そして事件は起こらないはずだった
ライヘンバッハの滝から落ちながら、わたしは前世の記憶を思い出していた。
どうやら、ここは乙女ゲーム『霧都事件ロマネスク』――通称『霧ロマ』の世界で、自分はその物語における悪役令嬢なのだと。
舞台は、ミステリカ王国の首都エニグマニア。
異世界ものといえば中世ヨーロッパ風が定番だが、この作品は十九世紀末のイギリスをモデルにしている。
十九世紀末のイギリスと聞いて、探偵小説好きならピンとくるものがあるかもしれない。そう、かの有名なシャーロック・ホームズだ。
というのも、『霧都事件ロマネスク』は、ホームズやポアロといった名探偵をモチーフにしたキャラクターたちと、謎解きしながら恋を育む、ミステリー仕立ての恋愛アドベンチャーゲームなのだ。
主人公は、ホームズの相棒ワトスン博士をモチーフにしたジェーン・M・ワトスン。
新人警官としてドイル・ヤードへ配属されたジェーンは、指導役でありメインヒーローでもあるエルロック・ホームズとバディを組み――いや、わたしはなにを考えている?
眼下には滝つぼがある。
ライヘンバッハ滝の落差は、およそ百二十メートル。
重力加速度を十、空気抵抗を無視すれば――ふむ、五にわずかばかり足りないか。
つまり、滝つぼまで約五秒。
五秒に満たないわずかな時間で、わたしはひとり分の人生を思い出しているらしい。
なるほど、これがタキサイキアというものか。
死の危険にさらされた人間が、ほんの数秒を異様に長く感じる現象。
脳の処理速度が本当に上がったのか、それとも後から記憶が引き延ばされているだけなのか、今のわたしに確かめるすべはないが。
着水までに、速度は秒速およそ五十メートル。
時速なら百八十キロ近い。
その速さで滝つぼへ叩きつけられれば、生き延びられるとは思えなかった。
そんな絶体絶命の危機を前に、こんな情報がどう役立つというのか。
なにかないのか。
落ちる勢いは止められなくても、死なずにすむ場所くらいは――。
必死に崖肌へ目を走らせた、その時だった。
すぐ下に、岩だなが張り出していることに気がついたのは。
――しめた、滝つぼまで落ちずにすむ。
もっとも、このまま頭から岩に激突してしまえば、結果はほとんど変わらない。
わたしは必死に空中で身をよじった。
押し寄せる雑然とした情報の中から、寸前で『五点接地』という知識を拾い上げる。
両足をそろえ、膝をわずかに曲げる。あごを引いて、ひじを体に寄せる。
足裏に衝撃が突きあげた瞬間、わたしは膝を折った。そのまま左へ体を倒し、足、ふくらはぎ、腿、腰、肩の順に地面へ倒れて受け身をとる。
パラシュート降下などで衝撃を分散するための着地法と、柔道の受け身を組み合わせたものだったが、ぶっつけ本番ながら奇跡的にうまくいった。
……いや、わたしは乙女ゲームの黒幕としてデザインされたキャラクターだ。そのうえ、あのホームズと格闘でやりあったモリアーティ教授をモチーフにしている。
この肉体が、知識に追いつくだけの身体能力を備えていたとしても、なんらおかしくは――いや、待て。
当たり前のように受け入れていたが、そもそもこの記憶は正しいのか?
