精霊付き遺産相続 30
バンター氏の咳払いに一度口を閉ざしたミスター・ナイトレィは、しばし迷ってから、
「そちらは後にしましょう。話が横道に逸れてしまいますから」
「え、ええ」
わたしは少し気になったものの、とにかくうなずいた。
「さて、今度のことがわたしとどうつながるのかというご質問ですが」
ミスター・ナイトレィはここで何かをためらったのを思い切るためなのか、お茶を飲んだ。
「あのお屋敷を売りたいと、ミス・ダーバヴィルのご親戚の方々が考えた時、彼らは裕福なアメリカ人には売るまいと思ったそうです。英国人としての矜持が、これ以上アメリカ人に英国の栄光を渡してはならないと命じたのだと言っておられました。大々的に販売を宣伝したら、おそらく真っ先に名乗りを上げたのはアメリカ人だったでしょうから」
英国が帝国だった時代は過ぎてゆきつつあり、今はアメリカが台頭してきたことを、誰もが認めている。
「そこでダーバヴィル家は、真っ先に、我が家に買い戻さないかと話を持ってこられたのです」
「まあ」
「こちらも、残された人生の時間はもう終わろうとしている祖母が、強く一族の屋敷に戻ることを望んでいまして、お話をお受けしたのです」
話の行方に、わたしの心で軽やかに羽ばたいていた翼がふと力を弱めた。
「しかし、ミス・ダーバヴィルは相続を放棄されず、こちらは話がとまってしまいました。ミス・ダーバヴィルのことはまったく知らされていなかった我が家は、すっかり困ってしまったわけです。そこに、「これから住む」とミス・ダーバヴィルがあらわれた」
引っ越してきた初日、ミスター・ナイトレィと出会った日のことだ。
「それで、ミス・ダーバヴィルのことも、失礼ながらいろいろ調べさせていただきました」
そう打ち明ける笑みが、申し訳なさそうに曇る。
こちらの人生の不運に、今ここであれこれと物憂く同情されたくはなかったので、わたしはことさら話をまとめることに気持ちを向けた。
「つまり、こういうことでしょうか? わたしの伯父や叔母たちは、あの屋敷を売って、現金を得ようとした。でもよくよく調べたら法律上の所有者はわたし。小細工をしてもわたしがお屋敷を手放すと言い出さない。このままでは売るに売れない」
「わたしたちは直接ミス・ダーバヴィルと交渉するとあちらの弁護士に告げたのです。それが間違いだったかもしれません。ご親戚の方は、自分たちで話を付けるとおっしゃり」
親戚たちがわたしとミスター・ナイトレィが直接交渉するのを嫌った理由はわかる。叔父や叔母にしてみれば、要はわたしにあの屋敷を放棄さればよいだけ。でもわたしが相続を維持したままミスター・ナイトレィが交渉相手をわたしに移すと、金銭は彼らの手元に入ってこないことになるのだ。
つまり。
ミスター・ナイトレィは、わたしとあの屋敷を取引したいだけなのだ。
その事実に、わたしの心でまだなんとか弱々しく震えていた翼は、とうとう動かなくなり、小さく折りたたまれ、わたしの心から消え去った。
わたし、とても大きな勘違いをしていたんだわ。彼のご親切を、損得などないもっと大きなものだと、思ってしまったんだわ。でも本当は、わたしのためでも何でもない。
当たり前なのに、そんなことにこんなにもがっかりするなんて、どうかしてる。たとえ時代が変わっても、彼は子爵家の子息、わたしは元メイドなのだ。
「それで、ここからはご相談です」
ミスター・ナイトレィが身を乗り出した。
ここからは、経済的な取引の話になるのだ。そんな難しい話、わたしにはわかりませんわ。などと幼気な返事をしても、誰も助けてくれなし、誰も自分が不利益をかぶってでもわたしが一番得をするよう話をつけてくれたりはしない。
わたしは気持ちを奮い立たせて背筋を伸ばし、話を聞きましょう、と彼を見やった。そう顔を上げると、話をつけるのに間に合うだけの勇気がわいてきた気がした。
「ミス・ダーバヴィル、アドベリーハウスを貸していただけませんか?」
「貸す?」
わたしは意外な言葉に目を丸くした。
「はい。正直にいいますと、我が家にはあの屋敷を買い戻せるほどのお金はご用意できませんし、本当は貸していただけるなら、それでこちらはじゅうぶん満足だったのです。祖母の最期を迎える場所として。我が家がご親戚の方から交渉相手をぜひミス・ダーバヴィルに移したかった理由は、ここなのです。あちらは売りたかったようなのです。我が家が買わないなら他に売るおつもりだったのでしょう」
「はあ」
「もちろん、家賃はお支払いします」
あれだけのお屋敷を貸すとなると、その家賃はわたしにはじゅうぶんすぎる額になるのではないだろうか。気がつかなかったわ。自分で住まなくても、貸すって方法があったのだ。
「貸していただけると相談がまとまったら、ご親戚の方々が屋敷の相続権が自分たちにはないと知って、あなたが正式な相続をされる前に横取りされた屋敷の家具は、必要な物だけでも取り戻すよう手配します。すべて祖母の思い出の品ですから。それから、彼らが細工のために傷つけた箇所も、弁護士を通じてすべて回復するよう要求するつもりです」
「まあ。わたしの頭の上で、何もかも話が進んでいたのね」
あのお屋敷は元メイドには過ぎた住まいだ。わたしには屋敷の崩壊を食い止める財力も、横取りされた家具を取り戻す術も、破損の回復を要求する能力も不足している。法的な書類をそろえることが出来なければ、親戚たちの鼻先でどれだけ泣いてもわめいても、彼らには軽くあしらわれるだけだ。
