<第一章>・新しい朝
司は、歩いていた。
もちろん、薄く暗い一本道を……というわけではない。
これと言って何でもない、自宅から館へと向かうお馴染みのルート。
隣を駆けてく下校中の小学生はとても楽しそうで、司のごく平凡な日常の一部を切り取ったような、普段の光景が広がっていた。
『……?』
すると、館の方から一人、まだ学生らしき青年が姿を現す。
…もしかして、開館時間を間違えた依頼主ではないか。
よくあることなので、その考えが真っ先に司の頭に浮かんだ。
『すみませーん。私、悟りの館のものなのですが…』
十mあるかどうかの距離。
でも、確かに司の声は届いているはずなのだが、男の方に反応はなかった。
『私の早とちり、だったのかな……』
そう、司が呟いた瞬間…
『……!』
男性の体が、がくっと不自然に大きく揺れた。
よく見ると、その男性の目元にはかなり大きな隈が出来ており、足元はだいぶふらついている。
『大丈夫ですか!?』
そういつものように声をかけて、手を差しのべようと駆け出す司。
しかし。
『………っ、!?』
手も足も、自分のものとは思えないほどに自由が利かない。
『な、なんで…』
今すぐ駆け出したいのに、これでは歩くことすらままならない。まるで、司の上にだけ強力な重力がかかったような。もしくは、自分の動きだけがスローモーションになってしまったような、そんなおかしな感覚に襲われる。
一方、その男性はよろめきながらもまだ何とか歩いており、あるところへと向かって……
『ダメ、そっちに行っちゃ…』
男性の意識はかなり混濁しているようだ。
なぜなら、男の向かうその先は……
まだ赤信号になったばかりの、大きな横断歩道。
『止まって!信号見て!ねぇ!』
司は、精一杯声を張り上げた。
しかし、男性の耳にはどうやら全く届いていない。
この体が、ちゃんと動けさえすれば…
あの男性を支え、無意識のうちに動いているであろう足を止めることだって出来るのに。
後悔の念が、どっと司に押し寄せる。
『だめ、だめ…!』
あと数歩、いや、あと一歩も歩いてしまえば、このまま男性は赤信号の横断歩道に突っ込んでしまう。
奇跡でも起きて、運よく信号が青にならないか…
もしくは、男性の異変に気づいて、周りの車が止まってくれやしないか……
しかし、ただでさえ交通量の多い目の前の道路では、後者の願いは無謀なようにも思えた。
『引かれたいの!?ねぇ!止まって!!』
なんとか、自分の上にだけ降る異様な圧に抗った司は、あと数センチというところで、思いっきり手を伸ばした。
‘’………ガンッ‘’
でも…遅かった。
男性は、倒れるようにして目の前の横断歩道に突っ込み、隣からやってきたバイクに、勢いよく体を跳ねられてしまったのである。
赤い鮮血が、司の目の前を静かに染めていく。
『……っ、……っ……』
引いてしまった運転手も、何が起きたのか理解するのに時間がかかっているようだったが、それより司は……
『どうして、ねぇ、どうしてよ……』
ようやくあの異様な重力に解放されたことも相まって、勢いよく溢れ出す涙を止められなかった。
異変に気づいたのに。
もう少しで助けられそうだったのに。
いろんな思いが司の胸をいっぱいにする。
すると。
『……!』
倒れた男性の目が、不自然にもぱっと開いたのである。
まだ生きてる……!
歓喜と安心と不思議さで、たぶんもう、司の頭は正常ではなかった。
『早く、助けなきゃ……』
そういって、司は男性の元に素早く駆け寄っていく。
しかし。
『誰があんたの助けなんて必要にしたんだよ…?』
『……!?』
あろうことか、その男性は平然とその場に立ち上がり、司を見下すように嘲笑を浮かべていた。
『…?』
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった司だが、すぐさまその男性を視界の端に捉える。
すると、その男は司の真横をすっと通りすぎるなり、吐き捨てるようにこう口にしたのだ。
‘’……この偽善者が。‘’
そこで、司は目を覚ました。
☆★☆★☆★☆
十月の朝はやけに肌寒かった。
なのに今、司は大量の汗をかいている。
『……っ』
あまりにもリアルな夢だった。
正直言って、この夢を見るのは決して初めてなわけではなかったが、声も、感覚も、見ていた景色も……。
最近こそ、なんとも後味の悪いこの夢にうなされることは少なくなったものの、やはり、夢の中にいる自分はこれが‘’夢‘’だとはいつも気づかないようで、こうやって目を覚まして初めて、‘’現実じゃなくて良かった‘’と心から安堵するのであった。
『……』
しばしの放心状態。
…なぜ、この夢を見るようになったのか。
それは、司が嫌と言うほど一番よく理解していた。
ただ…その出来事を鮮明に思い出すことだけは、今の司にはうまく出来そうもない。
