○七曜星のクマゴロウと双子座の兄弟○
しばらく歩くと、ふわりとほのかな甘い臭いが漂ってきた。それもまた、風のない真空の銀河において不思議なことだが、違いなく甘い臭いは漂いウサギの鼻を刺激した。
甘いに臭いが漂う先で無数の光がチカチカと輝いている。それは星の輝きと異なる輝きであり、この甘い臭いはその光り輝く空間から漂ってきている。
ウサギは黒い顔を、まるで桜のようにほのかに薄ピンクに染め上げ、トロリとした面持ちで幸せそうに笑みを浮かべた。
「ああ、あれは天の河だわね。キラキラ輝いて相変わらず美しいわ。一体あの川底にはどれ程の宝石の原石が眠っているのでしょうね。それにあの乳の臭い。甘ったるくてとても癒やされるわね。あの川に浸ったら数分で深い眠りに落ちてしまうに違いないのだわ……――― あ、でもそうなったら溺れてしまうわね、それは恐ろしいわね」
ウサギの言葉に違いなく、誘うような甘い臭いを放ち、美しい輝きを放つのは天の河であった。それはまるで獲物を待つ蜘蛛の巣のようで、甘いに誘われて近づいたなら、その粘着の糸に雁字搦めにされて、心までもを捕らえるような、魅惑に満ちた、とても甘美なものだった。
誘われるまま、吸い寄せられるように天の河に着くと、七曜星をその体躯に刻み込んだ北斗のクマゴロウが、子狐の皮を七色に染め上げた、フード付きの天鷲絨の上着を着込み、脇目も振らず、七色に煌く魚を無我夢中で捕っていた。
ツキノウサギはクマゴロウに近づくと、
「クマゴロウさん、変わらず天の河は美しいわね。それに乳の臭いは変わらず私を癒やして下さるわ。川底は無限の星が敷き詰められたように輝いて、ねえ、この川底には一体全体どれ程の原石が眠っているのかしらね?」
「うーん、そうさねー おいらには全く見当もつかなね。この宝石の原石が減ることなど、全く見たこと無いからね。採っても採っても、知らないうちに詰まってるからねー」
「そうよね、不思議だわね。お月様は銀河の星等に宝石を贈るため、天の河で原石を採って贈るのだもの。もうそれは無限に採取したはずですのに。クマゴロウさんも頂いたでしょう?」
するとクマゴロウ少し照れ臭さそうに、赤く頬を染め上げながら嬉しそうに微笑んだ。
「そ、そうだよ。おいらの宝石は七つもあるでね。ほら、これさね。月様に頂いた宝石で、名前もあるでね。順番に、アルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・イプシロン・ゼータ・エータ。おいらの自慢だね」
天鷲絨で仕上げられた上着の胸元で光る、七つの宝石を見せながら、口べたで、人見知りなクマゴロウには珍しく、快活に、流暢に話した。
「ところでクマゴロウさん、ユシカノホシで生まれる、ユシカノヒカリノタマ、ご存じないかしら? とてもキレイで、もう、うっとりするほどなの。天の河の宝石の原石とはまた違った美しさなのよ。
あら、いけないわ! キレイでうっとりなんて! こんな簡単な表現ではヒカリノタマに対して失礼極まりない例えだわ!
そうね…―― 妖艶で、風雅。垢抜けていて才色兼備! ねえ、難しい言葉を使うととてもキレイに感じない? まるで目の前にあるように感じるでしょ? 不思議なの。何故かしらね?
