お姫様と教育(4)
「……おやおや。大変、楽しそうですね」
低く甘い声に、ぶわりと冷や汗が出た。エドガーは笑顔である。シェリーが踊っているのも、仕事をサボっているわけではなくこれも仕事である。なのにとてつもなく後ろめたい気持ちに襲われ、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られている。
エドガーの後ろからサイモンが入って来て、彼は「うわぁ」と声に出した。大失敗を犯したような顔をしている。サイモンがエドガーを連れてきたのは明白である。
数秒固まったあと、リトが慌ててシェリーから離れた。
「いやこれは! メリルに言われてダンスの手本を見せてたんだ!」
まるで浮気現場を目撃されたあとの言い訳のようだった。
「そそそそうですわ! 私が二人にお願いしたの! そのあとお父様と踊らせてって!」
メリルもまるで弁解するように言うものだから、部屋の空気がさらに重くなる。
シェリーはと言うと――自分でも珍しいことに、言葉を探せなかった。口を中途半端に開いたまま何も言えず、エドガーを見つめながら背中に汗が流れるのを感じている。
「そのドレスはどうされたのですか?」
「僭越ながら私がご用意させていただきました」
静かに控えていたルルリが間髪入れず答えてくれる。
「そうですか……」と呟いたあと、エドガーが沈黙する。戦闘時でもないのに、緊張感に空気がキリキリした。
「とてもよくお似合いです。ルルリはいい仕事をしますね」
サイモンが大仰にほっとした息を吐いた。ルルリも見るからに胸をなで下ろしている。
コツ、コツ、とエドガーが足音を綺麗に響かせてシェリーに近づいてきた。そっと手を差し出され、軽く屈み込まれる。
「お手をどうぞ、姫君」
「ひっ……」
ひめぎみ。
異性からそんなもの言われたことなどない。
シェリーは何とも答えられず、小さく頷いてその手を取った。途端、ぐいっと体を引かれてホールドされ、ダンスが始まる。
エドガーのリードは力強くて強引だった。しかし、踊りにくいことはない。これまで何度も踊ってきたが、こんなに胸がはやるような、そわそわする気持ちになったことがない。
「ほらそこの親子、練習は?」
ぼんやりこちらを見ていたリトとメリルにエドガーが言った。そういえばそうだったと親子が向かい合う。少し照れくさそうな顔をしているのが微笑ましい。
ぐっと腕を引かれ、親子に注意を向けていたシェリーの瞳がエドガーを映す。蠱惑的で端正な顔がすぐそこにあった。非常に近い距離に驚き、頬に熱が集まる。
「ダンスもお上手なんですね」
「え、エドガー様こそ……!」
「……どうしました? 少し、いつもと違いますね」
「な、なんだか、ドキドキしていまして……!」
本当に、いつものシェリーらしくなかった。腰を支えているエドガーの手を妙に意識してしまうし、踊りながら至近距離で見つめられると恥ずかしくなってくる。久方ぶりの淑女の格好がそうさせるのだろうか。甘く囁くような低い声もよろしくない。
「おや。……へぇ、ドキドキ、ですか」
「何がどうドキドキなのかはわかりませんが、人生で踊ってきた中で一番、ドキドキしています……!」
精神系の魔法をかけられているかのように、心の内を自白する。
エドガーはうっとりと笑った。黒い羽で優しく背中を撫でられたような、ゾワッとしてしまうけれど惹き付けられて抗えない、そんな心地になる。
「光栄です。……俺の機嫌が直りました。単純ですけど」
シェリーは首を傾げる。そうすると、エドガーがそっと屈み込んで耳元に囁かれた。
「美しくめかし込んだシェリーさんが、リトと踊ってるんですよ? 面白くなかったです」
「え、いや、あの」
「それに俺、今日シェリーさんがこんなことしてるって知りませんでした。サイモンに教えてもらわなかったら見逃していた……それもつまらなくて」
「つ、つ、次からはちゃんと、ご報告いたします……!」
耳元で囁かれると体中がゾワゾワした。不快ではないが、逃げ出したい。
「よろしくお願いしますよ」
そのとき、耳朶に柔らかいものが触れた。遅れて、唇だと気付く。わざとなのか事故なのかわからない、そんな微かな接触だったが、その未知の感覚はシェリーの体を震え上がらせるには十分だった。
