二人の教師
白石かえで。
彼女は、去年赴任してきた先生なのだが、まだ二十三歳のお姉さんだそうである。容姿・人柄共に百点満点の彼女は、正に「暴力の鬼」とは正反対の人物であった。
そして、幸佳がほのかな思いを寄せている人でもあった。
百合、とでもいうのか。幸佳は、れっきとした女の子であるにもかかわらず
同性の白石かえで先生という女性教師に好意を寄せているのだ。
幸佳はかえでが好きだが、同時に彼女に対して不思議に思うことがあった。
それは、かえで先生は本当に人間なのか、という疑問であった。
なぜ、そんな疑問が頭の中に浮かぶのかというと、白石かえでという女性教師が、あまりにも完璧すぎる人だからなのだ。
普通、人間には欠点や短所やよくない所、それに歪みやズレがあるはずなのだが、かえで先生にはそういう類のものが全くない。彼女を見ていると、そうとしか思えないのだ。
良い意味で、人間らしさが無いのだ。
一体、どんな境遇で、どんな人生を送ったら白石赤美のような人が出来上がるのか、幸佳は気になっていた。
と、ここでようやく、幸佳は自分が、かえで先生のブラウスに包まれた豊かな胸に一瞬とはいえ、顔を埋めてしまったのだと気が付き、歓喜と驚愕と羞恥で混乱しそうになった。
「ほら、立てる?」
「あ、いえ、その、は、は、はい」
かえで先生に手をとられて、幸佳はどうにか立ち上がった。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です。大丈夫、はい」
首を何度も激しく縦に振りながら、幸佳は自分の気持ちを落ち着けようとした。
しかし、無理だった。なぜなら、
「ねえ、柴田さん。あなた、顔が赤いわよ?もしかして、熱でもあるの?」
と言って屈みこんだかえで先生が、まるで母親が子供の熱を測るかのような自然な仕草で、自分の額を幸佳の額に、そっとくっつけてきたからである。
「わ、わ、わ!か、かえで先生、あの!」
「うーん、やっぱり熱いわね。保健室に行きましょうか」
「いえ、その、だ、だ、大丈夫ですから、ご心配なく!」
慌てて、その場を離れようとした幸佳の視界に、あるものが飛び込んできた。
「何をやっているんだい?柴田」
その声を聞いた途端、今度は恐怖感と不快感で動悸が激しくなった。一瞬で血の気が引いて、足がもつれる。
暴力の鬼が、幸佳の目の前に立っていた。仁王立ちのその姿は、妖怪か鬼を連想させる。
しまった、と幸佳は心の中で叫んだ。恐れていた事態が起こってしまった。真山との遭遇。これだけは避けようと思っていたのに。
「ま、真山、先生」
「おやまあ!あんた、随分と顔色が悪いねえ。あたしの顔を見るのが、そんなに嫌なのかい?」
はい、その通りです、と答えたかったが、それをすると流石に命に関わると思ったので
幸佳は曖昧に否定した。
「いえ、そんなことは、決して」
「全く、こんなところで何をウロウロしてるんだい!ここは職員室前の廊下だってのが分んないの?用も無しに先生達の邪魔したら、どうなるか」
「違うんです、真山先生」
ここで、かえで先生が助け船を出した。
「私が不注意で柴田さんにぶつかって、彼が転んでしまったんです。それで時間をとらせてしまって、だから、柴田さんは何も悪くないんです」
地獄で仏だ、と幸佳は思った。しかし、暴力の鬼は冷たく返答する。
「ふん・・・そうですか、白石先生。あなたという人はまだ若いのに、生徒の人気取りだけは随分とお上手のようで」
憎々しげに口を歪めた真山の、厭味ったらしい台詞を聞いて幸佳の中で怒りが跳ね上がったが、真山に植え付けられた恐怖がそれを抑え込んでしまった。
一方、かえで先生は真山の嫌味を聞いても、決して怒った様子を見せず、ただ困ったように笑う。
「いいえ、私にはそんなつもりは、全然」
と静かに言っただけだった。
「ええ、そうですか。まあ、せいぜい頑張る事ですね、生徒達に大人気の白石先生」
そう吐き捨てると、真山はいきなり幸佳を突き飛ばして、そのまま足早に職員室の中に入って行った。
本日二度目の尻餅をついた幸佳はすぐに
「だ、大丈夫?柴田さん!」
と慌てて駆け寄ってきたかえで先生に助け起こされそうになったが、それを制した。
「大丈夫です、かえで先生。私、一人で立てますから」
これ以上、かえで先生に心配をかけてはいけないと思った幸佳は、笑顔を作って立ち上がった。
「それより、かえで先生の方こそ大丈夫ですか?暴力の鬼、いえ、真山先生にあんな事を言われて」
「大丈夫よ。私は気にしないわ。真山先生は厳しい人だから、私みたいな若輩者を許せないんでしょうね」
あのような、言いがかりに近い嫌味を投げつけられてもなお、かえで先生は笑顔を見せていた。
そんな彼女の存在は、今や幸佳の学校生活にとって、癒しそのものであった。
「かえで先生が、私達のクラスの担任だったらよかったのになあ」
つい本音を漏らしてしまった。それを聞いてかえで先生は
「もう、ダメよ、柴田さん。そんな事言っちゃ」
窘めるように幸佳の頭を軽く叩いたのだった。