第270話 霞の向こうに見えたのは
「大丈夫ですか?」
ふわりと二人の目の前に光の翼が降り立った。
「ルージュ……」
「貴女ほどの天使が後れをとるなんて」
「面目ない」
リリィは少しずつ戻りつつある神気を確かめるように手のひらを開いたり閉じたりしている。
「ルージュ様、ひとまず彼女を連れて離脱してもらえますか。ここでは何やら神気を奪い取る何モノかがいるようです」
「神気を……? なるほど、了解しました。しかし貴女はどうするのです?」
「ワタシにはそれに対抗する手段があるようなので」
ミシェルは負の影達を拳で薙ぎ払っている美那を一瞥して、腰の後ろに携えた〈ニヴルヘイム〉を抜いた。
「解放せよ」
〈ニヴルヘイム〉の冷気が爆風のように一気に膨れあがり、ダウンバーストの如き突風を周囲に発生させた。
「凄まじい冷気ですね」
瞬時に上空に非難していた緋織が解放された〈ニヴルヘイム〉の冷気を見て呟いた。
「氷の〈星刃〉、〈ニヴルヘイム〉。目の当たりにするのは二度目ですが、相変わらず桁外れの〝力〟です。なぜ〝あんなモノ〟がこの三次元にあるのか」
「そうね。そしてその神器級の刀剣を扱える〝星剣使い〟。彼女達は何のためにアレに選ばれたのか。私達には見届ける義務があります」
「ええ。彼女達は善なのか悪なのか。この目で確かめる必要があります」
リリィの言う善悪は勿論、神にとってそうであるかを指している。
「願わくば、神の怒りに触れぬことを───」
「うおっ……」
突然の強風に身を屈め、右腕で顔をガードしてやり過ごす美那。
その目の前で黒い影達が散り散りになって消えていく。
「すごいね~、ミシェルの〈星刃〉」
咄嗟に名前が浮かんでこないのは、その銘をきちんと聞いたことがないからか。
やがて強風が止むと、ミシェルがいた辺りに巨大な氷塊が出来上がっていた。
それにみるみる亀裂が入っていき、破裂するように砕け散ると、中から覚醒装束〈オーロラ・ボレアリス〉を纏ったミシェルが現れた。
同時に黒い影達もまた、再び集まってきて姿を取り始めた。
「……ん?」
美那はふと、姿を取り始めた黒い影の中に赤い個体が混じっているのを見つけた。
「やっぱ、大元を叩かないと消えない感じかな」
そして赤い個体を目がけて駆け出した。
「ミナ?」
〈オーロラ・ボレアリス〉を顕現し終えるたところで、美那がどこかへ駆けて行くのが見えた。
「あの方向に何か……?」
向けた視線の先に、他の負の影とは異彩を放つ紫色の個体を捉えた。
「なるほど。あれが核となっている個体なのね」
それに〈ニヴルヘイム〉を向けて、無詠唱で氷の矢を放つ。
氷の矢は風を越える迅さで真っ直ぐ、斜線上の負の影達を薙ぎ払いながら進む。だがあと少しで紫の個体に届こうかというところで、影達が集まり壁を成して氷の矢を相殺してしまった。
「なっ……」
『氷の矢』はミシェルの扱う氷結魔術の中でも最低ランクの魔術だ。だがそれだけに高速の連射や大多数の同時展開に使用しても魔力をそれほど消費しないという利点もある。
彼女が放ったのはたったの一発だったが、膨大な魔力を持つ上に〈星刃〉を覚醒状態で使用している。それは他の術者の使う高ランクの氷結魔術の威力を遥かに上回る。
彼女はそんなことを気にかけるタイプではないが、肉の壁ならぬ薄っぺらくて厚さがあるかどうかもわからないモノで相殺されたことには何か理由があるはずと思考を巡らせる。
「物理的な厚さではなく、概念的な干渉による防御。ひとつひとつは物理的にも概念的にも薄いけれど、数を重ねることで強度を嵩増ししたといったところかしら。ならば───」
ミシェルは片膝をついて地面に〈ニヴルヘイム〉を突き刺した。
すると突き刺したその場所から、ライヴや舞台の演出に使われるスモークのように冷気が地面を伝っていく。それは瞬く間に拡がっていき、冷気に触れたものすべてを凍りつかせていく。
やがて視界の負の影の悉くを凍りつかせ、紫色のヤツに冷気が触れると忽ちのうちに氷塊と化した。
「少しやり過ぎたかしら」
そう心にもないことを呟くと、その手に握る〈ニヴルヘイム〉に魔力を込める。すると魔力が凍りついた大地を伝っていき、氷像と化している数多の負の影に亀裂が入って粉々に砕け散った。
そして伝播する魔力が紫の個体の氷塊に届こうとしたその時、ミシェルの全身を戦慄が駆け抜けた。
「───っ!?」
咄嗟に〈ニヴルヘイム〉を地面から引き抜いて警戒水位を高める。
直後、氷塊を中心に辺りの地面が脈動したような錯覚を覚えた。
「……この嫌な気配。まさか───」
覚えのある禍々しい気配。
彼女にとって決して忘れることの出来ない、トラウマとも呼ぶべき過去を呼び起こす。
「───「『嵐吹き荒れる奈落……』」
「待ちなさいっ!」
いきなり大魔術を放とうとしたミシェルを止める声がした。
「───っ!?」
ミシェルの肩を強めに掴んで強引に止めさせたのはリリィ・フェニックスだった。
「リリィ?! 邪魔をしないで! あれは───」
「貴女はこの地の結界までも破壊するつもりですか?」
「ルージュ様……」
目の前に舞い降りた緋織を前にして〈ニヴルヘイム〉に込める魔力を弱めていく。行き場のなくなった魔力は緋織によって神気で包み込まれてそのまま霧散した。
「あれは、あの時のヤツではありません」
言い聞かせるようなリリィの呟き。
(あの時……?)
緋織は心の中で首を傾げる。
「しかしあの気配は───」
「そうですね。あの時の気配によく似ていました。しかし何といえばいいでしょうか。威圧するような雰囲気がまったく別モノだと思いました」
「…………っ」
言われてみればといった表情のミシェル。
持ち前の冷静さを欠いてしまうほどその相手に思うところがある。包み隠さずに言うなら憎んでいる。
「それにもうあの個体は既にそこには存在しません」
リリィが諭すように氷塊を指して言う。
「くっ───」
彼女の掲げる〝復讐〟。
未だその影すら見えない大本命に、少し近づいたような気がした。
つづく




