PHANTOM ZERO
長考と苦悩の末、彼女は選んだ。
震えながら、おぼつかない足取りで近づいてきた伊藤愛、悲しくなるほど憔悴しきった彼女の伸ばした腕、その蒼白な手が、真山徹子の、同じように蒼白な額に触れる。
そして、母は娘に向かって、遂に、魂の本音を吐露した。
「あたしは・・・あんたが、・・・ただ、恐かっただけ、なんだよ・・・殺されたくない一心で抵抗していただけなんだよ・・・でも、これから、は、時間を・・・かけて、ゆっくり・・・少しずつ、あんたを・・・その、愛せるように、変わっていく・・・から・・・だから、どうか・・・お母さんを、許して」
そして、愛は徹子を抱きしめる。母が娘を愛するように。
伊藤愛は、人生で初めて、自分以外の人間を愛おしむ。
真山徹子は、人生で初めて、自分以外の人間に愛される。
愛と徹子、二人の閉じられた瞼から、一筋の光るものが流れる。
自分を苦しめる敵を消そう殺そう、そして死なずに生きのびようとするのは、人間の防衛本能であり、生存本能である。愛も、徹子も、この本能によって、存在しない亡霊を抹殺し、抹消するように動かされていた。
しかし、柴田幸佳の計画によって、愛の内側で、ほんの少しだけ目覚めた母性本能が、その生存本能によって自動的に起こされた所業を止めたのである。
容赦の無い、暴力を振るう悪鬼ではなく、実体の無い、神出鬼没の幽霊でもなく、まして、もはや意味の無い、不快なだけの闘争を強制する、存在しない過去の記憶でもない、お互いの存在を、同じ現実に生きている、深く傷ついて凄まじく苦しんでいる人間なのだと認識する事。
それが、答だったのだ。
・・・母性本能が産み出した微小な慈愛が、生存本能がもたらした極大の苦痛を癒していく・・・
一方、柴田幸佳達は、伊藤愛と真山徹子を見守り続けていた。
そんな時、「それ」は現れたのだ。
「それ」は、ただの幻覚かもしれなかった。
伊藤愛と真山徹子の頭上に、直視できないほど醜悪で、禍々しく、いかにも強そうな外見の、巨大な魔物が現れたのだ。
幸佳達は凍り付いた。計画は失敗し、止む無く再戦開始か、と思った。
しかし、幸佳達の思考に反して、その魔物は宙に浮いているだけだった。
そして、その姿が、少しずつ、ゆっくりと、変わっていく。
マイナスのエネルギーに満ちた、邪なオーラが消滅していき、無数の棘が取れていき、恐ろしいほど鋭利な牙が次々と抜け落ち、鋼のように強靭な体躯、その硬直がほぐれていき、凄まじく憤っている形相が柔らかく温かで穏やかなものへと変化していくのである。
伊藤愛は、その事に気付かずに、ただ真山徹子を優しく抱擁し続けている。
・・・数分後、悪魔のような魔物は、天使のような幻影へと、変貌を遂げていた。
眺めていることしかできない、幸佳達の目の前で、正反対の姿へと変わった幻は、嬉しそうに笑う。
その笑顔は、まるで、無垢な嬰児のように、愛らしいものだった。
次の瞬間、幻は、跡形も無く、消えた。
この時、幸佳と、ゆかりと、かえで先生は、三人揃って、思った。
今まで伊藤愛と真山徹子を苦しめていた幽霊や魔物が消えた、と。
つまり、ファントムがゼロになったのである。




