○帚星ハレー彗星○
無限に広がる銀河の宙を、大きな彗星が光の残像を残しつつ流れている。静止しているようにも見えるが、一体どれほどの速度で飛んでいるのか。
真空で風の無い無音の宇宙では、どれ程のものか推し量ることなど出来ない。ただ夢幻ではなく、ハレー彗星は脇目も振らず一心不乱にひたすら飛んでいる。
いや、堕ちている、と表現するべきか。何か目的があるのだろうか。例えば至上者より大切な役目を賜り、崇高なる任務を堅実に着々と遂行している、とか。それとも何も理由は無く、誰かに鎖でも繋がれ引かれているのかも知れない。
兎に角ハレー彗星は音も立てず、静かに軽快に飛行していた。
「さあ、さあウサギさん。早く行かないとハレーが消えてしまうよ!」
にやりと笑う双子の兄を見て、目にかかった霧が一寸晴れていたウサギは、その得意顔を見て喩えようのない不安を頂いた。しかしその性格故の信義からか、それとも質朴からくる野望の為か。兎に角ウサギは晴れない不安を、深淵の奥底へと追いやることに成功したようである。
「兄さん、私、頑張るわ! 天地神明に誓ってやり遂げるとたった今決めたわ! ああ、でもお月様は悲しまないかしら? 露の間でも私がいなくなって心配をかけないかしら?
それはとんでもない悲劇よ。あんなに私を惟て心底心配してくれる方よ。なにも告げずに私の野心を満たすことが、あの方を傷つけないかしら? 決めたばかりなのに、もう振り子のように心が揺れているのよ。
ああ、まるで煮え切らないわね。だってそんな方を裏切るような行為にはならないと思えて?」
双子の兄は苛立ちを抑えきれず、思わず苦虫をかみつぶしたような表情をした。哀れかな、ウサギは悲劇の余韻に浸り、両手を胸の前に組み、厳かに祈りを捧げる姫君のように月を眺めていたので、その様を目にすることは叶わなかった。
そして暫し思考を巡らせた双子座の兄は徐に口を開いた。
「ああ、それなら心配いらないよ。私がお月さんにちゃんと言っておきますからね。ウサギさんはヒカリノタマを見つけた後、一緒に帰ってくるから、無用な心配は一切ないと伝えておけばいいのでしょう?」
「え、ええ… でも… 兄さんにそんな言付けをお願いしては失礼ではなくて? 私恩を受けても返す当てが全く皆無なのよ。代わりに差し上げられるものが天地神明に誓って、何もないのですもの。
ああ、それは少し嘘かしら? 私の全財産はこの七色天然石のブローチと、碧いフード付きの天鷲絨のコート、それにこの黄金色の瞳だけなのよ。
瞳は当たり前に差し上げれませんし、後はお月様から頂いた大切なお品ですから、とてもとても他人に手渡せるものではないのですもの」
すると双子の兄の苛立ちは限界にまで達したようで、憤怒の如く凄まじい形相でウサギを睨み付けた。
眼を曇らせていた霧は一瞬にして跡形もなく消え失せ、哀れウサギは蛇に睨まれた蛙ように身動き一つ出来ず、唯一動かすことが許された瞼で、パチパチと瞬きを繰り返した。そして身体の硬直が収まり我に返ったウサギは、うろたえながら右往左往にと逃げ回った。
すると双子の兄は押し黙ったまま、楽々とウサギを捕まえると肩に担ぎ上げ、まるでハンマー投げのオリンピック選手のように、ハレーに向かってウサギを勢いよく投げつけた。
ああ、哀しいかな、難しい言葉を拾い上げる引き出しの数は多いようだが、今この事態を解決に導く術を一欠片も持たないウサギは、息つく間もなく、あたふたしながら、幅跳び選手のように空中を何度も跳びはね、それでも見事にハレー彗星に掴まった。
果たしてその野心は叶い、ウサギはハレー彗星と共にユシカノホシへと向かうのである。
それでも月に黙って心の赴くまま、野心を叶えるために突き進んだ代償は、いつか何処かで、何らかの形で支払うのでないかとウサギは思った。
