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狂気のスライムパーティ

 ――それは、狂気だった。


 あとから冷静になって振り返れば、あの三日間の俺は間違いなく正気ではなかったし、もし誰かが横から見ていたなら、「この人、ゲームを楽しんでいるというより、何かに取り憑かれているのでは?」と心配されても仕方ないような生活を送っていたと思う。


 現実では、ほとんど外に出なかった。

 変化した身体に向き合うことを拒否していたとも取れるが、元々の俺のプレイスタイルは没頭型。

 ましてはゴブリンにまで負けたとなったら、それはもう顔真っ赤で悔しいのである。


 カーテンは閉めっぱなしで、部屋の中には朝なのか夜なのか分からない薄暗さがずっと居座っており、空気には飲み終えたゼリー飲料の甘ったるい匂いと、稼働しっぱなしのVR機器が放つわずかな熱とプラスチックの匂いが混じっていた。床には空になったパウチがいくつか転がり、俺はそれを拾う気力すら惜しんで、ただベッドの上でネクサス・ギアを被り続けていた。


 VR機器を外すのは、生理現象の時だけだった。


 食事も、ゲームのために買い込んでおいたゼリー飲料を、キャップを捻って、口をつけて、ただ吸い込むだけ。ちゅう、と甘く冷たい液体が喉を通っていく感覚はあるのに、味わっている余裕なんてほとんどなく、栄養補給というより、ログインを続けるための燃料補充に近かった。


 リアルでもスライム(っぽい何か)を啜っている状態だ。


 そんな言葉が頭の片隅に浮かび、俺は自分で自分に「うまいこと言ってる場合か」とツッコミを入れたものの、そのツッコミすらすぐに流れて消えた。


 そして――。


 エタファンの中でも、俺の主食は当然スライムだった。だってそれにしか勝てないし、液体っぽいのは他にいなかったし。

 草原の風は、最初のうちは爽やかだった。


 青い空の下、柔らかな草が足首を撫で、遠くにはレアルタの外壁が淡く見え、初心者向けの平和なフィールドらしい穏やかな音楽が、どこか牧歌的に耳の奥へ流れてくる。湿った土の匂い、草の青臭い匂い、ところどころに咲く小さな白い花の甘い匂いが混ざり合い、普通に歩いていれば「おお、これがVRMMOか」と感動していたかもしれない。


 だが、俺がそのフィールドでやっていたことは、感動とは程遠かった。

 スライムを探す。


 見つける。近づく。


 尻尾が反応する。


 そして、吸う。


 ぐぱっ。尻尾の先端が開く。


 最初はその見た目に自分でも軽く引いていたが、数十匹を越えたあたりから驚きは薄れ、数百匹を越えたころには「ああ、はいはい、今日も元気に開きますね」としか思わなくなっていた。慣れとは恐ろしい。いや、慣れていいものではない。絶対に。


 ジュル。多分ここで切り上げてもゴブリンとは泥沼の試合の末勝てるとは思う。

 でもそうはしなかった。

 スライムの半透明な身体が、尻尾の先へ吸い込まれていく。


 見た目だけなら、ゼリー飲料を吸っている現実の俺と大差ない……と言いたいところだが、こっちは明らかに生き物であり、しかも味のフィードバックがあるせいで、喉の奥に直接ぬるりとした感覚が流れ込んでくる。


 おぇっ。


 最初の頃は、そのたびに本気でえずいた。


 味は、端的に言うと洗剤っぽかった。いや、洗剤を飲んだことがあるわけではないが、香り付きの食器用洗剤を水で薄めて、そこへ少しだけ草の青臭さを混ぜたような、脳が「これは食べ物ではない」と警告してくる味だった。


 それでも、俺はやめなかった。脳死。作業、そんな言葉がちょうどいい、1年の努力を経て得たわずかな有休で、俺は洗剤味のスライムパーティーを決行した。


 ぐぱっ。ジュル。おぇっ。

 ぐぱっ。ジュル。おぇっ。


 その繰り返し。輪唱のように、スライムを見つけ、啜り、洗剤の味を飲み込む。


 ただひたすらに。


 やめなかった、いや()()()()()()()()理由は単純だ。数字が増えたからだ。


 《VIT+0.1》


 《HP+0.3》


 そのログが視界の端に流れるたび、最初は小さな喜びだったものが、だんだんと妙な中毒性を持ち始めた。


 たった0.1。たった0.3。


 普通に考えれば、誤差のような数字だ。


 けれど、その誤差が積み重なっていく感覚は、想像以上に俺の脳を刺激した。営業時代、どれだけ努力しても上司の機嫌や客の都合で全部ひっくり返っていた現実とは違い、ここでは吸った分だけ、確実に数字が増える。嘘をつかない。ごまかされない。積み重なる。


