第五話「はるか」
北の町に来て、八ヶ月が経っていた。
アパートは駅から歩いて十五分。六畳一間。窓から山が見える。それだけの部屋だった。
はるかは毎朝六時に起きて、パン屋でアルバイトをして、昼過ぎに帰ってきた。夕方、近所を散歩した。夜、本を読んだ。眠った。
それだけの毎日だった。
診断が出たのは、去年の二月だった。
大きな病院で、若い医師が、静かな声で説明した。余命、という言葉が出た。はるかは頷きながら聞いた。泣かなかった。帰り道、コンビニでホットコーヒーを買って、ベンチに座って飲んだ。
空が、やけに青かった。
その夜から、考えた。
誰かに話すべきか。母に。さくらに。陽介に。
話したら、その人たちの顔が変わる。目が変わる。声が変わる。はるかを見る目が変わる。
それが、怖かった。
最後まで、普通に、隣にいてほしかった。でも話したら、普通じゃなくなる。
だから、行くことにした。
手紙を書いた。
母に。さくらに。陽介に。ハナさんに。
住所は書かなかった。返事が来たら、答えなくちゃいけなくなるから。
荷物をまとめて、春の終わりに出た。
新幹線の窓から、東京が遠くなっていくのを見た。
泣かなかった。
長野に来て三ヶ月後、もう一度、病院に行った。
定期検査のつもりだった。
でも医師が、首を傾げた。
もう一度、検査をしましょう、と言った。
結果が出るまで、二週間かかった。
その二週間、はるかはいつも通りに生きた。パン屋に行って、散歩して、本を読んだ。
結果を聞きに行った日、医師が、申し訳なさそうな顔をした。
最初の診断が、間違いだった。
そう言った。
はるかは診察室を出て、廊下のベンチに座った。
しばらく、何も考えられなかった。
生きている。
当たり前のことが、当たり前じゃなく感じた。
廊下を看護師が歩いていく。患者が歩いていく。外から光が差し込んでいる。全部、いつも通りの景色だった。
でも何かが、違った。
帰れなかった。
帰り方が、わからなかった。
母に電話しようとして、できなかった。さくらに電話しようとして、できなかった。陽介に、電話しようとして。
できなかった。
八ヶ月間、いなくなった人間が、急に帰ってきた。
その顔を、想像できなかった。
玄関のドアを開けて、ただいま、と言う。その場面を、何度も想像した。
でも続きが、思い浮かばなかった。
それからさらに五ヶ月、はるかは北の町にいた。
パン屋でアルバイトをして、散歩して、本を読んだ。
毎日、帰ろうと思った。
毎日、帰れなかった。
罪悪感は、ある。わかっている。心配させている。迷惑をかけている。
でも今さら、という気持ちが、足を止めた。
今さら帰って、何を言えばいい。
ごめんなさい、だけじゃ足りない。でも、ごめんなさい以外に、何を言えばいいのかわからない。
十一月の終わりに、手紙が届いた。
アパートのポストに、白い封筒が入っていた。
宛名は「篠原はるか様」。
差出人は、「篠原美枝子」。
はるかは封筒を持ったまま、外階段に座り込んだ。
山の方から、冷たい風が来た。
どうして住所がわかったのか、わからなかった。
封を開ける手が、少し震えた。
便箋が一枚。
母の字だった。几帳面な、真っ直ぐな字。
はるかへ
ご飯、食べてる?
以上だった。
はるかは便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
ご飯、食べてる?
それだけだった。
どこにいたの、も。なぜ帰らないの、も。心配したよ、も。
何も書いていない。
ただ一行。
ご飯、食べてる?
はるかは知らなかった。
母が、さくらから長野と聞いて、一人で探しに来ていたことを。長野の町を歩き回って、三回目に来た時、パン屋の前を通りかかったことを。
ガラス越しに、はるかの横顔が見えたことを。
でも入れなかったことを。
入口の前で立ち止まって、それから引き返したことを。
ハナが病室の窓から、それを見ていたことを。
はるかは知らなかった。
さくらが今も、住所のない手紙を引き出しにしまっていることを。
陽介が今も、財布の中に便箋を入れていることを。
ハナが今も、戻ってきた封筒を引き出しにしまっていることを。
みんなが、それぞれの場所で、はるかへの返事を、どこにも送れないまま持っていることを。
はるかは外階段に座ったまま、山の方を見た。
夕暮れが来ていた。空の端が、橙色になっている。
ご飯、食べてる?
その一行が、胸の奥で、静かに燃えていた。
怒ってない。責めてない。ただそれだけ聞いている。
お母さんらしい、と思った。
それから、泣いた。
外階段で、一人で、声を出して泣いた。
北の風が、冷たかった。山が、遠かった。
でも泣いた。
ずっと、泣かなかった分を、全部泣いた。
泣き終わって、はるかは立ち上がった。
部屋に入って、机に向かった。
便箋を出した。
お母さんへ
帰ります。
それだけ書いた。
住所も書いた。今度は、ちゃんと。
封筒に入れて、ポストに入れた。
夜の空に、星が出ていた。
さくらに見せたかった、とふと思った。陽介にも。ハナさんにも。
いつか、見せられるかもしれない。
そう思った。