驚いてエドガーを見上げるも、機嫌良く殊更ニッコリした笑顔が返ってくる。
「い……意地悪なんですね!?」
確信を持ってシェリーは言った。エドガーは可笑しそうに笑い始める。
「す、すみません……、その、思いのほか、可愛らしすぎて……あはっ、はっ……!」
エドガーが破顔している。あの重苦しい空気はとうに霧散しているが、揶揄われたこちらとしては面白くない。
仕返しにシェリーはエドガーの足を狙った。ステップを踏むついでにエドガーの足を踏みつけようとするも、華麗に躱される。
「ふふっ……こうやってじゃれ合うのも楽しいですね」
甘い低音の声で囁かれ、シェリーは白旗を上げた。ささやかな反抗もじゃれ合いとあしらわれる。敵わない。
リトとメリル、ルルリやサイモンたちがこちらを注視しているのを感じるが、目を合わせられない。エドガーを見ることもできず、ちょうど真正面にある彼の胸のあたりに視線を彷徨わせた。
こんなに心臓がドキドキするダンスも初めてだが、気恥ずかしくて逃げ出したくなるダンスも初めてだ。エドガーの機嫌が良くなっただけで重畳としたい。
しばらくして曲が途切れ、一旦ダンスを終えた。密着していたエドガーがそっと離れていく。
緊張が抜けたシェリーはどっと疲れていた。一歩離れたところにいるエドガーをようやく見上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。それを見てまた心臓がギュッと痛む。
「シェリーさん、ちょっと足元失礼しますよ」
エドガーがシェリーの足元に跪き、遠慮無くスカートの裾をめくった。「何してんの!」と叫んだのはメリルで、シェリーは驚きもしなかった。エドガーの指が、シェリーのアキレス腱のあたりをなぞる。バレていたのである。
「やっぱり、靴擦れしてますね。痛かったのでは?」
「さほどですよ」
「俺の姫君はお強いですからね」
そう言って、エドガーはシェリーを横抱きに抱き上げた。流石に想定外で、シェリーは固まった。視界の隅でリトが慄いているのがわかる。
エドガーはそのまますたすたと扉のほうへ歩いて行く。まさかこの程度のことで抱き上げて歩き回るつもりなのだろうか。深窓のお姫様のように?
「エドガー様、本当に、お願いですから、下ろしてください。歩けます、っていうかさっきまで踊ってたじゃないですか!」
シェリーは必死にお願いした。メリルは口に両手を当てて目を輝かせているし、ルルリは目を伏せて合掌、サイモンは顔を赤くして凝視してくる。
至近距離でエドガーがシェリーを見下ろす。蕩けるような微笑を浮かべ、「嫌です」と仰った。背後に黒い羽の舞い散る幻覚が見え、薔薇のような甘やかな匂いすら漂う。
「今のシェリーさんは姫君ですから」
あまりの色気と圧に、悲鳴をあげそうになった。
完全敗北である。シェリーは物言わぬ貝となり、両手で顔を覆って視界を遮断した。
連れて行かれたのはメリルのマナー講義で使っている図書室で、ソファに下ろされたあとエドガーの手ずから治療してもらった。このまま待機するよう言われ、一旦部屋を出たエドガーはティーワゴンを引いて戻ってきた。紅茶に茶菓子、そして少しばかりの仕事の書類。ちょっとしたお茶会もどきをしながら、仕事の話をする。「たまにはこんな日があってもいいでしょう」と言いながら、エドガーはシェリーをよく眺めた。どうしたのだろうと思い、気付く。
「やっぱりお化粧、ちょっと変でしょうか」
「まさか。普段も素敵ですが、今は可愛らしさが強くなって、それも素敵ですよ。ドレスもお似合いです。……ちゃんと、言いたかったんですよ。嫉妬してすみません」
「しっと」
シェリーは呆然として復唱した。エドガーは微笑み、頬杖をつく。
「嫉妬です」
何に? 誰に対しての? という気持ちが顔に出ていたのだろう。エドガーが笑みを深くする。
「次は、俺に一番に見せてくださいね。でないとまたこうやって独り占めの時間を作らないといけなくなる」
ひぇ……とシェリーは悲鳴を飲み込んだ。エドガーの視線に射貫かれて、カップを持つ手がそのまま止まっている。
エドガーはご機嫌に笑っている。淑女の格好をしたシェリーには、とことんお姫様扱いをして楽しむつもりらしい。
夕方、「見つけましたよ」とルルリが迎えに来るまで、二人のお茶会もどきは続いた。




