第二話 微笑み、微笑み、しかも邪悪たりうる・1
ラウルですか?
ははっ、すいません、彼は今、体調が悪くて、人に会えないんですよ!
窓の外に目を向けてみると、待ちに待った夜明けがきた。
オレたちが旅で訪れた田舎街には、今朝も冷たい長雨が続いている。
オレは少し大きめの声で、二段ベッドに声をかけてみた。
「リオ、朝になったぞ。そろそろ起きてくれ」
だが……返事はない。
「リオ、もう朝だぞ」
ベッドの上の段をのぞけば、リオはぐずるように顔しかめている。
「米沢ニイサン、もうちょい寝かせて……あと五分……五分で、起きる、から……」
この子は大あくびすると、毛布をかぶって背中を向けてしまった。
「……わかった、あと五分ってことは……少なくとも、あと三〇分は起こさないでくれってことだな?」
「米沢ニイサン大好き」
「はいはい……今日も絶好調で何よりだ」
仕方ない。とりあえず朝の日課を進めよう。
ひとまず朝食を作り終えたから、次は部屋の空気の入れ替えだ。
窓枠はかなり錆びてるが、力を込めて押し上げると、少しずつ、少しずつ、隙間が広がっていく。
ただ、新鮮な空気に乗って――懐かしいあの匂いが入ってきた。
――ガシャッ!
オレは恐怖を感じて、とっさに窓を閉めた。
そのとたん、懐かしい匂いは、ぱったり途絶えた。
あまり匂いが流れ込んでくるのは嫌だな。同じ匂いに囲まれていると、だんだん方向感覚が混乱してくる。
ミミックがまだ外にいるのか、それともすでに、この宿に侵入しているのか――それがわからなくなるのは怖い。
ただ……あまり匂いは遠くなかった気がする。
オレは軽く部屋を見回した。朝の日課はすべて終わった。
あとは出発前に、武器を整えなければ。ミミックを駆除する現場では、また荒事になるかもしれない。
オレはキッチンから拳銃を手に取ると、動作確認を始めた。
残弾は二発か……ギリギリだな。
だが、この街の銃火器専門店に立ち寄る暇はない。
仕方ない。隠しナイフは多めに仕込んでおこう。
「……ニイサーン……ねえ、どしたの?」
振り向けばリオが、毛布の隙間からチラと目をのぞかせている。
オレは努めて何気ない笑顔を見せた。
「……何が?」
「だって、変だなーって……普段ならしつこく、僕のこと起こしてくれるのに……」
「いや……ははっ、たまにはいいかなって……」
ジャコッ――拳銃にマガジンを装填する音が響いた。
「ねえ、ニイサン……? なんでそんな、物々しいことしてんの?」
「ああ、いや……」
気まずくなって目を逸らした。
隠しナイフは、自分のザックに予備がある。袖口や懐など、なるべく多く仕込んでおこう。
「少し……用事を済ませてくるだけだ」
そう言って苦笑いしたが、リオはますます不安そうな声で食いついてきた。
「……ニイサン、そんな武器持って行くって……何があんの?」
「や……少し野暮用を済ませるだけだ。すぐ戻ってくる」
「ねえ、それって今じゃなきゃ駄目? だって、外、まだ真っ暗みたいなもんだよ?」
「まあ、そうだな……どうせ、いつ済ませてもいい用事なんだ。だったら、今すぐ済ませてこようかなって。ははっ、ただそれだけの話だ」
オレはなるべく余裕ありげに、のんびりと肩をすくめてみせた。
ただ――これ以上モタモタしていられない。
話題を逸らして、あの子をさっさと寝かしつけておこう。
「ふふっ、リオ、そんなに元気が余ってるんだったら、もうベッドとお別れして起きるか? ま、どうせまだクタクタで、動けないくせに。こうやって大目に見てやるのは、今日だけだぞ。気が済むまで寝れば――」
「ねえ! ニイサン、どこ行くの!? そんくらい、教えてくれたっていいじゃん!」
リオはオレの話を遮るように、頑として食い下がってきた。
参ったな……あの子はオレの命令権限を持っている。訊かれたからには、正直に答えるしかない。
「……ルドルフ・カラシニコフさんのところだ」
「それって、たしか……僕がドッグタグ届けに行かなきゃならない人、だよね……?」
「そうだ。いいから君は寝ていろ」
オレは着々と、現場に隠し持っていく武装を整えていった。
「ね、ねえニイサン……なんか変だよ! なんでその人のところに、朝から武器持って行こうとしてんの!?」
「まあ、オレもその人に用事があるんだ。この武器だって、ただの自衛だ。別に使う予定はない」
「だったら僕だって――」
「駄目だ」
リオから命令を受ける前に、とっさに話を遮った。
「君は来るな。この部屋で休んでいろ」
「なんでえっ!?」
リオが驚き顔でオレを見たとき、真っ白な髪は寝癖ですっかり乱れていた。
「よ、米沢ニイサン、なんで!? なんでそんなことすんの!?」
「……急いでるからだ。あとで説明する」
隠しナイフを最後まで仕込み終え、ようやく武装が整った。
