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伝説の……風呂?

 老人の視線に射抜かれたまま、俺は一歩だけ後ずさった。木の床がきしむ。さっきまでのチュートリアルの失敗で体の重心がおかしくなっているのか、後ろに引いたはずの足がわずかに横に滑り、膝がぐらつく。胸元が遅れて揺れて、視界の端にふわりと影を落とす。……頼むから今は静かにしてくれ。

 老人はそんな俺のぎこちない動きに、いかにも面白そうに目を細めた。口元に刻まれた皺が、ゆっくりと深くなる。


「ほっほ……これはこれは、なかなかに難儀な身体じゃのぉ」


 言い当てられて、思わず肩が跳ねた。いや、分かるよなそりゃ。さっきから盛大にバランス崩してるし。

 老人は杖で床を軽く叩き、くるりと踵を返す。

 その動きは年齢に似合わず軽やかで、杖がただの飾りのように見えた。


「ついて来るがよい。お主には少々“回り道”が必要じゃ」


 回り道。いやもう既に道外れてる気しかしないんだが。

 とはいえ、ここで立ち尽くしていても状況は何も変わらない。

 ギルドにも登録できない。つまり、このままではここにいるお姉さんと談笑して有給が終わる。


「……分かりましたよ、行きますよ」


 半ばやけくそ気味に呟いて、俺は老人の背中を追った。

 ギルドの裏口を抜けると、途端に空気が変わる。外の広場よりも湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。建物と建物の隙間を縫うように続く細い路地は、昼間だというのに薄暗く、どこか冷たい影を落としている。


 足元の石畳はところどころ苔むしていて、踏みしめるたびにじわりと湿った感触が靴底を通して伝わってきた。

 鼻の奥に、かすかな土の匂いが入り込む。湿った土と、古びた木材、それに――どこか甘ったるいような、よく分からない匂いが混じっている。


「……なんか、嫌な予感しかしないんですけど」


 思わず漏れた本音に、老人は振り返りもせずに肩を揺らした。


「ほっほ、若いの。世の中にはのう、“嫌な予感ほど当たるが、それを越えた先にしか得られぬもの”というのがあるのじゃよ」


 いやそれ、ほぼ確実にろくでもないやつだろ。

 内心でツッコミを入れながらも、足は止めない。というか止められない。一本道だし、老人の背中を見失うと確実に迷うタイプの構造だ。


 やがて路地の先が開け、小さな空間に出た。

 そこには、ぽつんと古井戸があった。

 石で組まれた縁はひび割れ、苔に覆われている。木製の滑車は半ば朽ちていて、縄は黒ずんで垂れ下がっている。周囲には誰もいない。音もない。さっきまで聞こえていた町のざわめきが、ここだけ切り取られたみたいに消えている。


