父と息子
前作の続きで、今回は蓮次の過去を少し掘り下げます。
誘拐。
その言葉を発して、蓮次は十数年前の出来事を思い出した。
蓮次の父――霧原義仁が死んだ時のことだ。
***
「れーんじィ!」
父である義仁に間延びした声で呼ばれ、当時九歳だった蓮次は嫌そうに振り返る。義仁に瓜二つの顔が鬱陶しそうに歪んだ。
「あっ、何だその顔。お父さん傷付くぞ」
「だって親父がそういう声で呼ぶときってだいたいめんどくせえんだもん」
「ひっどいなお前」
義仁が嘘泣きすると、周りにいた義仁の部下――霧原組の当時の組員が笑い声を立てた。はぁ、と蓮次はため息を吐く。
「で、何なんだよ」
「お、やっぱ聞いてくれるのか」
「ほらもーそういうのがめんどくせえんだって!」
早く言え、と蓮次が急かすと、分かった分かった、と義仁は立ち上がって、蓮次の前に来た。長身の義仁がすぐ目の前に来るとそれなりに威圧感はあるが、蓮次はもう慣れていた。
何なんだ、と蓮次が義仁を睨んでいると、突然蓮次の視界が白い物に遮られた。あまりに目の前に来たのでピントが合わず初めはそれが何か分からなかったが、少し目を離すと、それが見覚えのある紙であると気付いた。げ、と声が出る。
「げ、じゃねえよコラ蓮次。何でこういう大事なことをお父さんに言わないんだ」
「…だって…親父が来たら目立つんだって…参観日」
そう、それは、先日学校から配布されていたものの、蓮次がわざと義仁に渡していなかった参観日の予定のプリントだった。
「何!?俺のどこが目立つんだ!?」
「柄が悪い!何か黒い!うるさい!普通授業中に子どもの名前呼んだりしねーよこれで目立たなく何が目立つんだ!」
「可愛い息子が頑張ってんだかr応援したいだろ」
うぅぅ、と蓮次は唸り声を上げる。義仁のこういう飄々としたところが嫌なのだ。口では何を言っても勝てる気がしない。周りの組員が笑っていたので、笑うな!と叫ぶと、更に笑われた。
「とにかく、来るなよ!」
「ん~どぉーしよっかなぁ~」
絶対来るだろ…と、蓮次は諦めてため息を吐いた。参観日は来週だが、すでに憂鬱である。
「親父が来たらみんなこっち見んだよ…もうぜんぞうでいいよ…」
「何だお前俺より善造の方がいいのか」
「ぜんぞうは絶対あんなに目立たない!」
「馬鹿お前あいつ俺よりでかいんだぞ。目立つっつーの」
確かに、と蓮次は不覚にも納得してしまった。今日何度目かのため息を、深く吐く。
***
参観日前日。
「なーなー蓮次ー、明日お前の父さん来んの?」
「あー…来るっぽい…」
「マジで!楽しみー」
やめてくれ、とクラスメイトを押しのけて教室から出る。今は授業も全て終わった、放課後だった。明日が近付いて来るなあ、などと小学生らしからぬことを考えながら、蓮次はむず痒い気持ちで帰路を辿った。
義仁が嫌いなわけではないのだ。来てほしくないわけでもない。目立つのは嫌だけど。
義仁はその性格からか、蓮次のクラスメイトに人気があった。義仁の性格が子どもっぽいのもあるだろうが、面倒見が良くて、よく遊んでくれるからだ。蓮次はいつも、おいおいそいつやくざだぜ、と思いながら、義仁を引っ張って連れて帰る。
要は、義仁が取られるようで気に入らないのだ。蓮次自身は否定するだろうが。
「…ふん」
俯いて歩いていたため目に入った小石を、こつんと靴の先で軽く蹴る。すると、その小石が何かにぶつかったのに気付いた。突然視界が陰ったと思って目を上げると、見知らぬ男がいた。気付けば、数人に囲まれている。
普段から“そういう”連中に囲まれている蓮次は、すぐに気付いた。
こいつら、やくざだ。
自分の倍近くあるのではないかというほどの身長の男が自分を見下ろしてくる。さすがに危機感を覚えた。蓮次は霧原組について詳しく知っているわけではなかったが、敵が多いのはなんとなく分かっていたからだ。
「…なんだよ」
声を出して、自分の声が震えているのに気付いた。怖いのか?自分に問いかける。怖い。答える。何せ蓮次は、子どもだったのだから。
「霧原義仁の息子だよな?」
