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因果の果て  作者: 中田英二
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伊藤愛の悪夢

凶悪殺人犯の烙印を捺され刑務所に収監されてしまった夫の智弘という男とは違って、

愛という女は自由の身になり、犯行現場となった自宅からは、遠く遠く離れた町に住むことになった。

籍を抜き、姓も伊藤に戻った愛にとっては新天地になる場所は、ごくありふれた平凡な地方都市で

「一色小学校」という名の小学校があること以外には特徴のない町だった。

愛にしてみたら、それでも構わなかった。人生をやり直せるのなら、どこでも良かった。

けれども、いくら夫達や娘がいた家から逃げても、娘を虐待して殺したという事実からは逃げられない。ついに二度目の殺人を実行した彼女がまず最初にした事、それは現実逃避であった。

これは、悪い夢なんだ。あたしが、こんな目に遭っていいはずがない。


あたしは、何も悪くない!!


仕事にかまけて、あたしを気持ち良くさせてくれなかった夫が悪いんだ。娘のあたしを、大して助けてくれなかったあの親が悪いんだ。

あたしを怒らせた葵が悪いんだ。

そうだ、あのクソのようなクズガキのせいであたしは!

裁判の後、解放されて数ヶ月が経過しても、未だに現実を直視出来ずにいた。過去からも現在からも目をそむけて、自分を守ろうとしたのだ。裁判の顛末など、思い出したくない。夫や姑を初めとする周りの人間の動きなど、思い出したくない。自分ばかりを責め立てた奴らの事など、もう、思い出したくもない。

愛の頭の中では、「自分はいつも哀れな被害者である」という法則が、絶対の真理として確立されていた。

だが、客観的な視点を持つ他人に対しては、そのような法則は決して通用しない。

伊藤愛は「子殺し」であると、同じ町に住んでいる住人達の間でいつのまにか知れ渡っていたため、町の人々、特に一色小学校に我が子を通わせている母親達に虐められるようになったのだ。

なんで?なんで、あたしがこんな目に?あたしだって被害者なのよ?

自らの過去の所業をすっかり棚上げして自己憐憫に浸ることで、自分の心身をどうにか守ってきた。

ところが、新天地での生活にようやく慣れ始めた彼女を更に苦しめる「モノ」が現れる。


それは、悪夢だった。

女の子達が出てくる夢だった。


眠りにつくと、いつのまにか荒れ果てた廃墟のような場所に立っており、目の前で白いワンピースを着た女の子がうずくまっているのだ。

最初に殺した子供・・・愛によって、踏み殺された、あの胎児のように、夢の少女はうずくまっていた。

二度目に殺した子供・・・長女・葵が最期に来ていた服と全く同じものを、夢の少女は着ていた。

夢の少女を見て、愛は心底震えあがった。

あたしが殺してしまった、あの子達だ。

あいつらがあたしを殺すために、ひとつになってやって来たんだ。

あたしは、あいつらに殺されるんだ。

本気でそう思った。

ここは、悪夢の中である。目を覚まさない限り、脱出する事は出来ない。恐怖のあまり全身が痺れたようになって突っ立っている愛の頭の中に、声が響いてくる。その声は紛れもなく、自分が殺した娘・葵のものだった。

葵の幽霊は、怨嗟に満ちた声でこう告げた。


私達は、お母さんが殺したあの子供達だよ。

お母さんは、どうして私達を殺したの。

私達がどんな気持ちで死んでいったか、あんたにわかる?

今度は、私達があんたを殺す番だよ。

返して、私達の命を返して。


恐怖が、割れた風船のように弾けた。回れ右をして逃げだそうとするが、躓いてその場に倒れてしまい、車に轢かれた蛙のような格好で地べたに這いつくばった。

慌てて仰向けになり、すぐに起き上がろうとしたが、動かない。いや、動けないのだ。信じられないほどの重圧を自分に与えているモノの正体を見て、愛は目と口と鼻の穴を限界まで大きく開いた。

白いワンピースを着た夢の少女が、自分の上に馬乗りになっている。

その少女には、顔が無かった。

のっぺらぼうの幽霊を見上げて、蛇に睨まれた蛙のように動けないでいる愛を正気ではいられないほどの激痛が襲った。うぎゃあああああああっと叫んで苦痛の発信源、すなわち両足に視線を移す。

