第16話 花の香りは、遠き海を越えずとも
――大奥構造改革編・価値観を覆す一撃
大奥の奥庭。
夏の花が咲き誇り、
薄紅、白、紫の香りが風に乗って流れていた。
お縫は、
その花々をひとつひとつ手に取り、
鼻先でそっと香りを確かめた。
(……この香り。
南蛮の香水に負けていない。
ただ“閉じ込める術”がないだけ)
そこへ、女中たちが駆け込んできた。
「お縫様、大変です!
本多様が“南蛮香水”を御台所様に献上したとか!」
「値が張るどころじゃないよ……
大奥一年分の薬代が吹き飛ぶ額だって!」
お縫は、静かに目を細めた。
(本多……
海外商人との密貿易で、
権威を取り戻すつもりね)
だが――
お縫の口元には、
わずかな笑みが浮かんでいた。
(ならばこちらは、“和の香り”で勝つ)
◆
お縫は御納戸の裏手に、
水野を呼び出した。
「例の“冷やす道具”、用意していただけましたか?」
水野は頷き、
木箱を開けた。
中には、
二重の桶と、
細い竹筒、
そして氷室から取り寄せた氷。
「これで“香りを閉じ込める”のだな?」
「はい。
花の香りは、熱では逃げます。
ですが――
冷やせば、落ち着き、
水に溶けて留まります」
水野は感心したように息を漏らした。
「南蛮の蒸留とは逆の発想か」
お縫は、花びらを桶に浮かべた。
「江戸には江戸のやり方がございます」
◆
氷で冷やされた桶の中で、
花びらはゆっくりと香りを放ち、
水に溶け込んでいく。
お縫は竹筒でそっと香りを吸い上げ、
小瓶に移した。
「……できました」
水野が瓶の蓋を開け、
香りを確かめる。
「……これは……
南蛮の香水より柔らかく、
深い香りだ」
お縫は静かに頷いた。
「和の花は、強く主張いたしません。
ですが――
寄り添うように香ります」
◆
翌日。
お縫は御台所の前に進み出た。
「お縫。
本多より“南蛮香水”を献上されたが……
どうにも鼻に刺さる香りでな」
お縫は深く頭を下げ、小瓶を差し出した。
「こちらは、
大奥の庭に咲く花々を、
冷やして閉じ込めた香りにございます」
御台所は瓶を開け、
そっと香りを吸い込んだ。
「……なんと優しい……
胸の奥にすっと染み入るような……
これが、江戸の香りなのですね」
お縫は静かに答えた。
「遠き海を越えずとも、
美しき香りは身近にございます」
御台所は深く頷いた。
「南蛮香水は、もう要りません。
これからは“和の香り”を使いましょう」
その言葉に、
側仕えの女中たちがざわめいた。
「本多様の香水、全部お蔵入りだって……!」
「南蛮商人の利権、終わったね……!」
◆
その夜。
水野が御納戸に戻ってきた。
「本多が“香水の売上が消えた”と怒鳴っていた。
南蛮商人も青ざめている」
お縫は、静かに目を細めた。
「香りは、
遠き海を越えずとも作れます。
大奥の庭に、いくらでも」
水野は笑った。
「お前の工夫は、
贅沢の価値観すら変えてしまうのだな」
お縫は、前髪の奥で静かに微笑んだ。
(本多。
あなたの“海外の逃げ道”は、
これで閉ざされました)
夜風が、
庭の花の香りを運んでいった。
(第17話へ続く)




