第四話 ナンシー・ベッケンバウアー博士は存在しない・2
「ベッケンバウアー! おーい、ベッケンバウアー! 聞こえたら返事しろー!」
オレは街を出て、かすかな匂いを頼りに、森の獣道に入ってみた。
雨脚はいよいよ激しさを増している。うっとうしいくらい雨が視界を邪魔してくる。オレの声も、ランプの光も、一体、何メートル先まで届いているやら……。
「まったく……こんな大雨の日に散歩に出る奴がいるか……」
ここでベッケンバウアーを見捨てるのは簡単だ。事故を装って始末することさえ、難しいことじゃない。
むしろ、本来ならもっと早めに駆除すべき危険人物だ。それをいまだに始末できない自分が、嫌になってくる。
だが、リオはあいつのことを「ネエサン」と呼んで慕っている。その信頼関係があるうちは、オレはベッケンバウアーを駆除できない。
ままならない。ままならないことばかりだ。
当然、ネエサンの身に危険が迫れば――オレはニイサンとして、助けなければならない。
ただ、時間はかかるだろうが、どうせあいつは無事に見つかるはずだ。
あいつはナンシー型のリビングデッドだ。ナンシー型は、三つの型がある中でも、感染力が一番強い。だからベッケンバウアーは、リビングデッドに襲われても何も問題ない。
それでもオレたちには、厄介な習性がある。
恐らくいまごろ、あいつは――。
「――なるほどねぇ、やはり私の仮説は正しかったのだぁ! アッハハハ!」
聞き覚えのある高笑いが聞こえて、ランプを掲げてみた。
茂みの向こうに、紫髪のゾンビがいる。と思いきや、あれこそがお目当てのナンシー・ベッケンバウアー博士だ。
それにしても……今日もひどい。
棒付きキャンディを咥えている博士は、オレに気づくと、微笑みながらヨロヨロと寄ってきた。その光景は、ちょっとしたホラーだった。
「アァ、米沢くん、君がそれほど驚くのも無理はなぁい……私自身、信じがたい事実であると、ウフフ……だが私も、見てしまったからには、信じるしかなぁい!」
「……」
オレは返す言葉に困った。
博士が何を言っているのかはわからないが、またゾンビ研究に『大きな進展』でもあったんだろう。
「そうさぁ、米沢くん……まさしく、まさしくである! リビングデッドの肉体はぁ、決して『腐敗』しているのではなかった! ハアァアア〜、こればかりは、私も専門家として、実に、実に恥ずかしく……ウフフ、あれこそまさに、素晴らしい進化が進んでいるとの、動かぬ証拠であったのだぁ!」
「……」
「ウフフフフフフフっ……かぁれらをごらんよぉ〜」
博士はそう言って、優美な仕草で、背後に広がる光景を示した。
こいつの目には、ヨーロッパの雄大な観光都市を展望する絶景でも見えているんだろうか。
「臓物が崩れぇ、皮膚が溶け落ちぃ、筋肉が液化してゆく……ハァ、彼らを祝福せずにいられようかぁ〜? ハァアアアア〜……レオナルド・ダ・ヴィンチよぉ、この声が届くならば、存分に私を呪うがいい……私も貴殿を、心から憐れもう……貴殿がこれを目にしたならばぁ、モナ・リザなどという凡庸な微笑みに、生涯を捧げたりはしなかっただろうにぃ……ウフっ……フクククッ……アッハハハハハ!」
博士が今日も楽しそうで何よりだ。
ただ、いくら熱心に語られても、まったく意味がわからない。
リビングデッドが腐っていくのが、進化の証拠?
あのボロボロな肉体が、美しい?