それを託すべき正しい人物が目の前にいる。ナイトレィ家には、失意の人生の最期のひとときを、手放した一族の屋敷で過ごしたいと望む人がいるのだ。
これは形を変えた神のご加護というものかもしれない。あの屋敷にとっても、わたしにとっても、ナイトレィ家にとっても。
ちょうどいい乗合馬車が来たのに乗らなかったら、もう次の乗合馬車はない、と言うではないの。そう、こんなチャンスは二度とないのだ。
わたしは喜んで頷くことにした。
「わかりました。アドベリーハウスをお貸ししますわ」
ミスター・ナイトレィも心からほっとしたように安堵の笑みを見せた。
「交渉成立ですね。細かい話は弁護士を交えてあらためて行いましょう。家賃についても決めなければなりません」
「わたしも相場を調べておきます」
ミスター・ナイトレィはぱちっと目を開いた。
「抜け目がないですね、ミス・ダーバヴィル」
わたしはにっこりと胸をはった。
「今度は弁護士の専門用語に惑わされたりはしません」
ミスター・ナイトレィがソファーから立ち上がった。
「それでは、ミス・ダーバヴィルの新しいお住まいは、わたしに任せていただけますか? よいコテージをご紹介できると思います。ハニーサックルが壁を伝う感じのよいコテージがあるのです」
わたしはそのコテージを想像した。ハニーサックルが伝うなんて、愛らしいコテージだと思われた。そのくらいの住まいの方が、身の程にあっているわ。
「今から見に行きませんか? ご案内しますよ?」
「ええ、よろしければ」
わたしたちはホテルを出た。ミスター・ナイトレィの車をホテルマンが回してくれるのを待つ間、わたしは思い出して彼にたずねてみた。
「肝心なことを聞き忘れていたわ。なぜあなたはご自分を精霊だなんて自己紹介したんです?」
ミスター・ナイトレィは束の間言いよどみ、
「あれは、わたしが子供の頃に叔母がよく話してくれたおとぎ話なのです。この屋敷には精霊がいて、いい子にしていればその精霊が助けてくれるし、悪い子にはお仕置きをするという類の。あなたにお会いした時なぜだかとっさにそれを思い出し、口にしていたのです」
彼はどことなく恥じ入るように目を伏せ、
「あなたはダーバヴィル家の方で、屋敷の新しい主人だとおっしゃった。あなたの屋敷を横取りしようとしているわたしを、敵だと思ってもらいたくはなかったのです」
わたしはうなずいた。過剰な期待をしないよう、自分に注意しながら。
「それでは、アドベリーハウスには代々の領主に不幸を告げる幽霊はいないのですね」
結局、幽霊はダーバヴィル家の方々の策略が生み出した作り話に過ぎなかったのだわ。
「わたしは会ったことはありません」
ミスター・ナイトレィは答え、付け加えた。
「しかし、あの日、あなたが階段から落ちた晩、わたしはあの時すでに門へ向かって庭を歩いていたのですが、不意に後ろから名前を呼ばれたと思ったのです。聞き覚えのない声でした。振り返ると、エントランスの扉が開いていました。閉まっていたはずだといぶかしみながら戻ったら、まさにあなたが階段から落ちているところでした」
「そういえば、わたしもあの直前、幽霊を見たのかと思ったのです。でもそれは薄い影で、目のすみにちらちらと見えただけで……」
わたしたちは目を見合わせて黙った。わたしたちは同じ幽霊を見、声を聞いたのかしら。そこにミスター・ナイトレィの車がやってきた。
ホテルマンにはさせずに、ミスター・ナイトレィがわたしのために助手席の扉を開けてくれて、わたしはシートに滑り込んだ。
自分も運転席に乗り込んで、けれども彼はすぐには車を動そうとしなかった。ミスター・ナイトレィは不自然なほど長い沈黙の後に、思い切ってという風にわたしに顔を向け、ひそめた声で言った。
「先ほど、話が横道にそれてしまうからと、遮った話題がありましたが」
「あ、ああ、ええ、そういえば、そうでしたわ。バンター氏が」
空咳をして、巧妙に話をさえぎっていた。
ミスター・ナイトレィは言ってしまうべきかどうか、ためらったようだ。
「今からご案内するそのコテージですが」
その言い方がとても深刻に聞こえ、わたしは心の中で身構えた。
「なんでしょうか? 何か不都合でも?」
ミスター・ナイトレィは首を横に振った。そしてしばし口を閉ざしてただわたしのまなざしを見つめた。
これまであの屋敷で時々見たと思ったものが、今までよりももっと確かに彼のまなざしの中に見えたと思った。そして彼の真っ直ぐな瞳が語るものをはっきりと予感し、わたしは胸苦しく息をつめた。それが彼にも伝わったのだと、彼の目の奥が一種の安堵と希望にきらめいたのでわかった。
ミスター・ナイトレィが言った。
「お住まいになるのに問題はないと思います。ただ、そのコテージにも精霊があらわれることになっているのです。それでも、よろしいですか?」
The Sweet Expectations
The End
お読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、2000年代に個人サイトにアップしていたものを加筆修正し、PCを処分するにあたり個人的な保存も兼ねて、こちらに登録したものです。
ミスター・ナイトレィのモデルはドラマ版『高慢と偏見』のコリン・ファース演じるミスター・ダーシーです。
2000年代に公開していた時の館の名前、架空のつもりで命名したのに実在すると知り、変更しました。
まさか「ライムパーク」が実在するとは思わなかった。
「ライム」は果物。
「パーク」は貴族の館の種類。他にアビー、キャッスル、ハウスなど。パークは昔の狩猟場が起源。