「……ここ?」


 問いかけると、老人はようやくこちらを振り返った。その目が、さっきよりもずっと真剣な光を帯びている。


「うむ。ここじゃ」


 短く答え、井戸の縁に手をかける。

 そのまま、何の躊躇もなく――覗き込んだ。

 そして、振り返りもせずに言う。


「降りるぞい」

「は?」


 いや待て。

 ツッコミを入れる間もなく、老人の姿がふっと消えた。いや、消えたというより――落ちた。

 井戸の中に。


「え、ちょ、マジで?」


 慌てて縁に駆け寄る。中を覗き込むと、暗闇しか見えない。底が見えない。深い。というか深すぎる。


「……いや無理だろこれ」


 現実だったら絶対やらない。というか警察案件だ。

 だが、ここはゲームだ。

 そして俺は、すでに詰みかけている。


「……行くしかない、か」


 自分に言い聞かせるように呟き、息を吸う。胸が大きく上下して、また視界が少し遮られる。下が見えないのってかなり怖いな……。

 覚悟を決めて、縁に足をかけた瞬間


 何かに滑るようにずるり、と井戸に引き込まれる。


「うわああああああああ!?」


 次の瞬間、身体が宙に浮いた。

 落ちる。


 風が耳元を掠める。胃がふわりと浮く感覚。だが、不思議と恐怖は薄い。どこかで「これは安全だ」と理解している自分がいる。

 暗闇が、ぐにゃりと歪む。

 落下しているはずなのに、重力の向きが曖昧になる。上下の感覚が消え、代わりに身体全体が何かに包まれているような、妙な圧迫感が広がる。


 そして――


 どぷん、と音を立てて、身体が“落ちた”。


 温かい。

 いや、温かいというより、ぬるい。ねっとりとした液体が全身にまとわりつく。水じゃない。もっと粘度がある。肌に絡みついて、離れない。


「な、なんだこれ……!」


 顔を上げると、周囲がぼんやりと紫色に光っているのが分かる。

 そこは、井戸の底なんかじゃなかった。

 広がっていたのは、どこまでも続くような奇妙な空間――幽境の狭間、とでも言うべき場所だった。

 足元には、デロデロとした紫色の液体が満ちている。表面は緩やかに波打ち、ところどころで泡が弾けては、甘ったるい匂いを空気中に放っていた。

 その匂いが、鼻の奥に入り込む。

 甘い。だが、ただ甘いだけじゃない。どこか頭がぼんやりするような、危うい甘さだ。


「ローショ……夢魔の蜜油、じゃ」


 背後から、老人の声がした。

 振り返ると、いつの間にか井戸の縁のような場所に腰掛けて、こちらを見下ろしている。

 おい、今なんかローなんたらって言いかけなかったか?


「伝説の風呂、とでも思えばよい。浸かるがよい」


 さらっと、とんでもないことを言う。伝説のローなんたら風呂か!?

 というかさっきから足元から、デロデロのドロドロで


「もう浸かってるんですけど!?」


 半身が既に液体に沈んでいる状態で抗議するが、老人は気にも留めない。


「全身じゃ。しっかりとな」

「いや絶対絵的にヤバいやつでしょこれ!」


 言いながらも、足を動かすと、液体がまとわりつくように動く。抵抗があるのに、引っ張られるような感覚もある。逃げようとするほど、逆に絡みついてくる。


「くっ……!」


 どぷんっ! と、腰まで沈む。

 ついで、ヌチャァと腹まで沈む。

 そして――胸元に触れた瞬間。


「――っ!?」


 ぞわり、とした感覚が全身を駆け抜けた。

 温度はぬるいはずなのに、触れた部分だけが異様に敏感になる。液体が肌を撫でるたびに、細かい振動のようなものが神経をなぞる。

 くすぐったい。いや、それだけじゃない。心地いいような、でも落ち着かないような、説明しづらい感覚が、じわじわと広がっていく。


「な、なんだこれ……!」


 思わず声が震える。

 液体が、まるで意思を持っているみたいに、身体の輪郭をなぞる。腕、背中、腰――そして、やたらと敏感になっている胸元を、執拗に。


「ちょ、そこ重点的にやめろ!」


 誰に言ってるんだ俺は。

 だが止まらない。

 むしろ、感覚がどんどん強くなっていく。気持ちいいような、苦しいような、逃げたいのに動きたくないような、ぐちゃぐちゃな感覚が、頭の中で渦を巻く。

 息が荒くなる。

 視界がぼやける。


「……ま、まだ終わらないのかよ……!」


 必死に意識を保とうとする。

 そのとき――

 頭の奥に、直接声が響いた。


 《エクストラスキルの付与を開始します》


「はあ!?」


 思わず叫ぶが、声はうまく出ない。喉が震えるだけだ。

 まだ続くのかよ。冗談だろ。液体が、さらに絡みつく。

 窒息寸前のような、でも酸素は取り込めている明らかにゲームの範疇を超えた感覚に意識が沈みそうになる。


「……っ、ふざけんな……!」


 俺は必死に腕を伸ばし、近くの縁――井戸の縁のような部分に指をかけた。

 滑る。

 だが、食い込ませる。

 爪が軋む感覚がある。痛みはないが、圧力はある。

 離すな。

 ここで落ちたら、本当に戻れない気がする。


「……耐える……!」


 自分に言い聞かせる。

 ぐらつく意識を、無理やり引き戻す。

 この意味不明な風呂も、この意味不明な感覚も、全部まとめて――乗り越えてやる。

 そう、歯を食いしばった。


とても健全です。

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