何をどうねじ曲げて考えれば、そんな奇妙奇天烈な考えができるんだか。
見れは博士の服は、ひどい有様だ。
ピンクのレインコートは切り裂かれ、黒いストッキングは破れ果て、手足や顔には噛み傷だらけ。迎えに来て正解だった。
「……ベッケンバウアー、これで何度目だ。頼むから、出先でゾンビに噛まれるのだけは、ほどほどにしてくれって、あれだけ言っただろう」
あきれて苦言を呈すと、博士はカッと目を見開き、激しくうなずき始めた。
「私も同感だぁ! この地球外生命体は、いまだに多くの謎が尽きないッ!」
何をどう同感したら、そんな話につながるんだ。
「『ジェミニは、寄生虫には分類されない』『ジェミニは、ウイルスとも呼べない』それは確かに事実である。ならば『ジェミニ』とは、リビングデッドの病原体とは、この惑星の新たな支配者とは……一体、何モノなのだぁ!?」
「知らない。わからない。わからなくても、別にいい……」
投げやり気味に言い捨て、目を逸らした。
早くリオのいる宿に帰りたい。
「そうさぁ、その通りイイイイ〜ッ! ジェミニの正体とは、わからないことが分かっているのだァアアアアッ!」
博士は急にオレの肩を掴むと、興奮した息遣いで迫ってきた。怖い。
「『ジェミニの生存戦略とは何か?』と問いかけたとき、『地球上のいかなる病原体とも異なる』としか答えようがない。だがしかしッ! 私は気づいたのだぁ、すべては聖書に記された通りであると……あれが来ることは、すでに預言されていたのだぁああっ!」
恍惚とした表情のベッケンバウアーは――そのままフラフラと過ぎ去っては、また暗闇の中へ消えようとしている。
あいつ……今日は本当に絶好調だな。どうかしているにもほどがある。
「あのな……どこ行くんだベッケンバウアー。イヴァノフのトンネルは反対側だ」
「そうさぁ、そうである……であるからしてリビングデッドとは、人類を超越した、上位人類にあたるのだぁ!」
悲しいかな、会話は何ひとつ成立しなかった。
だんだん面倒くさくなってきたな。
どうやら博士は、リビングデッドの習性を通じて、素敵な研究のアイディアでも拾ったんだろう。オレたちは極めて簡単な方法で、膨大な情報をダイレクトに交換できるものだ。
何せ、リビングデッドの脳に巣食っている『ジェミニ』という寄生虫は、貪欲に知識を欲している。ヒトが考えること、感じることなら、どんな記憶でも余さず集めたがる。そんな寄生虫を満足させるための習性が、リビングデッドには備わっているわけだ。
「おい、ベッケンバウアー。話を聞かないなら、少し痛い目に遭ってもらうぞ」
「アァ、やはりジェミニとはぁああああ、すべての願いを叶える寄生虫でありぃ、我々人類を導く救世主だったのだぁ! アッハハハハハハハハハ!」
一応、警告した。配慮した。別の方法を示してみた。
それでコミュニケーションが取れなかったんだ。もう一段階、直接的なコミュニケーションを取るしかない。
オレは博士の襟を掴み――彼女のうなじに、深々と、噛みついた。
高笑いが――やんだ。
口の中に、血の味が広がってくる。そろそろ十分だろう。
オレはベッケンバウアーのうなじから口を離し、白衣の襟を手放した。
彼女は二、三歩よろめくと、うなじをさすり、軽蔑しきった目を向けてきた。
「……米沢くん……君は正気かねぇ?」
オレはオレで、口の中から血の味を吐き捨てた。
今のひと噛みで、オレが思っていたことがダイレクトに伝わったはずだ。
思考だけじゃない。オレが見てきた光景、経験、感情――オレの脳に蓄積された、あらゆる情報。そのすべてが、余すことなく、あいつに伝達したはずだ。
まあ、あいつが嫌な顔をするのも無理はない。
本来は経験豊富なリビングデッドが、未熟な個体にせがまれて、ほどこすのが通例だ。まかり間違っても、生後一年未満のオレが、あいつに迫っていい行為じゃない。オレだって、やらなくていいなら、こんな手段に出たくはなかった。
オレたちの体液には、寄生虫の卵が無数に漂っている。その卵には、これまで寄生虫が保存した情報が、すべて詰まっている。それこそ、文字通り、すべてだ。
だからリビングデッドは体液を植えつけるだけで、自分が持っている情報を、相手に押しつけることができるわけだ。
この便利なコミュニケーションを、博士は『魂の交流』という、えらく大仰な言葉で呼んでいる。
「ベッケンバウアー……お前にも見えただろう。宿でリオが待ってる」
――ニイサン、ネエサン……僕を置いて、いかないで……。
彼女がゆらりと、オレの目を見た。
その瞬間、彼女の長いまつ毛から雫が滴った。
「……米沢くん、急ごうではないか。リオちゃんをこれ以上、待たせてはいけないよ」
キママな奴だ。ランプを持っているのはオレだというのに、彼女はさっさと道を引き返し始めた。
あいつはどうしてか、リオのことになると、すぐに正気を取り戻す。
ただ、いくら考えてみても――理由がわからない。
なぜベッケンバウアーは、リオをリビングデッドにしようと襲わないんだ?
