○南十字星○
ウサギはハレー彗星に振り落とされまいと必死に掴まった。そして氷霧ように溶け出すと、黒い染みとなり、ハレー彗星の背中に付着した。もはや実体は消え去り、文字通りハレー彗星の陰となったのだ。
月の陰から彗星の陰に変貌しても、見える景色に変わりない。確実に小さくなり、それでも決して消えることのない月を見て、ウサギは思いなす。
普段なら刺激を求め、喜びを見つけ、自慢の戸棚から美しい言葉を選び出し、誰彼構わず気軽に聞かせていたであろう。言い返すことのない哀れなクマゴロウなどはよい獲物だ。直ぐさまその舌の餌食にしたに違いない。
だが今この時は、千言万語、一言も発することはなかった。辺りは水を打ったような静けさだが、頭の中は騒がしく、激しい騒音が流れているかのようだ。
川の流れに身を任せるように、惰性で彗星に飛び乗って見たものの、その行く末を思うと、まるで巨大な岩を頭の上で抱えているように、不安で押しつぶされるようになる。
混乱し、思考が追いつかず、想いがまるで渦潮の流れの如く激しく巡り回っている。ウサギは心を落ち着かせるために目を閉じ、風の歌を聴く。
ハレー彗星の流れに沿って、僅かな気流が、風となり、音となってウサギに話しかけてくる。ウサギは心眼で見えない風を感じ、確かに風が作り出す楽譜をその目に刻んだ。楽譜に音符が刻まれる。優しい音色はウサギの不安を静かに、優しく、包み込む。
癒やしの旋律は、ウサギの不安を緩りとだが、確かに、確実に削り、やがて綺麗さっぱり取り除いていた。
真空の空間は、音も時間さえをも置き去りにして、何もかもが、得体の知れない、黒い領域に吸い込まれるように消えて往く。無とは行き着く先の総ての真実なのかもしれない。押し黙り、怡楽を得ることなく、深憂の念が強くなる。
だが緘黙しがたい事態にウサギは遭遇した。
清かな微風が肌にあたるかのように、何処からか一流のテノールが歌っているかのような、とても甘美で光彩を放つ楚々とした歌声が聞こえてきたのだ。
堪らずウサギは思い迷った果てに、ハレー彗星に声を落としてみた。
「あの、ハレーさん。とても素晴らしい歌声が響いているわね? 心に染み渡るとは、まさにこの事を言うのだわ。こんな歌を永年聴けたとしたなら、それは違いなく、とても良い子で過ごせるでしょうね?
千年王国で、正しい指導者に導いて頂かなくとも、きっと上手くやり遂げる自信があるわ。これってとても素敵ではなくて? ああ、これこそ至幸の極みだわ。極み、何て、ハレーさん経験があって?」
問答に期待せず、いつもの独り言のように、唯々一方的に喋る覚悟を決めていたウサギであったが、その予想は喜ばしい方向へと見事に外れた。
「この歌、いや、音色ですか? これは南十字星から聞こえてくる音色ですよ。何でもあの純白に赫く、十字の白光が震えて、様々な音色を奏でるとか。私どもは”賛美の音色”と呼んでいますね」
ハリー彗星は、随分と博識のようで、理知的に、そして軽やかに答えた。予想が外れたウサギは、喜び勇み、これぞとばかりに直ぐさま切り返した。
「そうですか。賛美の音色ですか。とても美しい響きだわ! でも、もっと栄光を称えるような、そうね、もっと素晴らしい言い様はないかしら?」ウサギは暫く黙り込み、思惟し、自信ありげに、
「"白光のササンクロス・神秘の歌声"なんてどうかしら? とても素敵ではなくて? 私嬉しくてぞくぞくするわ」
たがハレー彗星は賛美の音色とさほど変わりないと思った。
「するともうすぐ南十字星が見えるのかしら? 私これほどの遠乗り初めてだから、気持ちが上擦ってしまってよ。けれどもどうして南十字星は、あれほど美しく、清らかな音色を奏でるのでしょうね?」
ウサギは岩上で髪をくしげする、ローレライの歌声に魅せられて、溺れ死ぬ舟人のように、賛美の音色に身も心も虜にされ、死ぬことはないにしろ、見事なまでに溺れていた。
「随分と御執心のようですね。どうしても知りたいのですか?」
ハレー彗星が、何かしら意味ありげに、勿体付けるので、ウサギの底知れる好奇心が滾りだし、どうにも止められず、目を見開き何度も頷いた。
お喋りウサギが、唯々沈黙し、一心に請う姿を見たハレーは、何かしてやったりといった態度で喋り始めた。