6.襲撃と奇跡 ※
それは、夜更けのことだった。
静まり返る大神殿の中、アレスティオンはいくつかの書簡を抱えて祭壇へ向かう。大きな地図を何枚も抱えたフィリスが、後に続いた。
「新年の儀式は、単なる演出だ」
あっけらかんと神官長は言い放つ。実際には、月毎にこまめにコツコツ点検補修しているのだ、と。
「その床の魔法陣は、まぁ、とにかく派手に光るためのものだ。意味はない」
「ええ……」
神聖な光景のとんでもない暴露に、フィリスは気落ちした。
「意味のない物に力を込め過ぎたのだろうな……あんな風に暴走してしまったのは初めてだ」
アレスティオンは首を振る。フィリスは、床の魔法陣を見つめたが、新年の恐ろしい光景は夢だったかのように、ひび割れひとつない。
フィリスが祭壇の上に地図を広げた。そこには王都とその周辺が仔細に描かれている。アレスティオンが地図の上に手を乗せて、低く祝詞を唱えた。
「あまねく注ぐ天の光、慈悲深き神よ」
祝詞が終わらないうちから、地図の上に光が集まり始める。
「——さて、ここに大結界を、正確に、あるがままに、地図に沿って、地図の上だけに」
言葉に従うようにゆらり、ゆらりと歪な光の幕が立ち上がる。それこそが大結界……その現し身だと理解したフィリスは、静かに息を呑んだ。
神官長は手にした書簡と見比べながら、ひとつひとつ補修を続ける。
「西門はよし、西第二よし、南西第二門……ここは街道沿いの被害報告が多いな……門の外から最初の橋までの間を魔除けを強くするか。次は……」
魔除けを強く、浄化を強く、強すぎるところは弱く、綻びは繕う。アレスティオンは事細かに注文をつけて、地図の上を手でなぞる。その度に、淡い光が生まれ、光の幕に溶けていく。
ふと、足音がした。ぼうっと作業を見つめていたフィリスは、すぐさま振り返った。大神殿の扉が、静かに軋みながら開く。固唾を飲んで見守っていると、扉から神殿騎士が二人、現れた。
「……」
交代にはまだ早いはずだ。フィリスはそっと剣の柄に手をかけた。
こちらに向かって歩いてくる足音に紛れ、チリチリと鈴鳴りのような音が、かすかに聞こえる。どうやら甲冑の下に帷子まで着込んでいるらしい。外回りでもない限り着ないのに。
「止まれ、何用か?」
フィリスの静止に、けれど一向に歩みを止める気配がない。いよいよフィリスは抜剣した。
「騎士殿?何をしてる……誰だ?」
フィリスの背後で、アレスティオンが怪訝そうな声を上げた。
「何用だ、素直に答えるなら……」
「抵抗するなら一緒に殺す」
神殿騎士の一人、背の高いほうが冷たい声を出した。
「……だが邪魔しないなら、同僚のよしみで見逃してやってもいい」
大結界のゆらめく光に照らされた顔は、知った顔だった。フィリスはそっと息を呑み、それからぐっと柄を握り直した。
「……貴殿は模擬戦で一度も自分に勝ったことはないはずだが」
「何……?!」
フィリスの挑発に、長身の騎士は低く唸ると抜剣した。隣の騎士も剣を抜く。二対一か、とフィリスは凪いだ頭で考えた。確かに模擬戦で負かしたことがある……とはいえ、流石にこの二人を同時に相手取ったことはない。しかも背後には神官長がいる。
「おい、貴殿らは何をしてる……?」
状況の不穏さに気がついたのか、アレスティオンが補修の手を止めた。大結界の光が、どこか不安定に揺らぐ。
ほとんど無言のまま、長身の騎士がフィリスに襲いかかってきた。
鋭く襲いかかる剣先を捌き、フィリスは敵の懐に向かって飛び込もうとした。途端に、相手は片方の手で抜き放った短刀をフィリスの眼前に振るう。地面に転がるようにして避けたが、わずかに頬が切れた感触があった。
そのフィリスの横をすり抜け、もう一人の騎士がアレスティオンに襲いかかった。
「……!」
足払いをかけるも避けられる。跳ね起きて、その背中を追う。
アレスティオンが、喉の奥を引き攣らせるように息を飲むのが聞こえた。次の瞬間には祭壇の上に長剣が叩きつけられ、地図の上の光は霧散した。
「ああっ、補修が!」
アレスティオンが焦ったような、場違いな声を上げる。追撃しようとする騎士の甲冑の首元を、フィリスは背後から掴み後方へ引きずり倒した。
「神官長!お逃げください!」
その隙をついて、引き倒した騎士がフィリスの足に短刀を突き立てる。
「——っ!」
フィリスは奥歯を噛んで、騎士を振り払う。同時に勢いよく短刀が引き抜かれて、血が飛び散った。フィリスは、長剣を振ったが、あっさりと射程範囲から逃げられてしまった。がくり、と膝をつくフィリスの前で、二人の騎士が再び剣を構えるのが見える。
「神殿を血で汚すつもりか?!馬鹿共!こんなとこでやめろ!」
アレスティオンが、状況の深刻さを忘れたような叫びを上げた。フィリスはちら、と背後の神官長を見る。青ざめた顔で、祭壇からいくらも離れていない場所で、神殿の飾り柱に背を押し付けるようにして立っている。逃げることなど忘れているかのようだ。その手にはまだ、書簡を抱えたままでいる。
——この人を失うわけにはいかない。
——なんのための護衛騎士だ、なんのために鍛錬を繰り返した、いま、この時のためだろう!
