第四話 ナンシー・ベッケンバウアー博士は存在しない・3
さて、ベッケンバウアーを無事に宿に連れ戻したからには、大仕事が始まる。
まずは、泥だらけになった博士から服を脱がせて、オレの手でシャワーを浴びせた。次に、リオの手で手当てを受けさせた。
その次は……服を着てもらうための、説得、交渉、直談判。
「ハァ、やれやれぇ……君たちは本気で、これを着ろと求めているのかねぇ?」
博士はバスルームで、タオルと包帯を巻いた姿で、バスタブに腰かけている。
さんざんオレたちの世話になっておきながら、礼ひとつないのはいつも通りだ。
こいつはベッケンバウアー博士と同じスタイルを真似しようと、異様なほどこだわる。特に服装へのこだわりは、偏執狂に近いレベルだ。
恐らく少しでもスタイルを崩せば、もはや自分はベッケンバウアー博士の模造品とは呼べなくなってしまうと恐れているんだろう。この服装そのものが、アイデンティティの拠り所なのかもしれない。
「あのな……お前が本物のベッケンバウアー博士じゃないってことくらい、オレたちもとっくに知ってるんだ。誰も気にしてないんだから――」
「アアアアアアアアッ! 聞こえない聞こえない聞きたくないイイイイイッ!」
オレがゲンジツを告げた瞬間、博士は金切り声を上げ、紫髪をグジャグジャとかきむしった。
だが、説得を諦めるわけにはいかない。
博士のスタイルに合う代用品が、街で見つからなかったものがある。
服の上下と靴だ。
リオは期待に目を輝かせては、自分が街で見つけてきた新しい装いを差しだしている。
「けどネエサン、きっとこのドレス、似合うと思うんだ! それにこれだって、ハイネックみたいなもんだよ。ネエサンって細身だし、この手の装い、すごく様になるって!」
「いやぁ、リオちゃん。これはさすがにぃ……」
博士は困惑顔で、リオの手から真紅のパーティドレスをつまみ上げた。
「これはハイネックとは呼ばない。ホルターネックと呼ぶのだぁ。背中を大胆に露出する、刺激的なデザインさぁ。加えて、深々と切り込まれたスリット。歩くだけで美脚を見せつけられる仕様ときたか。どこの世界に、これを白衣の下に着る研究者がいるものかぁ……」
ベッケンバウアーはため息混じりに頬杖をつくと、チラと足元を見た。
彼女は以前、「紅いブーティでなければスタイルに合わない」と言っていた。
一応、そこには赤い靴が用意されている。
「実はね、ずっとネエサンに渡しそびれちゃったけど……こんなこともあろうかと、ネエサンの足に合いそうな靴は、僕が準備してたんだ!」
リオはそう言って自慢げに胸を張っている。
ただし、この子がサプライズで用意していたのは、赤と呼ぶよりは赤黒のデザイン。ブーティとは真逆の存在、「バッシュ」と呼ばれる靴だった。
「ハァ……リオちゃん、ずいぶんいいものを拾ったねぇ。1985年に発売された当時より、原点にして頂点との呼び声の高い、傑作バスケットシューズ……『エア・ジョーダン・ワン』ではないかぁ……」
博士は小馬鹿にした口調で解説すると、靴を片手に取り、ジロジロと眺めだした。
ただ、品定めを始めたとたん――ハッと顔色を変えた。
なぜかバッシュを何度も見回して、手放そうとしない。
「いや……そんなはずは……」
靴の裏、表、中と、あらゆる細部をチェックして、ずっと何かを探している。
「いや、いやいや……あり得ない、あり得てはならない……これだけの美品なのだ。当然、後年に大量生産された、再販モデルに違いない……だが……復刻版の刻印、が……」
博士はしげしげと、似たような箇所を何度も見直している。
「どこにもない……だと?」
何をそんなに焦っているんだ?
その靴に「復刻版の刻印」がないなら、何度見直したって、ないものはないんだ。それがないと何が困るかは知らないが、諦めてもらうしかない。
だが、博士はまだ納得いかないのか、ブツブツと何かつぶやいている。
「いや、いやいやいや……フェイク品だと考えようにも、これは……」
博士はまた、丹念に品定めを再開した。靴をグルグルと回し、バッシュの各パーツを永遠にチェックしている。
すさまじく不毛だ。
「なぜだ、なぜなのだ……すべて、すべて、当時の規格通りではないか……ロゴの深さ。革の厚み。通気孔のサイズ。インソールの仕様……裁縫もこれだけクオリティが高いのだ。ナイキ社製の本物と見て、間違いなかろう。だとすれば、まさか、この品……」
ベッケンバウアーは、何か恐ろしいことに気づいたような顔になった。
恐る恐る、自分が手にしているバッシュを、膝の上に置いている。
「85年発売の……初代モデル、か……?」
それが何を意味しているのか、オレにはピンとこなかった。
今は2056年だから、ずいぶん昔の靴なのか?