なぜベッケンバウアーは、リオの味方につくんだ?
考えれば考えるほど、不気味な話だ。
過去にあいつが手にかけた人間は、何千、何万、何十万人いたか、想像もつかない。あいつは十数年に渡って、人間社会を食い散らかし、大小さまざまな街を滅ぼしてきた、歴戦のミミックだ。
そんな奴が、リオの旅に加わったとたん――誰ひとり人間を襲わなくなった。
ここ数ヶ月、あいつが人間を食い物にしたり、血の匂いを感じたことはない。
「……な、ベッケンバウアー。ちなみにお前は、寄生虫に何て願ったんだ?」
仄暗い森の中、紫髪の女性が、ゆっくりと振り向いた。
うねりの強い乱れ髪が、雨に濡れ、顔の右側に貼りついている。
「私はナンシーに、こう願ったよ……私の研究が、実り豊かであることを……『私の愛し子に、祝福あれ』と……」
彼女は愛しげにオレを見つめるとーーコクリと首をかしげた。
「だが、今にして思えばぁ……あれは本当に、私の願いだったのか? あるいは寄生虫がこう願えと、私に仕向けただけなのか? 私の願いは、もっと別にあったのだろうか……そもそも私は、誰だったのだ……?」
彼女はゆったりと片腕を広げると、天を仰ぎ見た。
神の恵みと呼ぶにはあまりに冷たく、激しい、攻撃的な雨だ。
「フフ、神よ、わかっております……私が誰であろうと、何ひとつ構いません……私のもとに我が子を授けてくださったこと、心から感謝いたします……この生涯を捧げてでも……私の……わたし……わ、たし、の、子……?」
彼女は急に腕を広げ――血走った目をオレに向けた。
「アァッ、米沢くん! 私は!? 私とは!? 私の愛し子とは一体、一体! どこにいるのだぁ!? 私は『ナンシー・ベッケンバウアー』ではない、そのような科学者ではなぁい! ならば私の愛し子は、私の、子は……どこ、に……?」
そう問いかけられ――オレは淡々と、ゲンジツを告げた。
わざわざ指摘するのも馬鹿らしくなるほど、当たり前のゲンジツを――。
「お前が本当にそれを知りたかったら……お前の首には、ドッグタグが下がってる。それは、こういうときのためにあるんじゃないか……」
「……」
「いや……安心しろ。お前はまだ、ドッグタグを無くしてない。お前が見ようとしないだけで、そのハイネックのセーターの内側に隠してある。……そうだろう?」
ただ、そう告げた瞬間――彼女の身体が、ふらりと揺れ、また踊り始めた。
激しい雨を受け入れるように、ふらふら回りながら、天を仰いで微笑んでいる。
「ウフ……ウフフ……フハハハハハハハハハ!」
ただ、高慢なほど幸せそうに踊っていた彼女は――突然、発狂したように、金切り声をあげた。
いやーー発狂したんじゃない。
きっと彼女は、正気に戻ってしまったんだ。
天に向かって「神よ、どうか我が子に祝福を」と叫んでいるが、
その悲鳴はあまりにも悲痛で、はた目にも、明らかな疑問が首をもたげる。
あれは本当に、願いなのか? それとも――。
彼女は何度も、天に腕を伸ばし、空を掴もうと、足掻いている。
あれだけ悔やんでも、悔やみきれないんだろう。
喉が張り裂けるほど嘆いても、誰にも届かないんだろう。
それでもなお、奇跡を願わずにはいられないとばかりに――冷たい雨には、かすかに、涙の匂いが混じっていた。