そんな現実逃避めいた思考を巡らせながら、わたしは激痛に身もだえていた。
衝撃で呼吸が止まっていたのだ。
「――お嬢様! ジャクリーンお嬢様!」
崩れた崖の上から、セバスチャンが慌てたように身を乗り出してこちらを覗きこんでいる。
どうやら即死はまぬがれたらしい。……いや、内臓に損傷があれば、時間差で命に関わるかもしれないが。
どうにか動く首だけであたりを見渡す。
わたしが落ちたのは、崖から四メートルほど下の岩だならしい。表面に苔や湿った腐葉土が分厚く積もっていて、それがクッションになったようだった。
形からして、おそらく滝の水量を測る者が足場として使っていたのだろう。ずいぶん長らく放置されているようだが、おかげで助かった。
「ジャクリーン様、抱えます。よろしいですね?」
いつの間にかそばに降りてきていたフレデリックが、わたしの顔を覗きこむ。
痛みで返事もできずにいると、ひととおりようすを確かめてから口を開いた。
「ご安心ください。どこももげてはいません」
……嫌なことを言わないでほしい。
そのまま返答を待たず、わたしの体を抱きあげる。
とはいえ声も出せないのだから、それで構わなかった。
母がとくに信頼を置く護衛の彼だが、昔から口下手なきらいがある。
フレデリックに抱えられながら地上に戻ると、セバスチャンが帆布と天幕用の支柱、それに毛布で簡易担架を用意していた。
さすが、父の右腕と称される我がモリアーティ家の家令だ。やることにそつがない。
見たところ、現代日本では自衛隊にも採用されていた応急担架のようだ。負傷者の重みで布が締まるから、紐もいらない構造で――待て、ジエイタイとはなんだ? ニホンというのは、極東の島国である八洲帝国のことだろうか。
……いや、違うだろうな。日本とヤシマでは文明レベルに差がありすぎる。
では、これもまた『前世』とやらの記憶なのか。
担架で運ばれながら、わたしはようやく、自分の中に芽生えた知識を疑う余裕を得ていた。
ことの発端は、我がライヘンバッハ領の観測所で、セバスチャンと星を見ていた時だった。
彼はモリアーティ家の家令であり、わたしの家庭教師でもある。
教わる科目の中でも、天文学は特に気に入っていた。
星はいい。
感情や権威で答えが変わらない。必要なのは、観測結果と計算だけだ。
それに、かぎられた事実から、目に見えない真実を導き出せる点も気に入っていた。
わたしは数学こそが至高の学問であると思っているが、天文学との相性も無視できない。数学は世界の法則を解き明かすが、天文学は世界の結果そのものだ。
天文学が問いを出し、数学が答える。
つまり天文学は、数学が現実を読み解けると証明する、最も壮大な実例なのだ。
「これがヴェスタ?」
望遠鏡を覗くと、小さな光の点が見えた。
「はい」
セバスチャンの返事を聞きながら、再びレンズ越しに遥かな天体を眺める。
輪郭も、地表の模様も見えない。
周囲の星と比べても、なんら特別なところはなかった。
「これだけだと、ふつうの星に見えるわね」
「今夜の空だけをご覧になれば、そうでしょう」
セバスチャンは観測台の机に、昨夜の記録を広げた。
星々を写し取った図の中に、ひとつだけ印がついている。
「昨晩のヴェスタはこちらです」
わたしは望遠鏡から手を放し、今夜の位置を記録した。
二枚を重ねてみると、他の星々がほとんど動かない中で、ヴェスタだけがずれていた。
「予測より、移動量が少ないわね」
「距離の値が古いようです」
セバスチャンが、計算用紙の最後の一行を指す。
「……なるほど。地球とヴェスタの距離に、前回の数値を使っていたのね」
計算し直すと、今度は観測結果とほぼ一致した。
「現在のヴェスタは、衝に近い位置にございます」
セバスチャンは机の中央に、太陽に見立てた大きなガラス玉を置いた。
その外側にヴェスタ、内側に地球の玉を並べる。
太陽、地球、ヴェスタ。
三つの玉が、ほぼ一直線に並んだ。
「地球から見ると、ヴェスタは太陽の反対側。日が沈むころに昇って、地球との距離も比較的近い。だから今が観測しやすいのね」
「そのとおりです」
星図の上では、わずかな光のずれにすぎない。
それでも位置を測り、数式へ当てはめれば、どんな軌道を巡り、どこへ向かうのかまでわかる。
やはり、天文学と数学は相性がいい。
「火星と木星の間には、ヴェスタ以外にもたくさんの小惑星があるのよね?」
「小惑星帯のことですね」
「そう。なぜ、あそこに集中しているのかしら」
「かつてそこには、ひとつの惑星があったのではないか――そう考える学者もおります」
セバスチャンはヴェスタの玉を取り除くと、代わりに小さなガラス玉をいくつも散らした。
「その惑星が砕け、現在の小惑星になったという説です」
「証拠は?」
「まだ仮説の域を出ません」
「なら、確かめればいいじゃない」
わたしは散らばったガラス玉のひとつをつまんだ。
「小惑星の軌道を過去へ遡るの。たくさんの軌道が同じ場所、同じ時刻に集まるなら、かつてひとつの天体だった可能性は高くなるわ」
「理論上は可能でしょう。しかし、長い年月を遡るほど、観測の誤差も大きくなります」
「難しいだけで、不可能ではないでしょう?」
わたしはガラス玉をひとつずつ指で動かした。
それぞれの軌道を逆向きに辿り、ばらばらの線がひとつへ収束する場所を探す。
「いつ、どこで砕けたのかがわかれば、原因すら推測できるかもしれない」
そこまで考えて、ふと気づいた。
「逆もできるわね」
「逆、とは?」
「砕けた破片を、どんな軌道へ入れたいのか先に決めるの」
小さなガラス玉を、太陽から異なる距離へ並べていく。
「望む未来から逆算すれば、最初にどの方向へ、どれほどの力を加えればいいのかがわかる。起きた結果から原因を遡るのと、計算する向きが逆なだけよ」
口にした瞬間、妙な感覚があった。
どこか懐かしいような、そんな感覚が。
あと少しで、なにかを思い出せそうな気がする――。
その正体をつかむより先に、セバスチャンが口を開いた。
「なるほど、興味深いお考えです。……まったく、末恐ろしいお方でいらっしゃる。とても七歳のご令嬢とは思えません」
「日付が変われば八歳よ」
五月四日は、わたしの誕生日だ。あと数時間もすれば八歳になる。
「これは失礼いたしました。では、あと少しだけ七歳のお嬢様として扱わせていただきましょう」
「なにか変わるの?」
「さて。明日の朝を楽しみにしております」
セバスチャンはわずかに微笑むと、観測記録へ視線を戻した。
わたしも、机に散らばるガラス玉を眺める。
現在の結果から、過去の原因を求める。
望む未来から、最初に加える力を求める。
初めて思いついたはずなのに、以前にどこかで聞いた気がした。
なにかで知った……いや、読んだのだろうか?
