第2話 乗ってる側、乗られてる側
走っている。
誰かが走っている。
その「誰か」の中に、僕がいる。
気づいたら、視界が左右に伸びていた。
普段は見えない自分の右後ろが見え、左後ろも見え、ついでに空も足元も同時に見えていた。脳が処理しきれず、ぐにゃ、と世界が歪んだ。
馬の目は横についている、と中学校の保健の教科書に書いてあったのを、こんなときに思い出した。教科書に何かを感謝する日が来るとは思わなかった。
四本の足は、僕が動かしているわけではなかった。
それでも勝手にリズム良く動いていて、地面を蹴る一歩ごとに、体全体が前にぐん、と進んだ。
肺が大きい。普通に息を吸うだけで、人間の三回分くらいの空気が入ってくる。心臓が、胸ではなく、お腹の真ん中あたりで太鼓を叩いていた。重量感のある太鼓だった。神社の祭りの。
「えっ、えっ」
声を出したつもりだったが、口から出たのは、はぁっ、というただの呼吸音だった。
それはそうだ。馬は喋らない。
肝心なところで僕は、馬の常識を忘れていた。
背中に、何かが乗っかっている。
軽いのに、確実に乗っかっている。たぶん人間だ。たぶん騎手だ。
その人間が、僕の背中で前傾になり、首のあたりで何かを呟いている。
「いいぞ、行くぞ、ナミダ、いいぞ」
ナミダ。ナミダフクザツ。
ああ、そうだ。僕は今、ナミダフクザツである。
冷静になろうとしたが、なりようがなかった。冷静というやつは、たぶん体と意識が同じ住所にある人間にだけ許される贅沢である。
とりあえず、今、レースが始まっている、ということだけは分かった。
ファンファーレのあと、ゲートが開いて、僕は飛び出した。たぶん飛び出した。記憶がない。気づいたら走っていたから、つまり飛び出したのだろう。
走ってはいたが、僕が走らせているわけではなかった。
助手席に乗せられた人間が、運転席の誰かに勝手にハンドルを切られているような感覚だ。アクセルは僕のじゃない。ブレーキも僕のじゃない。それでも車は前に進んでいて、しかもサーキットを走っている。
誰がやっているのか。
それは、考えるまでもなかった。
「あの……」
心の中で、僕は呼びかけてみた。
返事はなかった。
返事はなかったが、誰かがそこにいる、という気配はあった。風呂場の扉の向こうに人がいる、みたいな気配だ。
「あの、ナミダ……フクザツ、さん?」
さん付けは、たぶん丁寧すぎた。
「うるさい」
頭の中で、声がした。
低くて、太くて、面倒くさそうな声だった。
例えるなら、休日に布団から出たくない四十代の男の声だった。
「うるさい。走ってるとき、話しかけるな」
「あ、すみません」
つい謝った。馬に謝った。三十七年間生きてきて、馬に謝るのは初めてだった。
「お前、誰だ」
「えっと、矢野です」
「ヤノ」
「ヤノ・ハジメです」
「人間か」
「人間です」
「なんで俺の中にいる」
「それは、僕にも分かりません」
「乗ってくるな」
「乗ってないです」
「俺の中で喋ってる時点で、乗ってる」
「……ですよね」
「上のは仕事で乗ってる。お前は何で乗ってる」
「えっと、たぶん、祈りで」
「祈り?」
「祈ってたら、いつのまにか」
「迷惑だ」
「ですよね」
馬は、面倒くさそうに鼻を鳴らした。実際の鼻からも、ふん、という音が出たので、背中の騎手のおじさんが、おっ、というような小さな声を上げた。
走りながら、僕は馬に怒られていた。
四本足で全力疾走しながら、頭の中で謝罪していた。
人生にはいろんな場面があるものだが、これはまったく想定していなかった場面である。
第一コーナーに差し掛かった。
僕の——僕たちの——位置は、たぶん後方だった。
背中の騎手のおじさんが、再び何かを言った。
「無理しなくていい、ナミダ。今日はお前のペースで行こう」
優しい声だった。
ただし、優しすぎた。
強く追えば馬が嫌がる、と知っている人間の声だった。勝ちにいきたい気持ちはある。あるが、踏み込めない。
——これは、僕の人生の声でもあった。
「ねえ」
僕はもう一度、馬に話しかけた。
「うるさい」
「ねえ、ナミダフクザツさん」
「うるさい」
「あなた、勝つ気、ありますか」
馬は、しばらく黙った。
走るリズムは変わらなかった。蹄の音が、四つで一つの言葉みたいに、地面を叩いていた。
「ない」
馬は、はっきりと言った。
「俺は、勝ちたくない」
ぐん、と、内側から血の気が引く感覚があった。
血の気が引いたが、馬の体だから、たぶん人間とは違う引き方をしていた。馬の血の気というやつが、四本の足の先まで一斉に逆流したみたいな気分だった。
「えっ」
「俺は走るのは好きだが、勝つのは好きじゃない」
「えっ、いや、ちょっと、待って」
「待たない。走ってるんだから」
馬は、走りながら、堂々と、宣言した。
二千八百万円分の祈りが、僕の右手——いや、左前足の付け根のあたり——で、軽く、はためいた気がした。
神様、と、僕は思った。
神様、聞き間違えどころじゃない。
祈りが、まったく違う住所のポストに投げ込まれている。
(第3話へ続く)




