第四話 ナンシー・ベッケンバウアー博士は存在しない・1
アァ! やはり『ジェミニ』とは、すべての願いを叶える寄生虫であり、
我々人類を導く救世主だったのだ!
遅い。博士の帰りが遅い。
宿でいくら待っていても、ベッケンバウアーが帰ってこない。
「……ねえ、米沢ニイサン。ネエサンの帰り、遅いね……」
宿の窓辺にかじりついているリオは、そう言って心細げにオレを見上げてきた。
白樺の匂いがするログハウスの二階は、二人きりでは、やけに広く感じる。
外はもう真っ暗だ。リオが退屈まぎれに聴いているラジオからは、バラエティ番組のわざとらしい爆笑が流れ、部屋の中を虚しく空回りしている。
あいつは朝から「フィールドワークに出かける」と言って、ひとりでイヴァノフの街を出ていった。
いつごろ戻るかは聞かなかった。だが普段なら、日没までには帰るはずだ。何せあいつは、ランプもライターも持たず、手ぶらも同然で出て行ったんだから。
そんなことを考えていると、リオが抱えているラジオから、時報が流れた。
もうこんな時間か。
とっくに日没を過ぎている。リオの夕食さえも済んでしまった。
なのに博士が……帰らない。
毎度毎度、本当に手間のかかるネエサンだ。
オレは黒のレインコートを羽織り、燃料式ランプを手に取った。
「リオ、この部屋で待っててくれ。オレがベッケンバウアーを探してくる」
「え? ニイサンひとりで平気? だったら、僕もついてく!」
リオはラジオを放りだすと、レインコートを着ようと駆けだしてしまった。
「あのな……駄目に決まってるだろう。もうこんな夜だ。リビングデッドがいまごろ森中をうろつき回ってる」
「け、けどっ! ニイサンは鼻がいいから――」
「いや、今日は無理だ。これだけ雨が降ってると、匂いが流れて、オレも大まかなことしかわからない」
「うぐぅぅうう……」
それでもリオは諦めきれないのか、レインコートをハンガーから外している。
「けど別に……全然平気だもん! 僕だってけっこう成長したんだ。ちゃんと周りに注意するから――」
オレはリオの腕を掴んで、首を横に振った。
「君はここにいろ」
「……」
「頼む、ここはニイサンの命令に従ってくれ」
「……はーい」
リオはオレの手を振りほどくと、急にそっぽを向いて、しおらしくなった。
ああ、これは駄目だな。目を離した隙に、こっそりついてくるつもりだ。
すまない。そっちがその気なら、こっちも卑怯な手を使わざるを得ない。
「ふふっ、ふふふっ……あっはははははははっ!」
オレはあえて、冷ややかに笑ってみせた。
普段あまり人前で笑わないせいか、あの子は目を丸くして驚いている。
「な、なに、米沢ニイサン……?」
「ははっ、いや、すまない、ちょっとツボに入って……ただ、こんなこと、わざわざ言うのもどうかと思うけど……君、もうすぐ十五になるって、忘れてないか?」
「そっ……まあ、そうだけど?」
「ふふっ……じゃあリオ、君のニイサンたちは、その十五のとき、何してたんだい?」
「そ、れは……」
「ははっ、なに急に恥ずかしがってるんだよ」
オレはふと、笑うのをやめた。
「三人とも、十五で大人の仲間入りして、数年足らずで故郷を旅立って、立派に独り立ちしたんだろう? なのに君って……ふふっ、まあ、いいんだけどさ……あのニイサンたちが、苦労して面倒見てたって思うと……」
オレはあえて目を逸らし、あの子の目の前で、ぼそっと陰口を叩いた。
「今の君…… ニイサンには、見せられたもんじゃないな……」
ありふれた言葉。何てことない指摘。リオを見ていれば誰もがそう思うだろう、どうということのない現実だ。
だがこの子にとっては――ほんの少し浴びせただけで猛毒に変わる、致死毒だ。
「ご……ごめん……ごめんなさい……僕……」
リオはみるみるしぼんでいくと、見ていて気の毒なくらい縮こまり、自信なさげにうなだれて、震え固まってしまった。
オレはマフラーを下げて、あの子の感情の匂いを、注意深く見守ることにした。
どうやらオレの想定以上に、毒が浸透している。
あの子の感情の匂いは、急激に悪化していく。
見ればあの子は、奥歯を噛み締め、たまに発作的に頭を振っている。「違う」「ごめん」「どうして」「何やって」――そういった刺々しい言葉を反射的に口にしては、何かの記憶と戦っている。
人間がトラウマを乗り越えるのは、非常に難しいと聞く。
本来は刺激しない方がいいらしいが、今回はそれを逆手に取らせてもらった。
トラウマのフラッシュバックは、一度始まれば、歯止めが効かなくなる代物だ。
最初はささいな一言がきっかけだとしても――ドミノ倒しのように連鎖は進み、トラウマから噴き出す記憶の量は、加速度的に増えていく。
痛みが痛みを刺激し、記憶が記憶を呼び起こし、トラウマがトラウマを抉っていき、抉られたトラウマからは激しい血飛沫のように大量の記憶があふれ出し――。
「リオ」
オレはあの子に向けて、軽く両腕を広げてみせた。
「……すまない。君を笑ったりして悪かった」
これが罠だと気づかれないよう、なるべく誠実そうに微笑みを見せた。
「なあ、リオ……■■■」
そう命令した瞬間、リオは泣きそうな顔して、迷いもせず腕に飛び込んできた。
受け留めるとき、ずっしりと、頼もしい重みを感じた。
この子もこの一年で……だいぶ成長したんだな。
だが、まだこの手に引っかかってくれるんだから、素直でいい子だ。
「安心しろ……君はここで、ゆっくり休んでくれ……」
強く抱き締めながら、耳に触れるほど近い距離で、あの声を聞かせた。
だが、リオは本能的に危険を察したのか、ゆるく首を振っている。
「ニイ、サン……やだ、その声……」
「平気だ……何も怖がることはない……」
「や、だ……やだ、よ、ニイサン……ニイ……サン……」
弱々しく抵抗している。健気なもんだ。
それでも声を聞かせているうちに、逃げようとする力は、弱まっていく。
オレはヘレン型の擬態種だ。「優しい声」は、人間を仕留めるときによく使う。
独特の周波数で声を揺らし、低く、響くように囁やけば――人間の耳には、とろけるような心地よさを感じさせられる。「優しい人に抱かれている」と錯覚させ、まどろみの中に、誘い込むことができる。
人間は、可愛い生き物だ。
極度のパニックに陥った子を、あまり急激にリラックスさせると――ブレーキが効かず――リラックスしすぎて――失神する。
「ニイ……サン……」
かくん――小さな頭が、オレの肩の上に落ちてきた。
いい匂いがする。この子は今、溺れるほどの安心感にどっぷりと沈んでいる。
オレにすべて身を委ね、大人しく意識を手放してくれた。
それを見て、内心、ほっとした。
「……すまない。君を護るのが、『米沢』から預かった役目だ。許してくれ」
この子を両腕に抱え、起こさないようにゆっくりとベッドに横たえた。
毛布をかけようとしたとき――リオが眠ったまま泣いていることに気づいた。
何か怖い夢でも見ているんだろうか。
「ニイサン、ネエサン……僕を置いて、いかないで……」