そして、見た。

裸の赤ん坊が、愛の足をぼりぼりと貪り喰っているのを。

愛が殺した二人の子供達が亡霊となって、夢の中で彼女に対する正当な報復を始めたのだ。

赤ん坊は、あっという間に母親の両足全てを喰い尽していく。

恐怖と苦痛と悔恨の余り、愛は涙を流して幼児のようにわめいた。

母親だった雌豚の見苦しい命乞いを聞いて、亡霊の子供達は尚も一心不乱に報復に取り組む。

彼女の下半身が喰い尽されたとき、地獄のような悪夢は突如終わりを告げた。

気がつくと、新しい家の自室の寝床の上にいた。

目が覚めた後も長い間動けず、涙と鼻水でグチャグチャになった顔を歪ませながら、がたがたと震えていた。

被害者意識をどこまでも高める事で逃れ続けてきた罪の意識が、愛の中で遂に復活してきたのかもしれない。


この悪夢を見てからというもの、愛の生活からは安らかな眠りというものが失われた。

就寝前は恐怖に震え、起床後も恐怖に震えた。夢の中であの少女と出会ってしまった時、残された選択肢は二つだけであった。

殺すか。

逃げるか。

主に前者を選んだ。夢の少女と遭遇したら即座に殺害を試みたのだ。殴る・蹴る・首を絞める等々。


あたしは、強い女なんだ!てめえらなんか、ぶっ殺してやる!


伊藤愛という女はそう叫んで戦う。

大抵の場合、それで悪夢からは一時的に解放されたのだが、覚醒直後で正気を取り戻していない愛は、錯乱したまま、新しい自宅から外に飛び出し、暴れてしまうこともあった。

「あんたみたいな女はね、死んだ方が世の為なのよ!」

愛を嫌っている母親達のリーダー格として一目置かれていた体格の良い中年女性は、そんな愛に向ってそう言い放った。

愛は、もちろん、このおばさん達を殺してやりたいと思っていたが、人数があまりにも多くて、太刀打ちできないと分かっていたので、こらえた。

じっと耐えるしかなかった。かつて殺した胎児のように、身を丸めながら。


あたしが殺しちゃった子供達が、夢の中であたしを殺しにやってくるんです。


そう言えば、町に住んでいる母親達は自分を受け入れてくれるだろうか。

いや、そんなはずはない。それどころか彼女達は、当然の報いだと言わんばかりに鼻で笑い飛ばすだろう。新参者の住人・伊藤愛は、今や町全体の最下層に押し込められているゴキブリのような存在だった。

娘を虐待して殺害した母親の味方など、どこにも存在しなかった。

こうして愛は、毎晩のように夢の中でのっぺらぼうの幽霊と死闘を繰り広げるようになってしまった。

精神科医に相談してみるという手もあったのだろうけれど、愛はもはや完全な人間不信に陥っており、たとえ誰であろうと他人に対して自らの心の内を吐露する事など出来なくなっていた。

異様に寝苦しいその夜も、悪夢との戦いの果てに目を覚ました。

―今度はあんたが死ぬ番だよ、お母さん。

子供達の亡霊が呟いた怨みの言葉が、彼女の全身を電流のように貫いた。起き上がる事なんてできない。全身が震えて、体が言う事を聞かない。目を覚ましてから数秒後、恐怖と悪寒に震える愛を更に惨めな気持ちにする事実が発覚する。

愛は、失禁していた。

夢の少女を恐れるあまり、いい年して、寝小便をやらかしてしまっていたのだ。

愛は、恥ずかしさと情けなさの余り、両手で顔を覆って泣いた。そして思う。


あたしは、独りぼっちだ。

ここにはあたしの味方なんて一人もいない。

みんな敵だ。

あたしはたった一人で、ガキ二人の亡霊と戦わなくちゃいけないんだ。

どうして?

どうしてあたしがこんな目に?


夜は静かに更けてゆく。朝も確かに近づいてくる。

終わらない夜はなく、始まらない朝もない。

そのはずである。

しかし、どんなに待っても伊藤愛という女の心にだけは、朝が訪れることはなさそうであった。


ここで、第五章は完結します。ここまで読んでくださった読者の皆様

本当に、ありがとうございます!次のエピソードからは、また幸佳やファイやメルが

ほんの少しですが再登場します。最後の局面に向かって、物語は進みますので

読んでやってください。

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