのは娘の優だった。
『私の話、聞いていてくれてたんだよね。』
静かに頷く美保子と、一点を見つめたまま何も反応を返さない忠道。
すると優は、
『ごめんね、こんな親不孝な娘で。』
と半ば諦めたようにそう言った。