正面にいる男が言う。何と答えたらいいのか、蓮次は何も言えなかった。相手は自分の情報をどれだけ知っているのか。自分の顔は知られているのか。否定したところで意味はあるのか。
考えをまとめる時間は与えられなかった。
男に腕を引っ張られる。強い力で、思わず「いて、」と声が漏れた。
「おいおい優しく連れてけよ、人質だぜ」
ひとじち。その言葉が蓮次の頭の中で反芻される。漢字では書けないが、ドラマでよく見るから意味くらい知っていた。例えば、金持ちの子どもが誘拐されてお金を要求されたりとか、恨みを買っている人間を呼び出すために、使うとか。
「離せ!」
そこまで考え至って、蓮次は男の手から腕を引き抜こうと暴れた。背負っていたランドセルが肩からずり落ちる。腕は抜けない。びくともしない。すると突然、目がちかちかした。遅れて、腹部に痛みを感じる。殴られた、とまた一つ遅れて理解した。
「じっとしてろっての、ガキが」
意識が遠のく。やりすぎだて、と笑う声がぼんやり聞こえた。
***
「お、起きたか?」
聞き覚えの無い声が聞こえて、目を開ける。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。手足に違和感があるのに気付いて、一気に意識が覚醒する。
「…! ここ、」
「安心しろって、もうすぐお父さんが迎えに来るぜ」
蓮次は目を見開いた。親父が?と声を出す。声になっていたかは定かではない。ただ、やってしまった、と思った。義仁に迷惑をかけてしまう。見たところ、蓮次が囚われている部屋には結構な人数の男がいた。義仁が歴代の霧原組の組長で最強だと言われているのは知っていたが、この人数のところに義仁が一人で来てしまったら。
蓮次は考える。義仁が来ないようにする方法は無いか。一番いいのは、自分が自力で逃げることだ。ただ、現実的に考えて不可能だ。それ以外の方法は、見当たらない。
どうする、どうする、と頭を回転させていると、突然大きな音がした。驚いて音がした方を見ると、蓮次より数メートル前にある扉が開いていた。そこに、見覚えのある影がある。それが、扉を蹴破ったのだと気付いた。
「ちぃーっす。息子迎えに来たんですけど!」
ざわ、と蓮次の肌が粟立った。口調こそいつもと変わらないものだったが、表情が、気配が、蓮次が見たことがないようなものだったのだ。怖い、と思った。自分の父親はこんな顔もするのか。
そこではっとして、蓮次は義仁を見据えて叫んだ。
「親父!!何で来たんだよ、なんで、しかも、一人で、」
そう、義仁はたった一人だった。いつも一緒にいる部下もいなかった。義仁は先程の表情とは打って変わって、にっと笑って言い返した。
「何でって、お前が俺の息子だからだろ」
「…っお、」
「霧原義仁!!」
蓮次が何か言いかけたのを、蓮次を捕らえた男のうちの一人が遮った。義仁はすっと真面目な表情に戻ると、その男を見据える。男は拳銃を構えていた。
「一人で来るとか、お前ほんっとに馬鹿だな!!」
言い終わるか言い終わらないかくらいで、男が拳銃を義仁に向かって放つ。蓮次は思わず目を閉じた。
「だって、お前らが一人で来いって言ったから」
さっきと変わらない義仁の声が聞こえて、蓮次は顔を上げる。義仁の頬に一筋、血の跡が流れていた。
「それより、蓮次返せよ。明日参観日なんだって」
そう言って義仁は男に向かって駆け出した。一体どんな速さで走ったのだ、という思いすら飛ばされるように、義仁はすぐ男の目の前に行って、頭を掴んで床に叩きつけた。他の男たちが声を上げる。
「化け物が…!」
「失礼な」
義仁が答えたのとほぼ同時に、複数の男たちが一斉に向かって駆け出した。
「親父!!」
「あいよ~っ!」
蓮次が呼び掛けると、義仁の声がする。男に囲まれて姿は見えないが、義仁が無事なのは分かった。がんばれ、がんばってくれ、親父、と心の中で唱える。
そこで、突然随分近くで銃声が響いた。蓮次は一瞬心臓が止まるかと思う程驚いたが、その放たれた弾が自分の耳を掠めたのを理解し、さっと血の気が引いた。ちらりと隣を見ると、蓮次の監視をしていた男が持っている銃が、自分に向けられていることに気付いた。汗が噴き出てくる。これを見たのは初めてではない。が、押し付けられたのは初めてだ。これは即座に命を奪える道具だ。知っている。あの指が少しでも動けば、自分は。