博士は額を押さえると、「神よ、なぜこれを私に……」と震え声でこぼしていた。
「リオちゃん、これはねぇ……最高の靴ではあるが、決して履いていい靴ではない。本来はしかるべきコレクターの手によって、ガラスケースの中に保管すべき品であって――」
「そうそう! 僕が見つけたときも、ガラスケースのテッペンに飾ってあったよ? だからすぐ、これって絶対いいものじゃんって、ピンときたんだ!」
博士はそれを聞いて、心底呆れたと言わんばかりに深々とため息をついた。
オレはその反応を見てーー内心、落胆した。
やっぱり、あいつはそういう奴なんだ。ベッケンバウアー博士のスタイルに合わない靴は、何があろうと絶対に駄目だと言いだす。
たとえリオが苦労して見つけてきた、最高のプレゼントだとしても――。
そのときリオが、ぴょんぴょん跳ねながらせがみだした。
「ねえねえネエサン、この通り! 僕の一生のお願いだからさあ、試しに一度、履いてみてよ!」
「……」
「ねえ、お願い、お願いっ! ちょっとだけでいいからさ!」
博士はリオに後押しされて、悩み悩み、痩せた足を靴に通した。
その瞬間、ベッケンバウアーは、大きく目を見開いた。
「アァ……神よ、私を赦したまえ……」
そう言って慎重に立ち上がると――愛しげに自分の足元を眺めている。
まるでシンデレラがガラスの靴を履かせてもらったようだ。クルクルとその場を回り、履き心地を確かめ、「とても信じられない」と言いたげに、嬉しそうな顔をして踊っている。
「ウフフ、私は夢でも見ているのだろうかぁ? ベッケンバウアー氏の贋作でありながら、私がオリジナルモデルの『エア・ジョーダン・ワン』を履いている……似者の私が、本物の靴を……アァ、夢ならば、どうか醒めないでおくれぇ……」
するとリオは、感極まった様子で、いきなり博士の腰に抱きついた。
オレはそれを見てギョッとした。
「リオ、何やってるんだ! そいつに気を許すなって、いつも言ってるだろう!」
オレはリオの肩を掴んで引き離そうとしたが、この子は頑なに、離れようとしてくれない。
ただ、リオに抱きつかれた博士は――ひどく、戸惑っている。
「リオちゃん……私が、怖くないのかい……?」
博士は、恐る恐るリオの背中に手を伸ばそうとしていたが――ガラス細工に振れるのをためらうように、怯えた顔して、手を退けた。
「……怖い? まあ……怖いかどうかって訊かれたら、僕だって正直……『ナンシー・ベッケンバウアー』さんは、今でもちょっぴり、怖いよ?」
「ならば……無理なお戯れは、おやめよ」
「けど、ネエサン……」
リオは両腕で、ぎゅうと力強く、博士を抱き締めている。
「……米沢ニイサンの命を延ばしてくれて、ありがと……」
博士はその感謝を受け――さらに、戸惑っているようだった。
***
「米沢くん……君ならば、何か知っているのかい?」
真夜中に、珍しく博士が話しかけてきた。
「知ってる、って……何が!?」
「とぼけるのはおやめよ。当然、リオちゃんのことだ……」
「オレ、に、答える、余裕、が……あるよう、に……見える、か……!?」
オレは、相変わらず、柱にマフラーを巻きつけ、ひとりで発作と格闘していた。
「……やれやれ、情けないものだ……」
博士は面倒くさそうに立ち上がると、懐から注射器を取り出し――オレの右腕に、鋭い針を挿入してきた。
瞬間、得体の知れない液体が、
体内に注射され、
脳内で――孵化した。
「く、ッ……ぁ……?」
オレの脳に、誰か別人の記憶が、寄生してくる。
その記憶が流れ込んでくると――骨まで溶けるような感覚に飲み込まれ――力が抜け――なすすべなく、床に倒れ伏すしか、なかった。
「な、にを……?」
「君に投与したのは、かつて私が発見した、ヘレン型ミミックの体液さ。そのミミックは、とある街を壊滅させ、街人を全員『おともだち』に作り変え、この世を去った。……米沢くん?」
「な、んだ……」
膨大な記憶が、脳内に流れ込んでくる。涙が出るほど、幸せな記憶だ。
どこを見回しても、ヘレンの『おともだち』がいる。皆んな、ヘレンに願いを叶えてもらえて、幸せそうにしている。
「このミミックの体液には、一時的ではあるが、ヘレン型リビングデッドの発作を鎮める効果がある」
そう言われたのと同時に――幸せな記憶が、終わりを迎えた。
記憶の流入が終わった瞬間、骨も肉も甘く溶けていくような多幸感は――みるみる引いていく。
オレは呼吸を整え、妙にシラけた気分で、起き上がった。
「なるほど……お前の言う通りかもしれないな。オレの頭の中にいる寄生虫が、すっかり大人しくしている」
「マア、その状態が、一晩は持つはずさ」