私ね、美しくて難しい言葉が、自然と頭に浮かんでくるの。もうすっかり頭に入っていて、大きくて沢山の引き出しがある戸棚に、素敵な文句が詰まっているのよ。私はその引き出しを開けて文句を拾うのね。開けたら最後、特に美しいものを見つけてしまったら、その引き出しを開けずにはいられない。
するとね、もう、その難しい言葉を誰かに聞いてほしくてたまらなくなって、もう声に出さないと落ち着かないのよ。あ、今の誰かさんはクマゴロウさん、貴方だわね」
「なんだって? う~ん、そうさな…― あ――… おいらは見たことないね。そのユシカノ… ヒカリ… タマ? なんてのはね― うーん、なんだろうね?」
クマゴロウはウサギが何を言っているのか、ほとんど理解できていないようだが、ユシカノヒカリノタマ、という単語だけは何とか拾ったようだ。
「そう、そうなの、それはとても残念だわ。あれほど美しいものを目に出来ないなんて… とても悲劇で限りなく可哀想なことなのよ? 分かってくださる?
ああ、それでね、ユシカとはても嘘つきで、皆悪い魂を持っているんですって! ああ、お月様はそこまで言っていなかったかしらね。
でもね、だから私はユシカノホシへは行かない方が良いと云うのよ。こんな悲劇あるかしら? 悲憤慷慨とても残酷でこの上ない終幕だわ!
ああ、なんとも遣る瀬無い思いだわ…
私ね、あのヒカリノタマが何か。
そう、有り体に言えば、全て! 全くの真の姿かしらね? 確かめて見たいのよ! ユシカノホシで産まれ堕ち、どうしてあれほど不思議な魅力で私を魅了するのか!ってことをね! それにはユシカノホシへ行くほかないじゃない?」
何かいけない品物を売りつける口実を信じ込ませる為、考える隙間を与えず、間髪入れずに捲し立てる商人のように、ウサギは一気に言い放った。だが内容を砕いて分かりやすく説明したところで、クマゴロウにはウサギが話す内容の欠片も理解できないであろう。
何故なら不幸かな、彼は考えたり話したりするのがあまり得意ではないのだ。クマゴロウが忘れずに間違いなく言葉に出来るのは、精々月から贈られた難しい宝石の名前くらいだ。
「なんだって? ユシカが? う~ん、そうさな… あ――… ああ、しかし月様は喋るのかい? どんなお声なのかね――…… 是が非でも聞いてみたいものだね――」
クマゴロウが答えに困り、もたもたしていると頭の上で声がした。
「そんな事はないよ。きっとユシカにだって善良で正直者はいるはずだよ」
それは双子座の兄だった。
「兄さん嘘はいけないよ。人間は愚か者の集団ではないですか」
それは双子座の弟だった。
「弟よ。お前こそ嘘をついているよ。私こそが正しいのだ! ウサギさんもそう思うだろ?」
「信じてはだめだ。兄さんは時々ユシカの真似事をして、このような嘘を平気でつくことがあるからね」
「それほど言うのなら、ウサギさんに確かめてもらえばいい。ウサギさん、あんたは運がいい。今日は七十六年に一度、箒星のハレーがユシカノホシのすぐ近くを通るのだからね」
うす笑いを浮かべる兄の顔は猿賢く、信用するに値しないことは、静慮し冷静に観察すれば直ぐに気付いたであろう。
しかし不幸かな。ウサギが気付けないのはその野心の為か、甘い香りでうたた寝気分が抜け切れていない為か、兎も角少しばかり眼が曇っていたのは、致し方ないのかもしれない。
「そうなの。兄さんの通り、私だってそう思うわ。ユシカノホシには、それはもう無尽蔵にユシカがいるのよ。その全てが暴虐非道に暴れまわる愚かな者ばかりのはずないと思うのよ。
私、どうしてもユシカノホシで、ユシカノヒカリノタマを見てみたいわ! でも双子の兄さん。ユシカノホシに行ったとしたら、どうしたって銀河に戻って来られないのではないかしら?」