なぜなら、言うまでもなく司の気持ちが、その出来事に対して無意識のうちに思い出すことを拒んでいるからである。
色褪せていく記憶と、ますます現実味を帯びてくる夢。
まるで、過去の出来事が司に‘’絶対に忘れるな‘’と訴えかけているように。
『はぁ……』
司は、しばし呼吸の仕方を忘れてしまうほど、生きた心地がしなかった。
しかしこのままだと、朝から気分が悪い。悪すぎる。
ぶんぶんと首を左右に降り、今のことを頭の片隅へと無理やり追いやる。
……起きよう。
そう決意した司は、のそっと布団から這い出て、新しい服に着替えた。
『あ!』
昨夜のことを思いだし、当たりをキョロキョロと見回す司。
だが、そこに悪魔の姿はなかった。
『良かった…』
いくら死人とはいえ、相手は男だ。
着替えを見られるなんて、もちろん論外である。
……ただ。
きっと、あの悪魔は自分の嫌がるようなことはしないんじゃないだろうか。
まだ二日しか一緒に過ごしていないものの、司にはそう思えてならなかった。
でも、悪魔は物に触れることが出来ないため、‘’扉をノックする‘’という動作が出来ないのは難点ではあるが…。
‘’ガチャ‘’
『おはよう。お父さん、お母さん。』
……すると。
『おはよう、司。』
気付いたら、三人声が同時に司の元に返ってきていた。
★☆★☆★☆
休みの日と言えども、にわとり一家である三吉家の朝は早い。
『いただきます。』
‘’朝御飯は全員で頂く‘’
それが、三吉家のルールらしい。
素敵な習慣ではあるが、朝に弱い拓真にとって、この習慣は少しだけ慣れないものであった。
『どう、お口に合うかしら?』
拓真の新しいお母さん……晴美は、優しそうにそっと微笑み、そう尋ねた。
『え、あ、うん。すっごく美味しいよ』
たどたどしく返してしまったが、決して嘘ではない。
なぜなら、その品数の多さもさることながら、どの料理にも無添加だの有機野菜だの…と健康に配慮された食材がふんだんに使われており、そして何より、味付けがこれまた旨いのである。
ただ、つくづく感じるのが、どうやったらこんな健康メニューを毎日食べて、あの体型になれるのか…
拓真は、横目でちらりと隣のト◯ロ…
あ、いや、義昭を一瞥したが、もちろんこのことは本人には内緒である。
『それは良かった。おかわりはいくらでもあるから、遠慮せずに言ってね』
『うん、ありがとう…』
この夫婦は、本当に優しい。
父、義昭は、ちょっと太っちょではあるが、見た目と同じくらい(?)器も大きく、おおらかで頼りがいのある素敵な父親だ。
それに対し、母、晴美は、小柄ながらも実は義昭をちゃっかり尻に敷いており、そんな二人のやりとりはいつも、見ていてとても微笑ましいものであった。
『そうだ、拓真。今朝、拓真宛に手紙が届いてたよ』
『え、誰から?』
義昭は、封筒の裏の文字を読んでこう答えた。
……差出人 神路 司。
『神路さん…』
『え、なになに?
拓真君、もしかしてもう彼女出来ちゃったの?』
興味津々にそう聞いてくる晴美の顔は、どこか嬉しそうである。
『そんなわけ…』
『やるじゃないか、拓真!』
いやいやいや……登校初日に彼女なんて出来たら、普通親は心配するだろう。
『ほ、ほら。見てよ!神路司だよ。
残念ながら、正真正銘男友達。』
相手の名前が『司』であるのをいいことに、拓真は何とかごまかしにかかることにした。
それに、司の字は女子特有の‘’小さく丸い‘’字ではなかったため、両親はすんなり拓真の話を信じてくれる。
『えー残念。でも、もう友達出来たんだ、良かったじゃない!』
晴美の笑顔は相変わらず崩れない。
『ほんとほんと。拓真はおとなしいから少し心配だったけど、気にしすぎだったみたいだね』
義昭もまた、大きなお腹をさすりながら、のほほんと笑ってくれていた。
『ありがとう、僕はもう大丈夫だよ。』
その言葉に、深い意味はないつもりだった。
でも、大人というのは……どんな言葉であっても、そこに何らかの意図を感じてしまうのか、二人の目は少しだけ潤んでいるように見える。
『もう、…早く食べよーよ!』
二人の目から滴が落ちてくる前に、拓真はそういって再度箸を持ち直す。
『そうね、せっかくのご飯が冷めちゃうわ』
『ほんと、ほんと』
穏やかに流れる時間。
これからも、こんな時間がずっと続けばいいのにな…
拓真は、そう願わずにはいられなかった。
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【三吉 拓真さんへ】
この間は大変失礼な態度を取ってしまい、本当にすみませんでした。
今から書く内容は、また三吉さんのご気分を悪くしてしまうかもしれません。
でも、信じて欲しい……私は、そう切に願っています。
……………
【神路 司】
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