ハレー彗星にしがみついたまま振り返ると、双子の兄が意地悪そうに笑い、その隣では弟が不安げな表情を躊躇いなく顔色に出し、心配そうにウサギを見つめていた。
ウサギは怒りにとらわれ鬼のような形相をした兄を思いだし、優しくも美しいメロディーで奏でるように助言を与えた言詞が頭をよぎった。
―――双子座の兄はユシカの真似る―――
「つまり兄さんが見せたのは、ユシカの悪い振る舞いだったのかしら? それでもあんなに怒り狂うなんてあんまりだわ! それは、私は少しばかり誰彼よりよく舌が回るし、難しい言葉を使うわよ。それは分かるわ。だけどクマゴロウさんは何にも攻めずに黙って聞いてくれていたわ。
そうね、もしかしたら少しばかり辛抱していたかもしれないけどね。でも私、兄さんを許すわ。だって私の野心を知って手助けをしてくれたのですもの!」
哀れなクマゴロウが、度々ウサギの話を聞いても、全く理解していない事をウサギは自得していない。"知らぬが仏見ぬが秘事”、知らないことはある意味では幸せであろう。
ことウサギにとっては必要不可欠と言える。
ハレーから伸びる光の尾は、筆で書いたように、またはユシカノホシから見える、天の河の雲状の光の帯のように、青白い燐光を残しながら、流れるように伸びてゆき、ウサギもハレー彗星も、双子の兄弟の視界から消え失せた。
儚く消え失せる流星のように、視界から消えたウサギとハレー彗星を見定めた双子の弟は、心配そうに、咎めるように兄の顔を見た。
「兄さん。どうしてあんないい加減なことを言うのですか! 僕らは外見こそユシカと同じですが心は銀河にあるのです! ユシカの真似をして意地悪することなどないのですよ!」
「さあー なんでかね。ウサギがお月さんの声を聞けると、ほら吹いているからかね。まあ、そのヒカリノタマとやらを見つけられなくても、また七十六年後、ハレーと一緒に帰ってくるだろう。俺等からしたら、たいした時間じゃないだろ?」
すると弟は険しい顔つきになり、罪人を問い詰めるように兄を睨み付けた。
「ウサギさんがユシカに会ったなら、ユシカを知ったなら! 一体全体どうなると思うのですか?
きっと嘆き悲しみ、あの美しく一点の曇りのない硝子のような魂は、木っ端みじんに砕けてしまうに違いないのですよ!?」
弟の厳しい詰問に、まるで知らず知らずに犯罪を犯してしまい、ようやくその重大さに気づいた罪人のよいうに、兄は急に激しい虞れに襲われた。
「だ、大丈夫だよ! もし何かあればお月さんが、魔法の力でなんとかしてくれるさ!」
すると弟は呆れ顔で、争いで罪のない無垢で善人な子らを、消し去るよう命じた戦犯でも見るように、一切の擁護もない、軽蔑を込めた絶望的に深い溜息をついて兄の顔を見た。
「お月様の魔法は銀河以外では無用の長物。ユシカノホシに届くわけないでしょうに……――
もしユシカノホシに魔法を蔓延させるこ事が出来たなら、ユシカは一人残らず、争いの知らない、優しく慈悲深い者で溢れかえっているでしょうね」
「そ、それにしてたって。望んだのはウサギじゃないか! 自業自得さ! 自分でなんとかするさ! きっとヒカリノタマとやらを見つけて銀河にかえってくるさ!」
兄はそう言うとぶつぶつとなにか呟きながら、その底深い罪から逃れるように、さっさと何処かへ消え去ってしまった。
「ああ、このことを知ったらお月様はどう思うだろうか… とてもでもないが僕にはお伝えすることが出来ない。止めるこも叶わず行かせてしまった僕に、どのような罰が下れようが甘んじて受け入れよう。
せめてウサギさんの思いが叶い、銀河へ帰ってこられるように、今は唯々誠心誠意祈ると誓わせてもらうよ、ウサギさん」
弟は静かに頭を深く垂れ、慎ましく両手を胸の前に組み、ゆっくりと瞼を閉じると、何かぶつぶつと二言三言厳かに呟いた。