そして不幸は続いた。まるで天啓を得たように、ウサギははたと気づいたのだ。
「あ、兄さん、ヒカリノタマをご存じないかしら?」
「ヒカリノタマ? そう言えば先ほどそのような事を言っていたね。それはなんだろうね。弟よ、おまえは知っているかい?」
「いいえ兄さん。僕も知らないです。博覧強記をもって自負している私でも、見たことも聞いたことも、そうですね、全く記憶の片隅にもないですよ」
「そうなの。博識の弟さんでもご存じないのね。ヒカリノタマはね、年に一度、星降り祭りの夜、ユシカノホシで産まれ堕ちるのよ。
それは星河一天の美しさで、まるで宝石を散りばめたように、キラキラと赫くの。そして銀河に昇ったヒカリノタマは、星の稚児になって銀河を踊り回るのよ」
「あ― そうだったのか。それで先ほどから星の稚児が急に増えたのか」
双子の兄は感心したように頷いた。そしてぽんと手をたたき勝ち誇ったように胸を張り、ふふんと鼻を鳴らした。
その態度は自己顕示欲の塊だと思い、ウサギは少しばかり厭な顔をしたが、それでも眼にはまだ霞がかかっているようだ。
「つまりはこういうことだね、ウサギさん。あんたはユシカノホシで、そのユシカノヒカリダマとやらを見つけ、一緒に銀河に帰還する、そういう段取りだね?」
「ええ、解ってくれて? 私、思いついてしまったの。これは偽りなく至上者からの啓示に他ならないと思える程の名案だわ! 私、ヒカリノタマが気になって気になって、もう堪えられないほどに苦しくて仕方がないのよ。
私このままでは気になって気になって、もう流れ星のようにキレイに消えてしまいそう! そう、全く残さずキレイに消え果てるのよ。ああ、それは悲劇だわ! でもとても美しい悲劇でもある気がしないでも無いわね、ふふふ。
でもそれは至極大変な案件でしょう?
私、ユシカ全てが暴虐非道に暴れまわる愚か者とか、そんなことはどうでもいいのよ。唯々ヒカリノタマが見たいだけなの。その得体の知れないものがなんであるかを、全く総てを知りたいのよ」
すると兄は小馬鹿にしたように、ふんと鼻をならした。よくよく見なくとも、普段から黒い形を異質な目で見られるのが日常茶飯事であるウサギなら、軽蔑する様がみてとれたであろう。だがウサギの霧曇った眼にはあまり効果がなく、哀れかな、全く認知することはなかったのだ。
「そうかい。だったら何も心配はいらないね。ウサギさんは念願のヒカリノタマを見つけ、ヒカリノタマと一緒に銀河へ帰ってくれば良いのだからね」
兄はくくくと笑った。すると弟があきれ顔で言い退けた。
「兄さんバカを言ってはいけないよ。ヒカリノタマがなんなのか、よく判らないのに! 一緒に帰ってこれるなんて! 何処にそんな補償を約束できるの!
それにウサギさんがユシカに会ったら、きっと大変なことになるよ。ウサギさんのように綺麗な心の持ち主がユシカに会ったら! いいかいウサギさん… う、んううう」
弟が言い終わらないうちに、兄は弟の口を塞ぎ余った片方の手を上に向けた。
この時ウサギの霧曇った眼が、きれいさっぱりと霽れていたなら、ヒカリノタマを探すなどと、大それた計画を実行することもなく、その野心を抱えたまま悶々とした時を、永劫過ごしたであろう。
それが良いにしろ悪いにしろ。だか幸か不幸か、ウサギの眼は未だに霧曇ったままだ。
「さあさあ、ウサギさん、お喋りは仕舞いだよ。如何せんあんたは喋りがすぎる。全くよく回る舌だね。そんなに回してよく消えないものだよ! 少し舌を短くしたらどうかね? あー、ほらほら、もう時間がない! ハリーはすぐ頭の上、目の前だよ!」
何か節々に嫌みじみた文句があった気はしたが、ウサギは兄に言われる通り顎を上に突き上げた。
するとすぐ頭の上を、帚星の彗星が、物凄まじいスピードで飛んでいた。