2.「ねぇ、もう見てくれないの」
暗闇の中、女性の悲鳴が響き渡った。
恐怖に引きつった顔。見開かれた目。
必死で逃げ惑う彼女は嫌な汗でびっしょりだ。
何かがぬちゃりと嫌な音を立てて、彼女に襲い掛かり――――
「いやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「そんなに脅えないでよ、作り物如きに」
パチンと音を立てて、パックは小さな箱の扉を閉じた。
するとナギに悲鳴を上げさせる原因となった幻影も同時に消えた。
腐れた肉と成り果てた、彷徨える死体が女性を襲う恐怖映像――――そんな恐ろしい幻影を閉じ込めたアイテムが最近、この魔界で流行り始めているらしい。パックはどんな手段でかそのアイテムを手に入れたようだった。 そして何も知らないナギに披露して見せたのだ。
「ナギ、面白いものを手に入れたんだ。君に見せたくてもってきたんだよ。一緒に見よう」
そういって。
一見して小さくて可愛らしい宝石箱のようだった。
それを差し出すパックの笑顔もまたすばらしかったので、ナギは夢見心地のまま頷いたのだ。
そして、すぐに後悔した。
「また泣いてる。目が真っ赤だよ、ナギ」
涙で濡れた頬をパックの指先がぬぐう。
透明な雫が彼の指先で弾かれ、宙で砕けた。
「魔物もヘンなことをするものだね。君たちの中には余程こんな作り物よりも奇怪な姿をしているものもいるというのに。……それとも作り物だからこそ怖いのかな。どうなの、ナギ?」
いまだ涙を止められず、震えるナギには答えることが出来ない。
黙って首を横に振るだけだ。
「わからないの? ふうん」
彼はつまらなそうに唇を閉じると、蓋を閉じた宝石箱のようなアイテムをお手玉のように何度か宙に放り投げた。
ナギはその度にまたあの恐ろしいモノが見えないかどうか不安で仕方ない。
俯いて、ぎゅっとパックの服の裾を握った。
何かに縋りたくて仕方ない。そうでなければ自分を見失いそうだった。
「怖いの?」
聞かれてナギはすかさず頷いた。
「本当に君は弱虫なんだね」
おかしいの、と彼は本当におかしそうに笑った。
「でも、どんなに怖くても僕の服は何も君を助けてくれないよ?」
そう言って、パックはナギの手を自分の服から引き離した。
「あ……」
「ねぇ、こっち見てよ」
彼女はまだ引き離された彼の服を見ていた。
まだ顔を上げるのが怖かった。
彼の笑いを含んだ声に何かを感じる。
また、あの怖いものを見せられるのではないか――――そういう不安が湧き上がってくる。
「何もしないよ。信じてくれないの?」
「いえ、そんな」
「だったらこっち見てよ。ねぇ、もう見てくれないの?」
悲しそうな響きでそう言われてしまってはナギも顔を上げざるを得ない。
恐る恐ると顔を上げると、ナギの頬に彼の手がかけられた。
そのまま頬と、耳たぶ、首筋をそっと撫でられる。
甘い疼きがナギの身の内を走った。
彼の手が優しく彼女の肌をなぞるたび、彼女はいつも甘く切ない感覚に陥るのだ。
「見た目は君の方がお姉さんなのにね。泣き顔は本当に可愛いよ、ナギ」
パックがうっとりとした声で、ナギの耳元で囁く。
それはナギにとっては大変不本意なことなのに、彼に可愛いといってもらえるならいいという気になってしまう。
「君が可愛く泣くから、ついつい泣かせちゃうんだ、ごめんね?」
謝罪になっていないそんな言葉で謝られてしまうから、彼女は彼に何度泣かされても怒ることができないのだった。
***
何度も背をさすられて、ナギが漸く落ち着いたのを見計らって少年は口を開いた。
「でも、魔物でも怖いものがあるんだね。世の中では僕は女性に怖いものはないんじゃないかと思っていたよ」
パックは何かを思い出すような表情を浮かべている。
彼にそう思わせる何かが、過去にあったというのだろうか。
でも、女性――――?
