第1話 馬券は祈りである
馬券というのは、紙切れに祈りを染み込ませる装置である。
というのは、僕が今、勝手に思いついた定義だ。神田明神のお守りより薄くて、軽くて、それでいて値段だけは正直という意味では、よくできた発明品だと思う。
第11レース、単勝7番、ナミダフクザツ。百万円。
オッズは28.0倍。当たれば、ちょうど二千八百万円。
たぶん、だいたい、僕が今この世界に対して抱えている借金とぴったり同額である。
神様も計算が雑なんだか律儀なんだか、よく分からない。
「百万円で人生を解決しようというのは、ちょっと図々しくないか」
隣で誰かが笑った気がしたが、誰もいなかった。神様の幻聴である。神様くらいしか、こんな現場を笑わない。
東京競馬場、四月最終週、土曜日、午後三時三十五分。
空はやけに青くて、青いというより、青を絵の具のチューブから絞り出してそのまま塗りたくりましたみたいな青だった。こういう日は競馬日和、と言いたいところだが、僕にとって競馬日和は人生で一度もない。馬がいる日は全部、人生に向いていない日だ。
それなのに、毎週来ている。
これは僕という人間における最大の謎であり、たぶん遺書を書く段になったら触れざるを得ない問題でもある。
遺書の話は、半分冗談で、半分そうでもない。
駅前の弁当屋のおばちゃんに「いつもの」が通じるようになったら、社会人として終わりだと前は思っていた。いざ通じてみると、けっこう嬉しかった。人は慣れる。たいていのことに慣れる。
慣れないものといえば、別れた娘に会えないことくらいだ。
鞄の内ポケットに、二年前に娘がくれた折り鶴がひとつ入っている。よれよれで、もう鶴というよりは紙くずに近いが、僕には鶴に見える。
あれは美咲の小学三年の運動会だった。徒競走で四人中四位だった美咲が、ゴールで転びかけて転ばなかったのを、僕は本気で拍手した。閉会式のあと、美咲が僕の手を握って言ったのだ。
「お父さんは応援する側のプロだよね」
子どもの言葉は、ときどき爆弾みたいに静かに着地する。
応援する側のプロ。
悪くない肩書きだ、と思う。
ただし、応援する側のプロが、自分の応援している対象に百万円賭けて生活費もろとも吹き飛ばしているのは、職業倫理的にどうなのか、いつか誰かに教えてほしい。
僕の名前は矢野一、三十七歳、バツイチ、清掃業のアルバイト。簡単な経歴で、簡単な人生だ。
ただ、簡単に二千八百万円の借金は背負える。人生はそういうところがフェアにできている。
パドックで7番のナミダフクザツを見たとき、僕は妙な確信を持った。
黒鹿毛の、痩せ型の馬だった。耳を後ろに伏せ、目つきが悪く、係員のおじさんの足を踏もうとしていた。馬主らしき老婦人が前で待っていて、その婦人の帽子を、うんざりしたような目で見ていた。
ナミダフクザツ。三歳牡馬。デビューから五戦して未勝利。気性難で知られ、調教師は二度交代している。馬主は七十代の老婦人で、亡くなった旦那さんが残した最後の馬らしい——と、先週の競馬新聞のコラムに書いてあった。新聞は、馬の人生のことなら、人間の人生より丁寧に取り扱う。
「お前さあ」
僕は柵越しに、心の中だけで話しかけた。
「お互い、複雑だよな」
馬は答えなかった。当然だ。
でもそのとき、ほんの一瞬だけ、馬がこっちを見た気がした。
目つきの悪い、痩せた馬だった。
僕とよく似ていた。
マークカードを塗る。百万円は、鉛筆で二行塗るだけだ。
知ってる。何度もやってきた。ただ、知っていることと、慣れることは違う。十円のうまい棒を買うのとだいたい同じ動作で、人生がひと月ぶん蒸発する。世の中はそういう具合にできていて、それを知っているからといって、別に楽になるわけではない。
塗り終わってマークカードを発券機に通した。機械はちょっと迷ったように間を置いてから、無表情で薄い紙切れを吐き出した。
馬券。
二千八百万円分の祈りが、そこに印刷されていた。
軽かった。
席に戻る途中、ジャンボから電話があった。
ジャンボは大学時代の友人で、本名は村井だが、痩せ型なのに皆からジャンボと呼ばれている。理由は、本人が中学生の頃から「ジャンボ」というあだ名を熱心に自称してきたからである。なりたい自分になる、というのは、ジャンボくらいの執念があれば可能なのだ。
「ハジメ、お前まさか競馬場じゃないだろうな」
「違う」
「嘘つけ。背景に音がしてる」
「ファンファーレが聞こえるだろ」
「だから競馬場だろうが」
ジャンボは僕の数少ない「嘘がバレる相手」で、つまり数少ない友人である。
「いくら賭けた」
「百万」
電話の向こうで、何かが落ちて割れる音がした。たぶん、心の音だ。
「お前さ」
「うん」
「お前、それ、命だぞ」
「分かってる」
「分かってねえだろ」
「分かってる。だから今日なんだ」
ジャンボは黙った。
ジャンボが黙るときは、たいていジャンボの中で何かが整理されているときである。
「終わったら飯おごるから、生きて帰ってこい」
「縁起でもないこと言うなよ」
「お前のほうが縁起でもない人生送ってんだよ」
電話を切った。
たぶんジャンボは、今日の僕の声で、何かを察した。
今日は、本当に最後だと決めていたからだ。
ターフのスタンドの、いちばん端のベンチ。
僕はそこに座って、馬券を両手で握った。
手が冷たいのに、手のひらだけが熱い。妙なものだ。
「ナミダフクザツ」
声に出して、呼んでみた。
「頼む。お前の人生と、俺の人生、たぶん今日いっぺんに終わるか、いっぺんに始まる」
風が吹いた。緑の匂いがした。
ファンファーレが鳴った。胃の底に、夏の自販機で買ったぬるい缶コーヒーみたいな緊張が溜まっていた。
ゲートに、馬たちが収まっていく。
7番のナミダフクザツも、今日に限って、わりと素直に入った。
いつもなら係員に蹴りを入れる馬が、すんなり入った。
誰かがそれを「縁起がいい」と解釈した。
僕は、「不自然だ」と思った。
スタートの瞬間、僕は目を閉じた。
目を閉じて、馬券を強く握った。
「頼む」
頼む頼む頼む頼む。
頼むのリピートが、頭の中でループした。
その瞬間、
ぱきん、
と、何かが折れる音がした。
たぶん、世界の継ぎ目が折れる音だった。
次に目を開けたとき、僕の視界は、地面にやけに近かった。
左右に、目があった。普段の倍くらいの距離に、目があった。
鼻の先に、芝生の匂いがあった。
息を吸うと、いつもの胸じゃなく、もっと奥のほうにある、知らない部屋にまで風が届いた。
四本の足が、地面を踏んでいた。
走っていた。
猛烈に、走っていた。
僕は、走っていた。
馬の中にいた。
どうやら神様は今日、僕の祈りを聞いてくれたらしい。
ただし、ちょっと、聞き間違えた。
(第2話へ続く)