フィリスは歯を食いしばり立ち上がった。
——命が惜しくて騎士など務まるか!
フィリスは、無事な方の足で床を蹴った。背の低いほうの騎士に肉薄し、帷子ごと斬るつもりで首元に刃を滑り込ませる。痛むのを無視し、軸足に力を込める。鎧の下、腿からドッと血の溢れる感触があったが、構わなかった。
「——!」
騎士が、喉を鳴らしながら血と泡を吐いた。致命傷を与えた感触があった。だが、両刃の片側は無惨に潰れてしまった。一瞬だけ目視し、すぐさま刃の向きを返すように手の内で柄をくるりと回す。続けて、アレスティオンの方へ向かおうとする背の高い騎士へと、低い姿勢で飛びかかる。腹の隙間を狙い、帷子ごと貫けるように、体ごとぶつかった。気づいた騎士が振り下ろした剣は、躊躇いなく肩の装甲で受けた。
苦悶の声をあげ、騎士は倒れた。フィリスもその場で倒れ込む。上手く受けたつもりの刃は、けれどわずかに装甲の隙間に滑り込み、肩を切り裂いていた。
再びシン、と静まり返った大神殿の中で、アレスティオンの忙しない呼吸の音がやけに大きく聞こえた。
「お、おい……」
一歩踏み出し、次に首を押さえた姿勢のまま事切れた騎士を見下ろして、アレスティオンは書簡を取り落とした。血の海を避けながら、フィリスの元へ向かう。
こちらも事切れているはずなのに、未だビクビクと指先を動かす長身の騎士の横を恐々と通り、そのすぐ傍に倒れたままのフィリスを、どうにか引っ張り出そうと力任せに引きずった。
「おい……おい! しっかりしろ!」
誰の血かわからないもので汚れたフィリスの頭を持ちあげる。出血している場所を探そうとしているのか、アレスティオンは甲冑の上をうろうろと手を彷徨わせ、結局胸の上に置いた。
「……天の……あまねく注ぐ、天の光、慈悲深き神よ……」
震える声で祝詞を口にする。途端にアレスティオンが手を当てた場所から光が溢れ、フィリスの体を少しずつ覆っていく。周囲が静寂に包まれる。アレスティオンの、震える声だけが響く。
「……そうじゃない、傷を塞ぐだけでいい、違う、そういうことじゃ……」
アレスティオンは狼狽えた。光がますます強くなり、フィリスを包み込む。
「違う違う、だめだ、……やめろ! やめてくれ!」
シンと静かな大神殿の中で、アレスティオンの悲鳴じみた声が反響した。フィリスの周りにあった光が、さらりと溶けるように消えた。
アレスティオンは、肩で息をしながら、再びフィリスの胸の上の手に力を込めた。だめだ、これじゃダメだ、とぶつぶつ一人で呟く。
フィリスは、薄く目を開けた。その視線がアレスティオンを捉え、朦朧としたまま見つめた。冷淡だと思っていた人が、目の前で自分のために力を使っている。らしからぬくらいひどく慌てて……まるで現実感がなかった。
フィリスには、不思議な充足感があった。この人を守れた。自分の役目はまっとうできた。安堵で力が抜けていく。
「おい、寝るな! しっかりしろ!」
フィリスは笑みを浮かべた。悲壮な表情のアレスティオンは、まるで泣く寸前の子どものように見えた。泣かないで、俺なんかのために。
どうにか手を伸ばし、頬に触れる。
慰めなくては、なんて、馬鹿みたいなことを考える。触れた場所に血がついてしまった。
——ああ、でも
——この尊いお方が
——俺のために泣いてくれるなんて
——なんと幸せなことだろうか
「フィリス!!」
びく、と指先が揺れる。名前を呼ばれた。初めて。返事をしたい。しなくちゃ。なのに、体が思うように動かない。
もどかしさを感じながら、フィリスの意識はすとんと落ちるように呑まれていった。




