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○七十六年に訪れる悪夢○

ああ、そうか。そうだったのか。そうであったのか―――

それ故に私はウサギ(この子)を愛しく思い、心の底から激しく愛したのだ―――


―――――――――――――――



今日はとても貴重な夜だ。七十六年に一度、ハレー彗星がこの眼に映せるほどに接近するのだ。ああ、人生とは脆く、儚く、まるで眉唾のようだ。この彗星を目にすることが許されたのは、たった一度きりなのだ。


私の隣で、愛する我が子を抱きしめ、愛しい彼女が微笑んでいる。ああ、この子も、もうすぐ十四歳になるのか。今、現状はとてもよいとはいえない。いつ争いが起きても、不思議では無い。よき隣人が(おぞ)ましい怪物となっても、何ら不思議では無い。


愛する妻が我が子にピアノを教えている。妻は素晴らしい旋律に包まれ育った人だ。その才能を引き継いだのか、我が子もまるで豊かな旋律から産声を挙げたかのようだ。その声で美しい詩を、そしてその手で美しいメロディーを、まるで風のように紡ぎ出す。


そう、風の旋律に愛された、旋律の申し子。


ああ、私は類い希なる才能を持つ、この愛しい二つの魂を守れるであろうか。人の心も人生と同じく、儚く脆いのだ。追い詰められたなら、どのような悪にも屈してしまう。


彼女は私に、子供の頃、月のウサギになりたいと話してくれた。で、あれば。私はあの、彗星になりたい。月とウサギは一体同然。月がどれ程に寿命の差があるにせよ、この脆く儚い器からみれば、永久と思える時を満喫できるだろうから。


そう、そして七十六年に一度、この地がどうなるのか、どのような道を辿るか、見定めてみたい。そして叶うなら、この地を幸いに導く、導き手となりたい―――――



宙が紅く染まる。地は紅い炎で焼き尽くされて往く。私の予想は現実となり、最悪の結末を迎えてしまった。よき隣人は悪魔の手先として、私達を追い回している。銃を持ち、まるで嗜好で狩猟を楽しむ狩り人のように。そう、私達を只のか弱い子羊のように捉えているのだ。


実際、我々は僅かばかりも力を持たない、か弱い子羊だ。

追い回され、逃げ回るしかない、か弱い子羊ではないか。


数発の銃声が響くと、妻が倒れ込んだ。銃弾が足を掠めたのだ。倒れ込む妻が悲痛の声を上げる。逃げろ、と。我が身を犠牲にし、逃げろ、と。彼女の言葉が、まるで刃のように私の魂を(えぐ)る。


私はこの子を、穢れなき真っ白な魂である、清い此の魂を、守らなければならない。


私はこの子の手を引いて、走った。逃げた。逃げた……? 私は何から逃げているのだ。良心を捨て、道義心を捨て、道徳心を捨て、善心を捨て、信仰を……捨て……


私の行動に、正義感も責任感も存在しない。この行いを正当化できうる是認も肯定もない。私は、一体、何から、逃げているのだ――――


私の手を、愛しい我が子が強く引いた。まるで私の悪行を止めるかのように。穢れなき、眉唾でない、一点の曇りも無い、美しい瞳で、悲痛な目で私を見つめ、首を左右に振り、立ち止まる。必死に私に抗い、抵抗し、私の手を引いて、彼女の元へ戻ろうとする。


ああ、愛しい私の穢れなき真っ白な魂の君。君が戻ろうとする、其処は、地獄だ。


戻れば、此の、穢れなき真っ白な魂を持つ我が子の魂は、もう、元に戻らない程に、ズタズタに引き裂かれるだろう。この子に二度と開く事の無い口と、二度と動かぬ事の無い手を与える。そして、其の穢れなき真っ白な魂は、永久にして、永遠の眠りにつくのだ。


だが、この先、総てを捨てて逃げたところで、逃げ切れる保証は何処にも無い。変わらぬ残酷な結末があるのは、目に見えている。そうであれば――私が投げ捨ててしまったものを、この子はまだ、無くさずに持っているではないか。


そう、まるで大切な宝物の様に――――……で、あれば。


私達は彼女の元へ戻った。彼女は嗚咽を漏らしながら、其の、穢れなき真っ白な魂を、きつく、全身全霊を持って、真きつく、抱きしめた。


私は最後の勇気を振り絞り、彼女達の前に立った。紅い目の将軍に跪き、必死に懇願した。彼の足に縋り付き、其の靴にキスをした。


私が、今、跪き、縋り、助けを乞うのは、助けを求めるのは、神では無い。

此の、強欲で、悍ましく、卑しく、俗悪な――悪魔。只の、醜い人だ。


昨日までのよき隣人が、薄笑いを浮かべながら、私を蹴り、殴り、踏みつける。体の力が抜けてい行く。魂がこの器を拒絶するかのように、魂が抜けてい行く感覚がした。


遠くで、穢れなき真っ白な魂を持つ、愛する我が子の悲痛な叫び声がする。薄らと我が子の苦しむ姿が目に焼き付く。狂ったように泣き叫び、限る力で抗い、藻掻き苦しみ、その魂が切り刻まれゆく。