それに気付いた義仁は、そこで初めて、ほんの一瞬、動揺した。
「…おい、蓮次は―――」
ガッ、と鈍い音がした。一瞬の隙を見た男が、後ろから義仁の後頭部を殴ったのだ。義仁がよろける。
「親父っ!!!」
つぅ、と義仁の後頭部から出た血が、額まで流れてきて目に入る。もう片方の目で後ろを睨むと、鉄パイプのような物が見えた。
(…これは、ちょっとヤバいか)
義仁はちらりと蓮次を見る。蓮次に銃口を向けている男と、蓮次。蓮次は必死に強がって男を睨んでいるが、怯えている。当然だ。いつ撃たれるか分からない状態なのだから。だが、蓮次に銃口を突き付けている男は脱力していた。すぐに撃つ気はないのだ。蓮次はまだ撃たれないだろう。
義仁が、何もしなければ。
義仁は体の力を抜いた。
「頭悪い親父でごめんな、蓮次」
それが合図のようにして、男たちはさっきと同じように義仁に襲い掛かった。さっきと違うのは、義仁が男たちを攻撃しないことだ。
「親父!おい!何やってんだよ、さっきみたいに、」
がはっ、と義仁が血の塊を吐き出した。
死ぬのか?
蓮次の目に、我慢していた涙が浮かぶ。
「やめろ、やめてくれ!!親父!死なないでくれ、死なないでよ、父さん!!!」
「うるせよ黙ってろ」
「父さん!!!」
隣の男の声も聞かずに、声の限り叫ぶ。既に膝をついている義仁と、目が合う。
「ごめんな、もうちょっと待っててくれ…お前、は、大丈夫だから…な、」
義仁は、笑った。
「父さ―――」
銃声が響いた。
義仁が倒れるのが、スローモーションで蓮次の目に再生される。声も出なかった。
「死んだか?」
蓮次の隣の男が尋ねる。
「頭撃ったんだから死んだだろ。これで生きてたら人間じゃねえよ」
蓮次の頭に押し付けられていた銃口が外れた。同時に、手足を縛っていたものが解かれる。蓮次はしばらくそこに座り込んでいた。さっきまで蓮次に銃口を向けていた男が、蓮次の背中を軽く蹴る。
「ほら、最後の挨拶してこいよ」
まぁもう死んでるけどな、という声を背後に、蓮次は四つん這いのように手と足を使って倒れている義仁に近寄った。色んなところから真っ赤なものが流れている。
「とうさん、」
義仁の肩を揺さぶる。いつもの軽い返事は返ってこない。ただ弱々しく揺れるだけだ。
「父さん、明日、参観日だって、クラスメイトが父さんが来るの楽しみって、」
返事してくれよ。
蓮次が最後にそう言うと、背後から微かな笑い声が聞こえた。
それが引き金になったのかどうか、蓮次は近くに落ちていた刃物を手に取る。
そこからの記憶は無い。
***
時間は少し遡る。薬師寺善造は、義仁から連絡を貰っていた。詳細は言わなかったが、『もし十分経って俺から連絡が無かったら、ここに来てくれ』と、住所を告げた。裏の世界に入って間もない善造だったが、義仁とは学生の頃から親交があって、そのつながりでたまに霧原組のメンバーの治療などをしていたのだ。
時計の長針が二つ数字を進めた。
「…何をしておる、義仁」
善造は立ち上がって、バイクで先程義仁から聞いた場所へと向かった。
妙な胸騒ぎがした。
***
暗記した地図の通りそこに向かうと、善造はその倉庫のような場所の扉を開ける。
一番に気付いたのは、むせかえるような、室内に充満する血の匂い。いったい何人の血か、と鼻を塞ぐ。
そして次に気付いたのは、そこで唯一の生者である男…子ども?であった。善造は記憶を辿る。あれは、
「貴様、義仁の息子の―――」
善造が近付いて子どもの肩に触れる。
それと同時に、右目の視界が消えた。
「!?」
右目に触れる。顎から右目を通って額まで、完全に切り裂かれていた。咄嗟に身を引いていなかったら、どうなっていたか知れない。善造は信じられないような気持ちで、恐らく自分の右目を切り裂いたであろう目の前の少年を見た。こんな子どもに、自分が、と衝撃を受ける。
「はっ、はぁっ…」