「あれ、何か不機嫌になってる?」
「別に、なんでもないです」
「もしかして妬いてるの?やだな、ナギ」
「別に。人間なんかに妬いてなんて……」
「ナギは本当に面白いね。魔物は余り独占欲はないのかと思ってたよ。ほら、魔物の中には不特定多数の相手と付き合うような者も結構多いと聞くからさ。……そうでもないのかな? そういえば、魔王様の側近はご執心の相手がいるんだってね。この間、誰かがそのせいで消されたと聞いたよ」
「先日。シィ=タクェという者が……」
「ああ、そんな名前なのか。流石に僕みたいな只の人間に詳しい情報は回ってこないからね」
その割りに、彼はいろいろなことを知っているし、今回みたいなアイテムをどこからか手に入れてくることもある。本当に不思議だ。
「一度見て見たいね、魔王様の側近にそうまでさせる女性を。人間と聞いたけど」
「……」
「綺麗な顔が台無しになってるよ、ナギ。心配しないで。別に純粋なる好奇心だから」
「……」
「おや、へそを曲げてしまったかな。それじゃ一つ教えてあげる。さっき僕が思い出していたのはね、僕の姉のことなんだ」
「お姉さん……?」
「そう。怖いもの知らずというか、すさまじく全てに対して鈍感というか、思考が少し人とずれているというか……とにかく、僕にはよくわからないところのある姉でね。人間の女性の大半は黒くてテラテラしたゴミに集る虫を嫌っていることが多かったのだけど、うちの姉はしげしげと観察しているくらい余裕があったりしたし。怖いものがあるのかすらわからなかったな。そういえば、僕がここにくる少し前にいなくなっていた気がするけど、どこいっちゃったんだろうな」
「消えた……?」
「うん。そんな気がするだけだけど。何しろ、僕の家は貧乏子沢山を地でいく家だから、一人二人いなくなってもなかなか気付かないのさ」
人間は魔族などより血族の絆を尊いものと考えていると思っていたのだが、違ったのだろうか。
それとも、彼の家は特殊なのだろうか。
「うん? 珍しいと思ってる? 別にそうでもないと思うけど……まぁ、うちに細かいことを考える人間が少ないせいもあるかもね。それに、一人二人消えたくらいで心配するにはうちの家族は多すぎる。そうでなければ、君についてなんてきてないよ、ナギ」
彼を魔界につれてきたのはナギだ。
彼は抵抗もせずに従った。人間界からこちらに来るのはたやすいが、魔界から人間界に戻るのは魔族ならともかく、人間には酷く難しい。
二度と戻れないかもしれないのに、彼はそれを説明しても「いいよ」と二つ返事で彼女についてきたのだ。
「もしかしたら、この魔界にいるかもしれないね。僕の姉も――彼女なら、きっと魔王様でも怖いと思わないんじゃないのかな」
彼は首を傾げてそういった。
「そんな人間いる筈がありません」
そんな人間は、きっと魔王様に現在付き従う只一人の召使くらいだろう。そういえば、彼女があの魔王様の側近の思い人だったか。
「まぁね。あくまで仮の話だよ。実際、うちの姉もまさか魔界になんてきていないだろうしね。僕と姉がこの魔界に一緒にいるなんて偶然、そうそうあるものじゃないだろうし。あまつさえ、彼女が魔王様に会う確率なんてそれこそもっと低い低い可能性だろ?」
「ええ」
「だから、想像の世界のお話だよ。もしそうだったら面白いねっていうあくまで妄想さ」
まさかそれが現実に起きていることだとは知らず、パックが「ありえない話だけれどね」と、一言で切り捨ててその話はお仕舞いになった。
彼の魔王様の唯一の召使の名前はキミィ=ノランという。
紛れもなく、少年の姉の名前だったが、幸か不幸か魔王様の召使のことは有名でも、その名前を知るものは殆ど誰もいなかった故に、パックもナギもその事実に気付くことはなかった。