心臓が止まった男、辺境で目覚める
心臓が、止まる音を聞いた。
ドクン、と。それが最後の鼓動だった。
自衛隊統合幕僚監部の地下三階。窓のない戦史・戦略分析室。
蛍光灯の白い光が、積み上げられた書類の山を均等に照らしている。
モニターには中東の紛争データ。机の上には冷めきった缶コーヒーが三本。そして、四本目に手を伸ばしかけた指先が、虚空で震えていた。
三十八歳、独身。黒木達也。
階級は三等陸佐。表向きは戦史研究班の班長だが、実態は「ありとあらゆる戦争のパターンを分析し、次の紛争を予測する」という、地味で終わりのない作業を二十年近く続けてきた男だ。
三日徹夜。それが直接的な死因だったと思う。
あるいは、もっと前から死んでいたのかもしれない。妻も子もなく、友人と呼べる人間も片手で数えるほど。あるのは分析資料と、誰にも読まれない報告書だけ。
俺の人生は、いったい何だったのだろう。
そんな問いが脳裏をよぎった時、意識が暗転した。
後悔はなかった。ただ、ひどく眠かった。
***
次に目を開けた時、最初に認識したのは「寒さ」だった。
骨の芯まで染み入るような、湿った寒気。
東京の冬とは違う。もっと原始的で、容赦のない寒さだ。
天井を見上げた。
コンクリートではない。木だ。節くれだった太い梁が、煤で黒ずんでいる。
壁は石積みで、隙間風がピューピューと音を立てて入ってくる。
「……ここ、どこだ」
声を出そうとした。だが、喉が枯れている。
出た声は、自分の声ではなかった。高く、細く、まだ変声期を迎えていない少年の声。
俺は慌てて体を起こそうとした。腕に力が入らない。
視界に飛び込んできたのは、細い、枯れ木のような腕だった。子供の腕だ。
その瞬間、頭蓋を割るような激痛が走った。
「ぐっ……!」
両手で頭を押さえる。だが、痛みは収まらない。
代わりに、他人の記憶が、濁流のように脳に流れ込んできた。
アルデン・ヴェラム。十二歳。
ヴェラム王国、北辺境伯領。貧乏伯爵家の三男。
ただし、正妻の子ではない。元使用人の娘・エリザとの間に生まれた「庶子」。
記憶は断片的だが、強烈だった。
この屋敷——ボロ屋敷と呼ぶ方が適切かもしれない——は、代々ヴェラム伯爵家が治めてきた北辺境の領地、エルムフォードにある。
人口は領地全体で約八千人。農業と細々とした鉄鉱石の採掘以外に産業はない。
父である当代の伯爵、ガレス・ヴェラムは、武勇には長けているが経営の才がない男だ。
先代から受け継いだ負債は膨れ上がり、領地の税収は年々目減りし、屋敷の使用人の給金さえ滞りがちになっている。
そして、俺の母エリザは——
「ゴホッ……ゴホッ、ゴホゴホッ……!」
壁の向こうから、肺を引き裂くような咳の音が聞こえてきた。
俺は飛び起きた。
***
廊下は暗く、床板が軋む。
この屋敷の「離れ」は、本来は使用人の控え室だった場所を無理やり住居に改造したものだ。二部屋しかない。一部屋が俺の部屋で、もう一部屋が母の部屋。
母の部屋の扉は、歪んでいて 제대로閉まらない。
隙間から、薬草を煎じる苦い匂いが漏れ出している。
「母さん……?」
扉をゆっくり開けた。
薄暗い部屋の中で、痩せ細った女が寝台に横たわっていた。
三十五歳だというが、五十歳にしか見えない。頬はこけ、唇は青白い。
茶色の髪はパサパサに乾燥し、寝返りを打つたびに枕の上に抜け落ちる。
エリザ。アルデンの母。
かつてはこの屋敷で洗濯係として働いていた女。
伯爵ガレスに見初められ、一夜の関係を持ってアルデンを産んだ。だが、ガレスの正妻・マルセラにそれを知られ、屋敷の隅に追いやられた。
ガレス自身は、アルデンの存在を完全に無視しているわけではない。たまに顔を合わせれば「元気でやっているか」と声をかけてくれる。だが、それだけだ。
正妻マルセラの手前、庶子と元使用人に十分な生活を与える勇気など、あの男にはない。
「アル……デン……?」
母が、かすれた声で俺の名を呼んだ。
熱があるようだ。額に触れると、火のように熱い。
「大丈夫だよ、母さん。少し休んで」