 それが、たまらなく気持ちよかった。

 やがて俺は、スライムの吸収速度を上げるため、草原の地形を覚え3箇所ほどメモった。


 朝露のように光る草地の奥。水場近くのぬかるんだ場所。岩陰の涼しい影。そこにスライムはどこにでもいるけど序盤のルートを外れると途端にいなくなる。だから途中からは出現ポイントを巡回するようになり、見つけた瞬間に尻尾を伸ばし、吸収が終わる前から次の方向へ視線を向けていた。


 完全に作業だった。そして、完全に苦行だった。

 でも、苦行のはずなのに、心は妙に高揚していた。


 《VIT+0.1》《HP+0.2》《VIT+0.1》《HP+0.3》


 ガンガンとログが流れる。吸えば流れる。

 喰えば流れる。飲めば流れる。軽率に永続的にパラメーターが加算されるログが。


「……いいじゃん」


 洗剤味で喉の奥が気持ち悪くなりながらも、俺は笑っていた。


 「これ、続けたら、どこまで硬くなるんだ?」


 自分でも危ないことを言っている自覚はあったが、止まらなかった。

 ゴブリンに挑んだ時から比べ物にならないくらい硬くなっている。

 今ならどうだ? いや、もうあんな怖い思いは沢山だ。


 体液吸収が使えない相手には実際俺はものすごい無力。今後も見極めるために一回は戦わないといけないと思うと少し憂鬱ではあったが、スライムを啜れるのが幸い。やれることをやらないとならない結論は明白。


 

 もっと吸う。さらに吸う。ぐぱっ、ジュル、おぇっ。

 ログを見る。ぐぱっ、ジュル、おぇっ。ログを見送る。

 ぐぱっ、ジュル、おぇっ。


 そのうち、現実のゼリー飲料とゲーム内のスライムの区別が、一瞬だけ怪しくなることがあった。


 ネクサス・ギアを外してゼリー飲料を口にした時、甘いマスカット味が舌に広がるはずなのに、脳が勝手にスライムの洗剤味を思い出して、顔をしかめる。逆に、ゲーム内でスライムを吸った時、ほんの一瞬だけ「これも栄養補給だ」と思いかける。


 危ない。とても危ない。でも女体化したことに比べたら全然まともだと思った。

 俺はまたネクサス・ギアを被り草原に戻った。


 ◇


 気づけば――そのイカれたパーティは三日経っていた。


 「……え?」


 システム時刻を見た瞬間、思わず声が漏れた。


 時間感覚は、とっくに壊れていた。現実で朝だったのか夜だったのか、何度寝て、何度起きて、どれだけゼリー飲料を吸ったのか、もうはっきり覚えていない。ログインとログアウトの境目すら曖昧で、意識の中ではずっと草原にいて、ずっとスライムを探していた気がする。


 だが、システムの表示は容赦なく現実を突きつけてくる。


 通算――約1000匹。

 俺は、スライムを吸収していた。

 そして視界の中央に、見慣れないログが浮かび上がった。

 《個体吸収限界に達しました》

 《以後、個体スライムから得られるものはありません》


「……え?」


 思考が止まった。

 風が草を揺らす音が、やけに遠く聞こえた。


 目の前には、まだ小さなスライムが跳ねている。半透明の身体をぷるぷる揺らし、こちらを敵とも思っていないような呑気な動きで、草の上をころころと移動していた。


 だが、もう得られるものはない。尻尾もお腹いっぱ〜いと言うようなリアクションをしている。

 この三日間、俺の主食であり、修行相手であり、唯一勝てる相手から、もう何も得られない。


「……終わり?」


 不思議な感覚だった。

 嬉しいような、寂しいような、解放されたような、取り残されたような。


 達成感と喪失感が同時に胸へ押し寄せてきて、俺はしばらくその場に立ち尽くした。

 その直後、さらにログが流れた。


 《吸収限界ボーナスを付与します》

 《スキル:スライムボディ(軟体)を獲得》

 《パッシブスキル:物理耐性(小)を獲得》

 《パッシブスキル:水耐性(小)を獲得》


 頭の中に、次々と情報が流れ込む。

 物理耐性わかる、水耐性もわかる水辺の子だもんね。


 スライムボディ?軟体?

「わからん」


 その時ぷるるん、と少しだけ柔らかくなりましたよ〜みたいな、感じで自分の視界の下、二つのお山が揺れる。

 触ると指がすごく深く沈む。


「お、え……まさか、ねぇ? え、まじ? それだけ?」


 俺は震える指でステータスを開く。

 ウィンドウが青白い光を放ち、草原の風景の上に重なる。


 リエラ レベル7


 HP 387

 STR 3

 VIT 113

 AGI 12

 INT 11

 DEX 8


 《パッシブスキル:スライムボディ(軟体)》

 《パッシブスキル:物理耐性(小)》

 《パッシブスキル:水耐性(小)》

 《スキル:体液吸収》


 もう一度、その指でお山を突いてみる。ぷるるん♪


「……VITに偏りすぎだろ」


 俺はSTR3という数字から目を逸らした。

本日の更新はここまで。まだ他キャラが出てきてませんがもう少しで出てきます…。

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