オレはレインコートを羽織りながら、念のため忠告することにした。
「あと、オレが出かけている間……絶対に部屋から出ないでくれ。もし来客があっても、オレとベッケンバウアー以外は、誰も部屋に入れるなよ」
「な、なに……それ……?」
「火事だ何だと騒がれても、決してドアを開けるな。外を見ろ。今日はこんな雨だ。もし本当に火事が起きても、あそこの窓から外へ出て、屋根に避難すればいい」
オレが出かけている間、入れ違いでここへミミックが来ると困る。なるべく真剣に、あの子に念を押しておいた。
「いいか、どんな理由であれ、『このドアを開けろ』と言われても……オレが帰るまで、絶対に応じるな」
そう告げると――あの子は異変を察したのか、みるみる表情が硬くなっていく。
しまった、少し言いすぎたか。
「……ははっ、『また心配性が爆発したな』って思っただろう? まあ、取り越し苦労だってわかってる。オレもそろそろ、君を子ども扱いするのは辞めるべきだな……」
そんなことを冗談めかして言ってみたが、リオの表情は硬いままだ。
マズいな。あの様子だと、このあとオレをつけてくるかもしれない。
それだけは、なるべく阻止したい。
リオの手元を見てみると、枕元には手帳型の地図帳が置かれている。
「……わかった。じゃあ、こうしよう。オレが用事に行くんだから、ついでに『ルドルフ・カラシニコフ』さんのドッグタグは届けておくよ」
オレが手を出した瞬間――リオは手帳を、サッと後ろに隠してしまった。
「だっ、駄目だよ! これ届けにいくんだったら、僕も一緒にいく!」
「……」
参ったな。それだけは、言ってほしくなかった。
この子のためにも、今は安全な宿にいてほしいんだがーー。
オレが今から済ませる用事は、決して愉快なものじゃない。
言ってしまえば、害虫駆除に近い。基本的に不快な思いをするだけの、嫌な仕事だ。そんな現場に、この子を巻き込みたくない。
「リオ、本当に急いでるんだ。すぐにでも出ないと――」
「だったら!」
リオは二段ベッドを飛び降り、洗面所へと駆けだしてしまった。
「今日は朝ごはんいらない! ねえニイサン、ちょっと待ってて! すぐ着替えるから、置いてかないでね!」
「……」
リオが真横を走り去ったとき、あの子の感情の匂いを、はっきりと感じた。
オレは振り向いて、廊下を眺めた。
あの子もだいぶ大きくなったと思っていたけど、そういうところは、相変わらずだったのか。
「リオ」
洗面所で着替えているオトウトに向けて、思わず声をかけた。
「……悪かった。君を置いていこうとしたのは、謝る」
リオは白いワンピースを頭からかぶると、慌ただしく駆け寄ってきた。
「ニイサン、お願い! ワンピース着たから、背中、手伝って!」
「ん……」
オレは苦笑いしつつ、背中のチャックを上げるのを手伝った。
***
部屋で支度を済ませると、オレとリオは宿を出た。
身を刺すような冷たい雨の中、「イヴァノフ」という田舎街では、ささやかな朝市が開催されている。
「ねえ、米沢ニイサン……それって間違いないの?」
青いレインコートを着ているリオは、人混みをすり抜けながら、不安げに訊いてきた。
「ん……間違いない」
市場には、あらゆる匂い、声、熱気が混在している。表通りのいたるところで、ピロシキと呼ばれる惣菜パンが、焼き立ての香りを漂わせている。
ただ、活気ある市場の中に――懐かしいあの匂いがまぎれている。
「この街のどこかに……オレと同じ、ヘレン型の擬態種が潜んでいる」
「それって……」
オレとリオは、少し足早に進むことにした。
ぬかるんだ泥が、テンポを上げ、水音を立てていく。
「ニイサン、ひょっとして僕が『間違いだ』って言われちゃった、ルドルフ・カラシニコフさんって……」
「ん。その人がミミックとして潜り込んだ可能性が――」
そのとき――大柄な男性と肩がぶつかった。
穀物の大袋を抱えている男性は、「おっと失敬!」と笑顔で会釈をくれた。
人間の匂いがする相手だ。オレも「すいません」と頭を下げた。
「ただ、この街の匂いは……妙だ」
「みょう?」
「街にミミックが潜り込んだのは、昨日今日じゃなかったはずだ。だったら……彼はなんで、リビングデッドを作らないんだ?」
「え? ……どういうこと?」
「ミミック以外に、リビングデッドの匂いはひとつもない。他は全員まだ人間だ」
するとリオは、慎重に問いかけてきた。
「ニイサン、それって……良いニュース? 悪いニュース?」
「まだどちらとも言い切れない」
今までオレは、ミミックの駆除には何度も関わったことがある。それでもこんなケースは初めてだ。
ゾワゾワと、虫が這いずり回るような、奇妙な胸騒ぎがする。
この街に潜り込んだミミックは、いまごろどこで、何をしているんだ?
いや、あるいは――誰から、何をされているんだ?