俺は毛布の端を引き上げ、母の肩にかぶせた。
その動作の間に、アルデンの記憶と黒木の記憶が、ゆっくりと融合していくのを感じた。
感情が、込み上げてきた。
これはアルデンの感情だ。十二歳の少年が、病気の母を前にして感じてきた、無力感と恐怖と哀しみ。
だが同時に、黒木達也の感情でもあった。前世の俺が、誰一人守れずに死んでいった後悔。
俺は一度、部屋を出て、廊下で壁に背を預けて座り込んだ。
冷静になれ。
感情的になっている場合ではない。
***
まず、現状を把握する。
自衛隊で培った分析手法——SWOT分析と軍事戦略のフレームワーク——を、自分自身の置かれた状況に適用する。
俺は頭の中で、見えないホワイトボードに書き込んでいく。
【強み(Strengths)】
・千年分に及ぶ地球の戦争史・軍事戦略の知識。
・情報分析官としての思考訓練(パターン認識、リスク評価、シナリオ分析)。
・伯爵家の三男という「貴族の身分」。名目上は、領民に対して一定の発言権がある。
【弱み(Weaknesses)】
・十二歳の貧弱な肉体。武術の訓練は一切受けていない。
・魔法適性なし(アルデンの記憶によれば、魔力測定で「零」と判定されている)。
・極度の貧困。離れに割り当てられている生活費は、月あたり銀貨三枚。これは平民一家の半分以下の水準だ。
・庶子という立場。正妻マルセラの子、嫡男ロイドと次男カイルから見れば、俺は「いない方が都合がいい存在」。
【機会(Opportunities)】
・父ガレスは年に数ヶ月、辺境警備の視察で不在にする。その間、屋敷の管理は筆頭執事のモリッツに委ねられている。
・母エリザは元使用人。屋敷の下級使用人たちの中に、まだ彼女に同情的な人間がいる可能性がある。
・北辺境は「忘れられた土地」。中央貴族の目が届かない。つまり、目立たずに動ける。
【脅威(Threats)】
・母の病状。適切な薬がなければ、確実に悪化する。
・マルセラの妨害。彼女はアルデンを「伯爵家の恥」と見なしており、あわよくば追い出したいと考えている。
・そして——
俺は目を閉じ、アルデンの記憶の奥底にある「世界地図」を呼び出した。
ヴェラム王国。
大陸アエトンの中央部に位置する小国。人口約三十万。常備軍は約三千。
三方を大国に囲まれている。
北と東——ラズラン帝国。人口二百万。常備軍八万。軍事力を背景に領土拡大を続ける好戦的な帝国。現在の皇帝は老いているが、皇太子が强硬派で、次の代で必ず外征を行う。
南——ソレイス教国。人口百五十万。「光の神」を信仰する宗教国家。一見平和的だが、異教徒に対する「聖戦」の教義を持つ。ヴェラム王国の国民は独自の土着信仰を持っており、教国から見れば「潜在的な改宗対象」すなわち「正当な侵略対象」だ。
西——オルヴァーネ商業連合。人口百万。商人貴族たちが支配する金権国家。軍事力はそこそこだが、経済力で他国を支配する。ヴェラム王国はすでに多額の借金をしており、連合の「経済的属国」になりかけている。
三大帝国の力関係が均衡している間、ヴェラム王国は「緩衝地帯」として存続できる。
だが、アルデンの記憶にある最近の出来事——国境付近での小競り合いの増加、教国の宣教師の活動活発化、商業連合のヴェラム商人への圧力強化——を分析すると、均衡が崩れるのは遅くて十年後。
十年後、この国は地図から消える。
そして、その時、この辺境の領民たちはどうなるか。
ラズラン帝国に併合されれば、重税と徴兵。ソレイス教国に征服されれば、強制改宗と異端審問。オルヴァーネに吸収されれば、 debt奴隷(債務奴隷)としての一生。
どれを選んでも、庶民に未来はない。
母も。この屋敷で細々と働く使用人たちも。領地の農民たちも。
全員が、戦争の歯車に轢き潰される。
***
俺は廊下で立ち上がった。
前世の俺は、デスクの上で誰一人守れずに死んだ。
戦争を分析するだけで、戦争から誰も救えなかった。
報告書に「予測される死者数:約十二万名」と書いて、それでおしまい。数字として処理して、それで終わり。
