洗濯してしまった手紙
洗濯してしまった手紙
コインランドリーの、洗濯機の隅に落ちていた。
白い紙。いや、かつては白かったであろう紙。今は、水に濡れて、しわくちゃになって。
誰かが、落としていったんだろうか。
拾い上げると、それは手紙だった。封筒はなく、便箋だけ。
文字が、滲んでいた。
黒いインクが水に溶けて。読めない部分が、たくさんある。でも、いくつかの言葉は、かろうじて読める。
これ、洗濯してしまったんだな。ポケットに入れたまま。
読んでしまった。他人の手紙だとわかっていたけど。
最初の部分は、完全に消えている。でも、途中から、わずかに読める。
「...ずっと、言えなくて...」 「...ありがとう...」 「...あなたのこと...」
誰かへの、大切な想い。でも、洗濯してしまって。読めなくなってしまった。
もっと読もうとした。
「...最後に会った時...」 「...笑顔...忘れられない...」 「...もう...会えない...」
会えない? なぜ?
手紙の下の方は、さらに滲んでいた。ほとんど読めない。でも、最後の一行だけ。
「...愛してた...ずっと...」
これは、ラブレター? それとも、別れの手紙?
家に帰って、手紙を広げた。
丁寧に、しわを伸ばした。乾かした。
でも、やっぱり読めない部分が多い。
この手紙を書いた人は、どんな人なんだろう。誰に宛てた手紙なんだろう。
想像してみた。
滲んだ文字から、物語を紡ぐ。
きっと、大切な人への手紙だったんだ。ずっと言えなかった想いを、やっと書いた。勇気を出して、ポケットに入れて。でも、洗濯してしまった。
その人は、今どうしてるんだろう。
手紙が読めなくなったことに気づいた? もう一度、書き直した? それとも、諦めた?
もし、この手紙の持ち主を見つけられたら。
でも、どうやって?
手がかりは、滲んだ文字だけ。差出人も、宛先も、わからない。
次の日、また同じコインランドリーに行った。
もしかしたら、また来るかもしれない。手紙を落とした人が。
でも、誰も来なかった。
一週間、通った。
毎日、同じ時間に。誰か、手紙を探している人がいないか。
でも、誰もいなかった。
ある日、張り紙をした。
「手紙を拾いました。心当たりのある方はご連絡ください」
連絡先を書いて。コインランドリーの掲示板に貼った。
二週間が過ぎた。
連絡は、来なかった。
そうだよな。洗濯してしまった手紙なんて。もう諦めてるよな。
でも、ある日。
メールが届いた。
「手紙のことで、連絡しました」
来た!
待ち合わせをした。コインランドリーの前で。
現れたのは、三十代くらいの女性だった。
「あの、手紙...」彼女は、俯いて言った。「私のだと思います」
「これですか?」私は、手紙を見せた。
彼女の目に、涙が溢れた。
「やっぱり...洗濯してしまったんです。ポケットに入れたまま」
「大切な手紙だったんですか?」
「はい」彼女は、静かに頷いた。「亡くなった人への、手紙でした」
ああ。
「最後に会った時、何も言えなくて。ありがとうも、好きだったことも。だから、手紙に書いたんです」
「でも、どこに送るわけでもなく。ただ、書きたかっただけで」
「ポケットに入れて、持ち歩いていたんです。その人が、そばにいてくれるみたいで」
「でも、洗濯してしまって」
泣きながら、話してくれた。
「もう一度書こうとしたんです。でも、書けなくて。あの時の気持ちは、あの時にしか書けなくて」
「だから、諦めました。もう、いいやって」
「でも、あなたの張り紙を見て。もしかしたらって」
私は、手紙を彼女に返した。
「ありがとうございます」彼女は、手紙を胸に抱きしめた。
「あの」私は、言った。「少しだけ、読んでしまいました。ごめんなさい」
「いいんです」彼女は、微笑んだ。
「むしろ、誰かに読んでもらえて。その人への想いが、誰かに届いたみたいで。嬉しいです」
彼女は、手紙を見つめた。
「文字、ほとんど消えちゃってますね」
「でも、いくつか読めましたよ」私は言った。「『ずっと、言えなくて』『ありがとう』『愛してた、ずっと』って」
彼女の目から、また涙が溢れた。
「それだけで、十分です。大事なことは、全部そこに入ってるから」
それから、少し話をした。
亡くなった人のこと。どんな関係だったのか。どんな想いがあったのか。
「言えなかったんです、生きてる時に。照れくさくて、恥ずかしくて。当たり前のように、そばにいてくれるって思ってて」
「でも、突然いなくなって。言葉にしておけばよかったって、後悔して」
「だから、手紙を書いたんです。届かないけど、書かずにはいられなくて」
彼女は、手紙を大切そうに折りたたんだ。
「これ、額に入れて飾ります。滲んだ文字も、しわも、全部含めて。私の想いの証だから」
別れ際、彼女が言った。
「ありがとうございました。あなたが拾ってくれて、本当によかった」
「いえ、こちらこそ」私も言った。「大切な手紙を、返せてよかったです」
彼女は、微笑んで去っていった。手紙を、胸に抱きしめながら。
家に帰って、考えた。
洗濯してしまった手紙。文字は滲んで、読めなくなった。
でも、想いは消えなかった。
「ずっと、言えなくて」 「ありがとう」 「愛してた、ずっと」
大事なことは、そこに入ってた。
人生には、言えなかった言葉がある。伝えられなかった想いがある。
でも、遅くない。手紙に書けばいい。届かなくてもいい。
書くことで、想いは形になる。たとえ滲んでも、消えても。その想いは、確かにあったんだ。
洗濯してしまった手紙は、教えてくれた。
大切なのは、完璧な言葉じゃない。読みやすい文字じゃない。
大切なのは、想いを込めること。書かずにはいられない気持ちを、形にすること。
それだけで、十分なんだ。




