命令その一
始まった!
「あんた、いい加減にしなさいよ!私は、あんたにちゃんと返事をしろと言ってるだけなのに、
何でそれが出来ないの?二学期が始まってから、これでもう、何回目だと思っているのよ?
七回目よ、七回目!一、二、三、四、五、六、七回!出席をとる時ぐらい、大きな声で
はきはきと返事しなさいって何度言えばわかるの?あのねえ、あんた、もう小学五年生なのよ、
五年生!赤ちゃんじゃないのよ?おぎゃあおぎゃあと泣けば、お母さんに構ってもらえる時代は
とっくの昔に過ぎたの!それなのに、まあ、何て幼稚なんだろうね、全く!
ん、ああ、そっか!あんた、ホントは幼稚園児だったのぉ!じゃあ、こんな所にいないで
早くとっとと幼稚園に帰りなさいよ!え、なに、違う?幼稚園児じゃないの?
やっぱり、小学生だって?だったら、小学生らしく返事をしなさい!手間をとらせないで!
ああもう、先生がこうして優しくお話ししてやっても、まだ分からないんなら仕方ないわね、
命令してやるわ!ほら、大きな声ではい、私は元気ですと言いなさい!
これが、命令その一ぃっ!!!」
女性教師・真山はそこまで言い終わると、いや、喚き散らすと、ひとまず口を閉ざして教壇の前に立たされた女の子を睨みつけた。彼女と真山の間の距離は、わずか五十センチほどである。
「は、い・・・」
青ざめた顔の女の子が、掠れた声でそう呟いた。
「聞こえない!もっと大きな声で!こんな簡単な事が何で出来ないの?」
「はい、私、は元気、でっ」
女の子の眼から涙が零れおちた。それを見て、真山は憎々しげに口元を歪めて
「ほーらね、そうやってすぐ泣くんだから。泣けば許してもらえると思ったら大間違いなんだよ!
ここはあんたの家じゃない、学校なの!」
暴力を容赦無く振るって罪人を裁く地獄の鬼のようだった。実際、真山の顔は、終始赤鬼の如く
真っ赤だった。
朝早く、授業開始前の時点でこれである。今回の生贄となった女の子は、出席をとっていた時、
小さくて聞こえ辛い声で返事をした。それが、真山の逆鱗に触れてしまったのである。
幸佳は、顔を伏せたまま溜息をついた。座っている椅子の固さが、いつも以上に不快なものに感じられた。現在の時刻は、午前九時十二分である。放課後まで、あと六時間以上も待って、その間
「暴力の鬼」のヒステリーに耐え続けなくてはならないのだ。毎度の事とはいえ、気が遠く
なりそうだった。
「ほら、とっとと席に着きなさい!全く、朝っぱらから手間をとらせて・・・」
真山の叱責からようやく解放された女の子が、両頬を伝う涙を拭いながら、おぼつかない足取りで
自席に戻り、腰を落ち着けた。見ると、隣の席に座っている少女が、彼女を慰めている。
可哀想に、と幸佳は思った。
「それにしても、欠席が多いわね。ったく、根性が無いんだから、最近のクソガキどもは」
出席簿を睨みながら呟いた真山の辛辣な台詞に、幸佳を初めとする子供達の多くは、心の中で
こう答えた。
あんたのせいだよ、暴力の鬼。
確かに、最近、五年四組では欠席する生徒が多かった。いや、五年四組だけじゃなく学校中、どのクラスでも欠席者が多いそうなのだ。理由は、その多くが体調不良、ということらしい。はっきりとした原因は不明なのだが、幸佳は、「暴力の鬼」が元凶ではないのかと考えていた。真山が発する陰惨なオーラは、今や学校中を侵食しつつある。そんな気がしていた。
その後、ようやく授業が始まった。五年四組の一時間目の授業は、国語である。真山が教科書を
片手にブツブツと呟きながら、黒板に愚にもつかない説明文を書き込んでいく。
その、毒にも薬にもならない板書を、幸佳を含めた一部の生真面目な生徒達はノートに写していく。
他の生徒達は、真山に決して察知されないように注意しながら各々好きな事をやっている。
活気など微塵も感じられない。監獄のような雰囲気。これが、このクラスの、いつもの授業風景
であった。
幸佳は再度溜息をついた。
教室の壁にかけられているカレンダーを見ると、本日は、九月の十九日である。
即ち、真山がこの学校に赴任して、幸佳達の担任になってから半年が経過した、ということだ。
今年の四月、始業式の日に初めて「真山」という有害生物と遭遇した時、幸佳は得体の知れない
不快感に襲われた。
このおばさんは、ロクな教師じゃない。
真山のいかにもキツそうな容姿だけを見て、幸佳はそう感じたのである。そして、その勘は的中した。
始業式が終わって、教室に戻った五年四組の生徒達と真山が対面したとき、一人のヤンチャな
男子生徒が真山をからかって、こう言ったのである。
「先生って、男に縁がなさそうっすよね。もしかして、その歳で、まーだ、処女っすか?」
すると、真山は即座に爆発した。
何事かを喚き散らしながら、自分に対して無礼な台詞を投げかけた男子生徒の身体を持ち上げて、
そのまま教室の窓(ちなみに校舎の三階である)から投げ落とそうとしたのだ。
あまりの事態に呆然とした幸佳達が見守る中、恐怖の余り失禁してしまった男子生徒は
泣きながら必死に命乞いを繰り返し、それを聞いて、真山も我に返ってどうにか思い止まった
らしく、男子生徒は無事に生還した。
真山が、本気で生徒を殺すつもりだったのかどうかは、未だに不明である。
新学期初日に、こんな騒ぎがあったというのに、どういうわけか真山は一切お咎め無しであった
らしい。
それ以来、幸佳達五年四組の学校生活は、拷問のような苦痛に満ちた苦難の日々と化した。
どれだけ真山が暴れても、何故か周囲の大人達は一切彼女を非難しなかった。直接の被害者
である幸佳達も、恐怖で心身を束縛されてしまったのか、真山の横暴について、親達には全くと
言っていいほど語らなかった。つまり、幸佳達は、この半年間、ひたすら耐えてきたのである。
そして、現在に至る。
幸佳は三度溜息をついた。
こんな日々が、もしかしたら小学校を卒業するまで続くかもしれないのだ。一色小学校では
五年から六年へと進級する際にクラス替えがないのだが、それと同様に担任も変わらずに
持ち越されることがある。もし、六年生になった幸佳達の担任も、真山になったら。
背筋が寒くなった。
幸佳は心の底から思う。こんなのは、おかしいと。
学校というのは、本来子供達にとって楽しい場所であるべきなのだ。それなのに、自分達は日々
恐怖に震え、苦痛に耐えながら登校し、授業を受けて、下校時刻の訪れをただ息をひそめて
待っている。
幸佳は、自分達のクラスだけでなく、学校全体に不条理があふれていると肌で感じていた。
以前は存在しなかった、変な雰囲気が漂っている。
何もかもが、おかしい。そこでふと、別の思考が頭の中をよぎった。
おかしい、といえば、最近この町には奇妙な噂が流れていて・・・
その時、チャイムが鳴って授業が終わった。生徒達の形式だけの礼が終わった後、
真山はいつものように不機嫌そうな表情で教室から出て行った。
その瞬間、教室内の空気が一気に緩んだ。解放された、と言ってもいい。
真山が退出しただけで、空間が浄化されたように感じた。
そしてクラスメイト達は、おしゃべりを始めた。
真山徹子先生が早速、大爆発しました(笑)。
「命令、その一」という発言は彼女の口癖みたいなものです。