だが今は違う。
壁の向こうで咳をしている女は、俺の母だ。数字ではない。名前があり、体温があり、俺のために命を削ってきた人間だ。
この屋敷には、年老いた筆頭執事モリッツがいる。アルデンの記憶によれば、彼は母がかつて使用人だった頃から、何かと世話を焼いてくれた人間だ。
台所には、料理番の婆さんベルタがいる。彼女はアルデンが小さい頃、こっそりパンの耳を分けてくれた。
馬小屋には、馬番の少年トムがいる。まだ十歳で、親に捨てられてここで働いている。
彼らは「数字」ではない。
「……よし」
俺は小さく息を吐き、頭の中の作戦会議を始めた。
眼前の課題は一つ。母の薬代を調達すること。
エリザの病は肺の感染症らしい。この世界では「青熱病」と呼ばれている。
適切な治療薬——「蒼麻草」の精製薬——があれば治るが、精製薬は一瓶につき金貨一枚。
金貨一枚は、銀貨百枚。現在の俺の月給の三十倍以上だ。
では、どうするか。
力はない。魔法もない。人脈もない。
だが、知識はある。
そして、この世界にも「経済の法則」は存在する。
アルデンの記憶を漁れば、この辺境には二つの商会——ハーゲン商会とペルト商会——があり、薬草の取引を巡って熾烈な競争をしている。
競争があるということは、そこには「隙」がある。
俺はニヤリと笑った。自衛隊時代の上官がよく言っていた言葉を思い出す。
『黒木、戦争の本質はな、兵隊の数じゃない。情報の非対称性だ。敵が知らなくて俺だけが知っていること。それが勝敗を決める』
情報の非対称性。
千年の戦争の歴史の中で、商人を潰し、国を傾かせ、帝国を倒してきた、あらゆる経済戦術。
その全てが、俺の頭の中にある。
十二歳の少年が、金貨一枚を稼ぐ方法など、いくらでもある。
「第一步。母を治すための資金を、三日以内に調達する」
俺は暗い廊下で、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「第二步。この家の財政を立て直し、基盤を作る」
「第三步。辺境の軍事力を強化し、大国の侵攻に耐える体制を構築する」
「最終目標。ヴェラム王国を三大帝国の狭間で生き残らせる」
剣は振るわない。
魔法も使わない。
だが、千年の軍事知識があれば、大国すら跪かせることができる。
辺境の貧乏貴族による、誰にも知られることのない「戦争」が、今、始まった。
その時、廊下の奥から足音が聞こえた。
「……アルデン様? こんな時間に、どうされたのですか」
蝋燭の明かりを手に現れたのは、白髪の初老の男——筆頭執事のモリッツだった。
彼は驚いた顔で俺を見ている。おそらく、いつもの内気なアルデンとは違う表情をしていたのだろう。
俺は一瞬考え、そして決めた。
この老人は、使える。
いや、使わせてもらう。
「モリッツ。少し、話を聞いてほしい」
俺はできるだけ落ち着いて、十二歳の少年としては不自然でない程度に、しかし十二歳の少年とは思えないほど明確に、言葉を紡いだ。
「明日、ハーゲン商会の主人に会いたい。アポイントを取ってくれるか」
モリッツの目が、驚きで見開かれた。
「ハーゲン商会……? 薬草を扱っているあの商会ですか? アルデン様が、一体何の用事で……」
「取引だ」
俺は言った。
「彼らが喉から手が出るほど欲しい情報を、俺は持っている」
それは嘘ではない。
この世界の経済構造と、地球の商業史を照らし合わせれば、ハーゲン商会の「弱点」と「欲望」が、手に取るように分かる。
モリッツはしばらく、蝋燭の炎のように揺れる視線で俺を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「……かしこまりました。明日の朝、手配いたします」
「ありがとう、モリッツ」
「……アルデン様」
「ん?」
「何か、変わられましたな。今朝までとは、まるで別人のようです」
俺は答えなかった。
別人と言えば別人だし、黒木達也の延長線上の存在と言えばそうでもある。
ただ一つ言えることがある。
俺はもう、デスクの上で死なない。




