プロローグ「駄目だよ、大丈夫だよ」
「米沢、米沢――」
呼ぶ声が聞こえて、オレは目を開けた。
目の前に、斧の刃が迫ってくる――
振り下ろされたそれは、ためらいもなくオレの頭を貫き、すさまじい破砕音が響いた。
脳天から背骨まで、電撃のような衝撃が走る。
だが、それ以上に気になるのは――「米沢」と呼んでいた、あの子のことだった。
小さな子どもが、「置いていかないで」「ひとりにしないで」と泣いていた。
誰も助けに来ない。あの子は、無事なのか――?
もっと心配してやりたい。でも思考が鈍る。
死ぬほど冷たいはずの痛みが、妙に心地よく感じられて、霧のように意識がぼやけていく。
――これは、死ぬのか。
やがて斧が、ズルッと引き抜かれた。
視界が開けると、目の前には――
真っ赤に染まった女の子がいた。
斧にもたれ、力なくうなだれている。
長い銀髪がさらりと落ち、血に濡れた毛先が粉雪のように輝いていた。
……綺麗だ。
見とれた次の瞬間、ようやく気づく。
ああ、よかった。
「米沢」と呼んでいたのは、この子だったんだ。
白い髪もワンピースも、全身が返り血に染まっているが、傷はない。無事らしい。
だが、その子はオレと目が合った瞬間、はじけたように叫んだ。
「えっ!? き、君……誰ッ!?」
驚いているのは、こちらも同じだった。
てっきり女の子だと思っていたが――
どう見ても男の子だった。
あのはつらつとした驚き顔。まぎれもなく思春期の男子そのもの。
ぼんやりと首を横に振ると、少年は天を仰ぎ、叫んだ。
「卑怯者ッ! 卑怯者ッ! 卑怯者ォオオオオオオッ!!」
天に怒鳴り散らし、やがて膝をつき――
「米沢、灘ニイ、芝ニイ……ごめん、ごめん……」
まるで、最後の最後で失敗してしまった子どものように、声をあげて泣き出した。
何があったんだ?
周囲を見渡すと、三体のゾンビ――リビングデッドが、無残に転がっていた。
顔は潰れ、迷い傷だらけ。
――きっと、あれが「米沢」「灘ニイ」「芝ニイ」なんだ。
つまりこの子は――三人を殺したんだ。
そしてオレは、四体目。
この子に“始末”される運命の存在だった。
少年は、唐突に笑顔を見せて言った。
「そうだ……君のこと『米沢』って呼ぼうよ!」
……は?
「名前がないと不便でしょ? だから、『米沢』って呼ぶね!」
目を閉じたまま、無邪気に笑うその顔に、ゾッとした。
怖い。この子の目は笑っていない。
「起きて、ぼんやりされちゃ困るんだよ!」
楽しげな声とともに――斧が、オレの肩に突き刺さった。
「がッ……アアァアアアアアアアアッ!!」
激痛が走る。思考が一気に覚醒する。
やっと理解した。オレは――この子に殺される。
「よかった! ちゃんと起きてくれたんだね!」
少年はドッグタグを拾い、血まみれのそれを差し出す。
「はい、『米沢』!」
……冗談じゃない。受け取れるわけがない。
首を横に振ると、少年はにっこりと笑って告げた。
「駄目だよ」
「……え?」
「駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ……」
背筋に、ゾワリと寒気が走った。
この子の気配が、どんどん高揚していく。
危険なほどハイになっていく――
慌てて、オレはドッグタグを掴んだ。
その瞬間、少年はふっと力を抜き――
「大丈夫だよ」
そう言って、オレの胸に倒れ込んできた。
覗き込むと、静かな寝息が聞こえる。
……寝た?
あまりにあっけなくて、オレは思わず苦笑した。
一体何者なんだ、この子は。
ただ、眠っている間は、人間らしい。
パーカーの袖をぎゅっと握って、寒そうに震えている。
オレはボロボロのパーカーを脱ぎ、そっとかけてやった。
その寝顔を見ているうちに――
さっきまで感じていた寒気が、少しずつ和らいでいった。
この子に殺されるために、生まれてきたのかもしれない。
それでも――今は、このぬくもりを、もう少しだけ感じていたい。