私はこの痛ましく、悲痛な叫び声を、永久に、此の、魂に刻み込むだろう。


そして、愛する妻も、かつてのよき隣人に、なされるがまま陵辱されている。彼女が私に目を向けている。彼女の目にもう、精気は宿っていない。


冷たい銃口が私の頭に突きつけられる。一瞬にして魂が凍り付いた。死と呼ばれる刈り人の大釜が、今、私の喉元に突き付けられたのだ。


例えようのない恐怖が押し寄せてきた。私は追い詰められた、か弱き子羊だ。追い詰められた子羊は、憐れで、愚かだ。想いもよらない奥底の真実を、口に出していた。


いやだ、恐ろしい…… 私は死ぬのか? ああ、苦しい、恐ろしい。助けてくれ! 助けて! いやだ! いやだ! 私は……死にたく……ない――――……


ああ、そうか私は、私が可愛いのだ。このような地獄であっても、目の前に救うべき、守るべき、尊い命があっても。私は自分が可愛いのだ。自分だけでも助かりたいと、どこかで、そう、思っているのだ……


せめてもの救いは、その声がか細く、誰にも聞かれなかったことだ。


ああ、思い出した。私は幼き頃、神の担い手ある先生に尋ねた。先生は優しく答えた。答えは総て、此の、文字の中にある。それは、小さな黒表紙の本だった。


何故、人は、誰に教えられた訳でもないのに、盗んだり、殺したりしてはいけないと知っているのですか?


先生は黒表紙の本を開いて云った。神は私たちを神様の手のひらに刻まれた、とあります。これは神様が私たちを疎かにしたり、忘れたりすることが決してないことを教えてくださる御言葉です。そのようなお方です。私達は産声をあげてより、すぐ、その魂に善悪を刻み込んでいるのですよ。


そうか、生まれてより魂に善悪を刻まれた。だから皆、善悪の区別がつくのだ、そう、思った。だが、しかし。今私達を侮辱し、強奪し、強姦し、悪の限りのを尽くすこの人らは何であろうか。彼らとて、その魂に善悪を刻まれたものではないのか?


ああ、神よ。貴方は何故に、このような試練を、災厄をお与えになるのですか?

ああ、そうか。総ては其の小さな本に刻まれた、文字の中にあるのですね。


私は、嘲り、ほくそ笑む。

そう、それが、総ての答えなのだ――――やはり、私はもう、捨てているのだ――


乾いた音がパンと鳴り響いた。ゆるりと体躯が地べたに横たわる感覚を覚えた。

ああ、罪深き私の此の魂は、一体何処へ運ばれるのだろう……――――


―――――――――――――――



ハレー彗星は銀河の世界を只管(ひたすら)飛んでいた。罪と罰が練り込まれた鎖が、此の、魂を、真強く締め付ける。ハレー彗星は自らの魂が、此の、殻だ()が、少しずつ砕けていくのを感じていた。


ああ、一体私は誰をこの地に、誘い、そして誰を送り届けたのか――……あの子は――


ああ、そうか、そうだったのだ。私はあの子をこの地に誘わなければならなかった。それが使命であり、私の役目。私の罪であり、罰であり、贖罪。


そうだ、思い出した。七十六年に一度、この地に近づく度、思い出されるのだ。そして、また、七十六年をかけて忘れるのだ。そのあまりに深い罪にさらされながら、七十六年かけて苦しみ続け、不意に忘れ、また、思い出し、苦しむのだ。


私が願った通りに、彗星となり、深淵なる罪を背負い、その、購いとして、


此の殻だが朽ち果てる、その時まで、永久に―――……



ここまで読んでいただいた方は、私がクリスチャンだと思われてるかもしれませんが、私は無神論者であり、神は全く信じていません。ですから、聖書に基づく神について正しい認識を持っておりません。書かれている内容が、聖書に準じた正しい事柄とは、決して思わないでくさい。私が思う神という考えを書いたに過ぎません。誤解の無いようよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
こんな事はわざわざ伝えるべきではないのでしょうが。 残念です。 寓話と神学で編んだ精細な神秘と情景は瓦解しました。 相変わらず、語彙も含蓄も執力も私よりもずっと優れていて一読の価値は十全に感じます。 …
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