けれど、父の書庫にも、王立学会の目録にも、そんな論文はなかった。
――『小惑星の力学』。
その言葉が頭に浮かんだ途端、胸の奥の引っかかりが強くなった気がした。
思えばすでに、この時には記憶の蓋が開きかけていたのだろう。
その夜は観測所に泊まり、翌朝には屋敷へ戻ることになった。
車寄せに向かおうと、滝の上流をかすめる小道を歩いていた、その時だった。
――足元の路肩が崩れたのは。
そのまま滝へ投げ出され、前世の記憶が一気にあふれ出して。
わたしはようやく、あの引っかかりに答えを得たのだ。
『小惑星の力学』――それは、ジェームズ・モリアーティが著した論文のタイトル。
わたしのモチーフとなった、犯罪界のナポレオン。
そして、わたしはジャクリーン・モリアーティ。
今から十年後、霧都を混乱に陥れる悪役令嬢。
もっとも、この前世の記憶とやらを、無条件に信じるつもりはなかった。
プラトンの想起説では、魂は生まれる前に知っていたことを忘れ、学ぶことで思い出すという。
けれど、存在しない遊戯の内容まで思い浮かぶだろうか。
なにより、前世の記憶が戻っても、わたしはわたしのままだった。
ジャクリーン・モリアーティとして生きてきた八年間も、考え方も、好き嫌いも、ぜんぶそのままだ。
前世については、顔も名前も思い出せない。
残っているのは、断片的な記憶と知識ばかりだった。
過去世の記憶は今の生を妨げるため、転生時には失われる――アラン・カルデックが著した『霊の書』には、そんなことも記されていた。
ならば、前世の人格が欠落しながらも、知識だけは戻ったように感じるのも不自然ではないのだろうか。
もっとも、それで乙女ゲームとやらの記憶まで説明がつくとは思えないけれど。
ひとまず、この記憶の真偽については保留にした。
今すぐは確かめようもないが、乙女ゲームとやらの内容が現実に起これば、その信憑性はおのずと高くなる。
すべての不可能なことがらを除いていくと、残ったものがどれほどあり得そうになくても、それが真実なのだから。
「……この未来は回避しないと」
仮に前世の記憶が正しいなら、悪役令嬢になるデメリットが大きすぎる。
ジャクリーン・モリアーティという令嬢ひとりや、ライヘンバッハ公爵家が破滅するだけなら、まだいい。
だが、トゥルーエンドでは国そのものが衰退する。
主要人物たちが立て直していく未来は示唆されていたものの、公爵家の失脚が国へ与えた影響は、作中の随所で匂わされていた。
「悪役令嬢なんて、合理的じゃない」
つまりはそういうことである。
だからわたしは、八歳のあの日に記憶を取り戻して以来、未来の回避に奔走してきた。
やがて、乙女ゲームと同じ出来事がいくつも起こり、この記憶には一定の信憑性があると確信もしていた。
ジャクリーン・モリアーティは悪役令嬢にはならない。
そしてゲームで起こる事件は、黒幕であるわたしが設計したものだ。
わたしが動かなければ、事件も起こらない。
――そう、思っていたのに。
「ジャクリーン・モリアーティ公爵令嬢! マリー・メルモット子爵令嬢殺害の容疑で、身柄を拘束させてもらう!」
あれから十年後。
王宮のきらびやかな大広間を切り裂く、クラウディオ王太子殿下の声を聞きながら。
いったいどこで選択肢を誤ったのかと、わたしは思わず虚空を見上げていた。




