第五章 伊藤愛の人生 PHANTOM FIFTH
伊藤愛が己が胎内で生きていた嬰児を殺したのは、彼女が15歳の時である。
子供を堕ろした彼女の心を最初に震わせたのは、自らの都合でわが子を殺したという罪悪感ではなく、これで邪魔なお荷物を処分できた、という安心感と解放感であった。
自分はたくましく生きている!
たとえ妊娠しようと、容赦無く躊躇無く迅速に胎児を処分できる凄い人だ!
そうだ、自分は強い女なのだ、と伊藤愛は己を誇った。
伊藤愛には、商売上のパートナーがいた。武田隆という名の少年である。彼は、伊藤愛の容姿の美しさに目をつけて、彼女に声をかけ、それ以来共同で仕事をして荒稼ぎしてきたのだった。
愛は、隆と組んで得られる金を、まるでドラマの産物みたいだと崇拝した。だが現実には、ドラマの台本も筋書きも出演料も原稿料も無い。あるのは、彼のエゴと彼女の愚かさだけである。
武田隆はある日突然、吐き捨てるように言ったのだ。
「てめえなんざ、もう使いにならねーよ!商売も、これで終わりだ!」
声が出なかった。株の銘柄が暴落してしまい、大損したと分かった途端、隆という男はそう宣告したのだ。
自分達二人の他には誰もいない屋上に吹き付ける風が、やけに冷たく寒いものに感じられた。
愛の頭の中で、発生した不快感がどんどん大きくなっていく。
立ち尽くす愛の姿を見る彼の表情には、彼女と早く決別したいという焦りが露骨なほど表れていた。
「とっとと、失せろよ」
彼は、止めを刺した。
愛は、高まる不快感に比例して、気が遠くなっていく自分をなぜか客観的に見ていた。
今更だった。もっと早くに、自分を客観視出来ていたら、こんな事にはならなかったのだ。
次に、絶望感と共に確信した。
自分達は、調子に乗り過ぎたんだ。
「おい聞いてんのか、てめえ!俺達の商売はもう終わりなんだ!もう二度と俺の前に絶対姿を見せるんじゃねえぞ!絶対だからな!」
半ば呆然としている愛に向って、彼は容赦なく宣告した。そして、隆は唾を吐きかけた。愛の顔に向かって。
伊藤愛の不快感が臨界点に達した。そして、爆発する。
十数分ほど経過して、我に返った時、愛は自分が血まみれになって床の上に倒れていることを認識した。
視線を左右に動かすと、隆も血まみれになって倒れている。彼は呻いた。
「愛、て、めえ・・・このクソ女が・・・」
どうやら、愛は怒りの余り正気を失ってキレてしまい、隆に襲い掛かり、取っ組み合いの大喧嘩をしたらしい。
隆という男は、どうやら愛との喧嘩を続行する事よりも、自分がこの場から離れる事を選んだらしく、ゆっくりと起き上がり、愛に向かって呪詛を吐き、これでもか、これでもかといった調子で毒づきながら、去っていく、その一部始終を、愛という女は横たわりながら見ていた。
手当した後、やむをえず、彼女は休学届を出し、売春業を再スタートし、その期間に自分で産んだ嬰児を自分で殺したのだった。
生まれたての赤ん坊は、伊藤愛という母親には肉の塊にしか見えなかった。
哀れな女児は、人生の喜びを全く味わうこと無く、母親に惨殺された。