「だろうな……これでオレも、発作に邪魔されず、お前の知りたいことに答えられるってわけか」
「いや、礼にはおよばないよ、米沢くん」
「あのな……誰が感謝するか」
この部屋の中には、すうすうと、あの子の寝息しか聞こえなくなった。
博士はまた、窓辺に腰掛け、オレから距離を置いた。
「米沢くんは、たしか……リオちゃんとの付き合いは、一年近くになるだろう?」
「まあな……」
「あの子は、以前からあのようなことを?」
「見ての通りだ……いつもどころか、ほぼ常に、あんな調子だ」
「だが、リオちゃんは……限度を超えているではないか」
「……そうだな……」
だからオレも、手を焼いている。
さすがに、リオがどうしてあんな性分になったのか、オレにもわからない。
「私は……理解に苦しむよ……いつか必ず、あの子は私に幻滅するはずであると思っていた。お互い、短い付き合いになるだろうが、マア、多少は私の研究に役立つかと思ってね……だが……」
ベッケンバウアーは、度しがたいと言いたげに、頭を振った。
「……あの子は私に幻滅するどころか、日に日に、信頼が強くなっているようだ……しかも、今日はあのような件まで……」
――ネエサン、ニイサンの命を延ばしてくれて、ありがと……。
「米沢くん、言うまでもなく、あれは君が勝手に救われただけさ。私はきっかけを与えたにすぎない……」
「当たり前だ。ギル・ステファノ城下街の一件は、オレは一切、お前に感謝するつもりはない」
「そうさ、そうしたまえ……それこそが正しい反応である」
博士はそう言うと、不安げに右肩に触れた。
そこにあるはずの右腕は、かつて彼女が炸裂させてしまった。
「なぜだ……リオちゃんは、私の罪を知っている……私は多くの人間に、ありもしない希望を抱かせた。本物のベッケンバウアー博士を自称し、『一刻も早く、ワクチンの完成を急がねばならぬ』と力説し、研究のためには必要であると信じ込ませ……リビングデッドになることを、彼らに……自ら、選ばせた……」
あいつは重いため息をつくと、ふと窓の外を見やった。
「あれからもう数ヶ月になるかい……? 実に、早いものだね……」
彼女の横顔が、月明かりに照らされている。
何かにすがらないと不安で仕方ないと言いたげに、外の月を見つめている。
だが、オレにとっては――うらやましい話だった。
「ま、こう言ったらなんだけど……リオがそんなこと、気にするわけないだろう」
そう言ってやると、彼女は非難の目を向けてきた。
「……そんな顔するな、事実は事実だ。お前のしたことって、オレに比べたら、まだマシだ。そんなオレが、今でもリオの旅に同行してるんだ。だったら当然、リオはお前のことも、大して気にしないさ……」
「ほう、君にしては珍しく、身に過ぎた大口を叩くではないか。月は人を狂わせるとの俗説は、本物なのだろうねえ……」
「あのな……こんなこと、わざわざ自分で言うのも馬鹿らしいけど……」
オレはため息交じりに、あえて指摘してやった。
「オレがお前のうなじを噛んだとき、お前も見たはずだ。一年前、リオのニイサンは、三人とも『おともだち』にされたんだ」
「それがどうしたと言うのだ」
「だったら……なんでお前は、まだ疑問に思わないんだ?」
「疑問?」
「お前の方がよく知ってるくせに。ヘレン型なんて、いまどき野生には、一体も生息してない。一体もいないんだ。オレみたいな例外を除いたら、とっくに全員、絶滅している……そうだろう?」
そう暗に示すと――博士は少し、目を見開いた。
「……まさか……そんなはずは……」
「いや、リオは見ていた。ちゃんと、見ていたんだ……一年前のあの日、誰が三人を『おともだち』にしたのか――」
苦笑いして、シャツの胸元を、強く握り締めた。
「リオのニイサンを、三人ともリビングデッドにしたのは………………オレだ」
重い沈黙が、流れた。
沈黙が、重ったるく、澱のように、黒々と、流れていく。
そのとき――背筋に痛いほど寒気を感じて、オレは身震いした。
「……今夜は少し、冷えるな……」
「フフッ、そうかね? 夜の冷え込みにしては、まだ暖かい方ではないか」
「オレは白湯を飲むけど、ついでにいるか?」
「では、よろしく頼むよ」
「わかった……」
重い腰を上げ、キッチンのかまどに火を起こしに向かった。
「米沢くん」
ずいぶん小声で呼ばれた気がした。
振り向くと、リオのネエサンが、月明かりに照らされて微笑んでいる。
「……ありがとう」
***
結局彼女は、ナンシー・ベッケンバウアー博士になりきるのをやめた。
リオからもらった本物の靴を履き、自分のスタイルを崩した。
ただ――彼女がスタイルを崩した弊害は、すぐさま実害となって現れた。




