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尻尾の冒険者リエラ

 ぬるり、とした感触が最後に足首から離れたとき、俺はようやく「地面に立っている」という実感を取り戻した。

 いや、正確には地面じゃない。あのロー……紫色の液体が満ちていた“風呂”の縁、石でできた段差の上だ。だがさっきまで全身にまとわりついていた粘度のある圧迫感が消えたことで、相対的にその硬さと乾きが際立つ。足裏に伝わるざらついた感触が、やけに頼もしい。


「……はぁ……っ、はぁ……」


 呼吸が整わない。VRのはずなのに、肺が焼けるみたいに熱い錯覚が残っている。胸が上下するたびに、さっきまでの余韻が遅れて波打ってきて、思わず肩に力が入る。

 ……いや、余韻とか言ってる場合じゃない。


「……死ぬかと思った……」


 ぼそりと呟いた声は、思っていたよりもかすれていた。喉が渇いている感覚すらある。ゲームだぞこれ。どこまで再現してくるんだよ。


 腕で額を拭う仕草をして、ふと気づく。

 汗は、出ていない。

 当たり前だ。VRだし。なのに、確かに「汗をかいた」後の感覚だけが残っている。皮膚の表面に薄く膜が張ったみたいな、あの独特の不快感。


「……やりすぎだろ、どうなってんだ運営」


 誰に言うでもなく文句を漏らしながら、ゆっくりと身体を起こす。

 足元を見下ろすと、あの夢魔の蜜油は相変わらずどろりとした紫色で波打っているが、さっきまでのようにこちらへ絡みついてくる気配はない。ただ静かに、呼吸するみたいに表面を揺らしているだけだ。


 ……終わった、んだよな?


 尻尾がぴくぴくと動いて早く行こうよ〜、みたいなノリを出してる。


 え、いいの? まぁ、いいのか。


 半信半疑のまま、恐る恐る一歩下がる。

 何も起きない。

 もう一歩。二歩、三歩。やはり、何も起きない。


「……マジで終わり?」


 拍子抜けするくらい、あっさりとした終幕だった。

 あれだけのことをやらかしておいて、後処理なし。説明なし。アフターケアもなし。


 ブラック企業かここは。


 思わず営業時代のトラウマが顔を出すが、すぐに首を振って追い払う。今はそれどころじゃない。

 ふと、気配に気づいて顔を上げる。


 さっきまでそこにいたはずの老人が――いない。


「……あれ?」


 辺りを見回す。

 井戸の縁のような場所も、幽境の狭間の曖昧な空間も、どこにもそれらしい影はない。代わりに、空間の一部が歪むようにして、淡い光の円が浮かび上がっている。


 ポータルだ。


「……帰れってことか」


 あまりにもあっさりした展開に、逆に警戒心が湧く。

 いや、もっとこう……「よくぞ耐えた」とか「この力を授けよう」とか、そういう演出あってもよくない? 伝説の風呂なんでしょ? もうちょっと盛り上げてくれてもいいじゃん。


 などと心の中で愚痴をこぼしながらも、足は自然とポータルの方へ向かう。


 ――これで、よかったんだよな?


 自問する。

 だが、答えは出ない。

 スキルの説明は一切ない。

 ただ「体液吸収」という名前だけが頭に残っている。文字面から想像するに、何かしらの液体を吸収して強くなる……のか? いや、曖昧すぎるだろ。


「……まぁ、いいか」


 うん、という具合でハートマークの尻尾が頷く。

 お、おう、意外とお喋りなんだな……。


 登録だって今からやってみれば分かるし、ゲームなんだから、それでいい。

 俺は軽く息を吐いて、ポータルの光に足を踏み入れた。

 視界が一瞬、白く弾ける。


 次の瞬間には――


 見慣れた、とは言い難いが、さっきまでいた初心者ギルドの空間が広がっていた。

 木の床の匂い。暖炉のかすかな熱。誰かが動くたびに鳴る軋み。

 現実じゃないのに、やけに“帰ってきた”感じがするのが不思議だ。


「……ただいま、って言うべきかこれ」


 小さく呟いて、カウンターへ向かう。

 受付嬢は、さっきと同じ位置に立っていた。相変わらずの完璧な姿勢と、業務用スマイル。

 その視線が、俺を捉える。

 ほんの一瞬だけ、目が細くなる。

 だが、それもすぐに消えて――


「スキルは獲得できたようですね」


 涼しい声で、そう告げられた。

 まるで最初から分かっていたかのような口ぶりに、思わず眉が寄る。


「……まあ、一応は」


 曖昧に返す。

 受付嬢は小さく頷き、手元の何かを操作する仕草をした。


「それでは、冒険者として登録を行います。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 その言葉に、俺は一瞬だけ固まった。

 名前。

 ああ、そうか。ここで決めるのか。


「……」


 口を開きかけて、閉じる。

 普通に考えれば、本名をそのまま使うのが楽だ。だが――

 視線が、自然と自分の身体へ落ちる。

 ツインテールのプラチナブロンド。

 明らかに過剰な主張をしてくる胸元。

 そして――

 さっき生えたばかりの、黒い尻尾。

 意識を向けると、ぴくりと動く。それがやけに愛嬌があって、同時に現実離れした感覚を強くする。


「……」


 ふっと、口元が緩んだ。

 どうせなら、乗っかるか。

 せっかくここまで振り切った設定なんだ。中途半端に現実に戻る理由もない。

 軽く息を吸って、少しだけ声のトーンを整える。

 ――ロールプレイ、ってやつだ。


「……リエラで」


 口から出た名前は、自分でも驚くほど自然だった。

 どこかで聞いたことがあるような、でも具体的な出所は思い出せない。だが、この姿には妙にしっくりくる。

 受付嬢は一瞬だけ視線を細め、それから穏やかに頷いた。


「リエラ……さん、ですね。登録を完了しました」


 カウンターの上に、淡い光が走る。

 その瞬間、身体の奥で何かが“繋がる”感覚があった。目に見えないステータスが、世界とリンクしたような、そんな感覚。


「これであなたは正式な冒険者です。よい旅を、リエラ様」


 ーーリエラ様? まぁでも、形式的な言葉と言えば言葉か。

 だが、その言葉が妙に重く感じる。


 俺――いや、リエラは、小さく頷いた。


 ギルドを出る。

 外の空気が、さっきよりも少しだけ鮮やかに感じる。光の色も、風の流れも、すべてが一段階クリアになったような気がする。


 気のせいかもしれない。

 だが、その“気のせい”が、今は妙に心地いい。

 視線の先に、旅のポータルがある。

 淡い光を放つそれは、次の世界への入口だ。


「……さて」


 小さく呟く。

 ここからが、本番だ。

 俺は――リエラは、一歩を踏み出した。


まだ書き溜めているのでもう少し投稿します。

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