苦しそうな息が聞こえた。焦点が合うと、そこにはやはり蓮次の姿があった。血まみれだが、恐らく自分の血ではないだろう。あれが自分の血なら、子どもはもちろん大人でもとっくに致死量だ。
「…おい」
善造は、右目を押さえ、蓮次との距離を測りながら話し掛ける。蓮次が目を善造に向けた。声は聞こえているらしい。善造はちらりと蓮次の後ろを見る。大量の男たちの死体の中に、義仁がいるのはすぐに分かった。歯を食い縛る。
「…何をしているんじゃ、義仁」
「……ぜんぞう?」
声を聞いてはっとしたのか、蓮次は焦点の合った目で善造を見た。何だあの傷、と善造の右目を見てそう思う。そして、自分の手にナイフが握られているのに気付いた。
「…!ぜ、ぜんぞ、それ、俺が、」
「それも、貴様じゃ」
善造が蓮次の後ろを指差す。テレビでも見たことがないくらいの量の死体に、息を飲んだ。そして、義仁を見る。
「そ、そうだ、あんた、医者だろ!?これ、父さん、治してくれよ」
善造は思わず顔を歪める。分かっているだろに、認めたくないのか、と。善造は蓮次に近付き、頭に手を置いた。
「残念じゃが、医者と言えど、死人は治せん」
からん、と蓮次が刃物を落とす。声は上げなかった。ただ、静かに泣き始めた。ぎこちない動作で蓮次を撫でながら、動かなくなった義仁を見る。
(貴様まで、儂の前から消えるのか)
先に亡くした、何よりも大事な人を思い出しながら、頭の中で義仁にそうぼやく。おい、息子を置いてどこに行く、と。義仁のへらりと笑う顔が見えた気がした。
(…ふん、貴様の言いたいことなど、言われなくても分かっておる)
「おい、坊主」
蓮次は、自分が呼び掛けられたのは分かったものの、返事も顔を上げることもしなかった。善造は無理矢理蓮次の髪を引っ張って顔を上げさせると、続けた。
「霧原組を継ぎたいか?」
***
「組長、聞いてますか」
はっとして、蓮次は顔を上げる。一瞬誰に呼ばれたのか分からなかったが、すぐに、秀二、と返す。随分昔のことを思い出していたようだ。
「こんな時にぼーっとして、どうしたんですか」
「いや、何でもねえよ」
それより、と周りの三人を見回す。
「今から愛華連れ戻しに本条組に行くわけだが」
話を聞きながら、秀二は蓮次の顔を見る。さっきよりも随分落ち着いている気がした。
「恭四郎、お前は残っとけよ」
「え、」
思わず声が出たが、まぁ当たり前だよな、と恭四郎は思う。非力であることがもどかしかったが、着いて行って迷惑をかけるよりは断然マシだった。
「…分かった。けど、連絡してくれよ」
「分かってる」
続いて、秀二と雅人を見る。
「愛華連れ戻すんなら、あんまり派手には動けねえ。愛華のことが裏に知れ渡ると面倒だからな。俺らだけで行くことになるが、いいな?」
「はい」
「本条組程度の規模なら大丈夫っしょ」
よし、と蓮次が言い、三人が組を出る。
「あ、組長」
恭四郎が声をかける。蓮次が振り返った。
「もうがきんちょの親は、あんたしかいないっすからね」
蓮次は少し目を見開くと、ふん、と笑って今度こそ組を出た。
***
本条組へは車で向かった。運転しているんは秀二だ。向かう途中、会話はほとんど無かった。助手席に座っている雅人は、ちらりと後部座席に座っている蓮次を見る。
(…こっわ)
視線を前に戻した。表情には出ていないが、蓮次の周りの空気の色が普段とはまったく違うのを感じる。愛華ちゃん攫ったりするからだよ、と本条組の者に向かってざまあみろ、と思った。
「もうすぐ着きますよ」
車を二十分ほど走らせた時に、秀二が言った。三人とも車から降りる。蓮次が進み、後に続くように秀二と雅人も本条組の中に入る。室内は足音が響くので、意識して足音を消し、歩く。耳に意識を集中して、聞いたことのある声がしないかと探す。そして、薄汚れている鉄の扉の前で立ち止まった。
(…俺が誘拐された時、こんな気持ちだったのかよ、親父)
すぅ、と息を吸い込むと、勢い良く扉を蹴り開けた。
(何でそこまでして助けに来れるのかと思ったけど)
「ちぃーっす。娘迎えに来たんですけど」
今なら分かるよ、親父。
To be continued...