二話:僕は彼女を知らない
僕は彼女の事をよく知らない。
正確には、僕は彼女がゾンビであること以外に彼女がどういう人間であるかの判断材料を持っていないのである。
自ら腕を取り外すことで僕にゾンビだと告白するあたり、彼女はおちゃめな性格をしているのだろうと勝手な憶測をすることはできても、それが正しく彼女の人物像である可能性は、僕自身が僕の感性を信頼していないので限りなく低いと思う。
別に無関心だったわけではない。
けれど、昨日は夜も遅く、彼女とおしゃべりをしていては明日の学校に障るだろうという懸念から、日を改めようと告白の後、早々に別れたのである。
そのために悶々とした時間を過ごしてしまったわけで、結局のところは悪手ではあった。
なので、今晩は兎にも角にも彼女の話を聞こうと思い、勇み足で夜の公園を訪れたわけだが、どういうわけか噴水広場のベンチに腰掛ける僕の前に彼女は一向に現れない。
もしかすると、あれは白昼夢ならぬ黒夜夢だったのだろうか。
寝溜めをしたとはいっても、夜更かしは得意なほうではない。
星を見ながらうとうとしていた時に夢を見てしまっていた可能性も否定はできない。
なんて心にもない妄想で不安を拭おうとするのは僕の悪い癖だ。
彼女が現れない理由に僕以外の要因をあてがうことで自分には否がないと言い聞かせる。
そうすれば、安心するのだ。
だから、僕はあたりをきょろきょろと見まわして、僕以外の原因を探してみる。
すると、どうだろうか。
僕の他にもその噴水広場には人がいたのだ。
ベンチに腰掛けた男女の二人組はおそらく高校生くらいだろうと思われる。
人気のない公園で愛を囁き合っているのだろうか。
ポケットからスマートフォンを取り出し時刻を確認する。
どうやら僕は昨日よりも早い時間に来てしまったようだ。
夜遅くまで時間を共有し、互いの気持ちを確かめ合う。
それは色恋とは縁遠い僕でもわかるくらい熱量のある青春に見える。
なるほど、あれが青春なのか。
そんな関心を寄せる部外者の視線に気が付いたのだろう、二人はチラと僕の方を一瞥したかと思うと居心地悪そうに顔をしかめ、立ち上がり去って行ってしまった。
もしかしなくとも、彼らの熱に僕は水を差してしまったようで、申し訳ない気持ちで胸が満たされる。
人の視線は気になるくせに、妙なところで僕は他者に対する気遣いが欠けているのだ。
自分がこうすれば、相手はこう思うという当たり前の思慮配慮がうまくいかない。
だから、僕は誰かに疎まれないようになるべくなら善行と呼ばれる行動を取ろうと心掛けている。
そうすれば、例え相手が望んでいなくても、僕に非は生まれないから。
「だーれだ?」
そんな陽気な声と共に僕の視界は冷たく柔らかな掌に覆われる。
びくりと身体を震わせる。
誰かという問いに対してはゾンビの彼女なのだろうという答えは持っていたのだけれど、どう言えばいいのかが分からなかった。
僕はまだ彼女の名前を知らない。
彼女をどのように形容することが正解なのか、僕には見当もつかない。
そんな風に無言で固まっている僕を見かねたのか、塞がれていた視界はゆっくりと開放された。
「えへへ、驚いた?」
振り返るとそこには予想通り彼女が立っていた。
茂みから出てきた彼女の紺のスカートにはいくらか小さな葉っぱが引っ付いている。
「今日は早いんだね。てっきり昨日の夜みたいに遅くに来るのかと思ってたよ」
「ごめん」
「どうして謝るの? むしろ、待たせちゃった私の方こそ謝らないと」
回り込んできた彼女はスカートを払いながら僕の隣に腰掛ける。
「お待たせ、ええと、君は……」
口を開いたまま僕を見つめてくる。
「そういえば、君の名前を知らないや。何て名前なの?」
「須戸辺留加」
「須戸辺くん。なんだか珍しい名前だね」
じっとこちらを見つめてくる彼女。
拳一つ分くらいしか隙間のないこの距離感では、視線だって熱量を持っている。
僕の右頬が熱を帯びていくことを自覚しながら、泳ぐ視線の端に彼女を入れていく。
「君は」
「ん?」
小首を傾げる彼女に、言葉足らずだったと反省する。
「名前は?」
「あ、私の名前か。うーん、どうしようかな」
彼女は腕を組んで首を捻る。
僕なんかには教えたくないのだろうか、と一瞬卑屈な思考が浮かび、けれど、それは正しくないとすぐさま泡沫のように弾けた。
「記憶が」
「うん。覚えていないの、自分の名前も」
それは一般的には悲しいことのはずだ。
過去の出来事を思い出すことができないという経験はあっても、その一切を忘れてしまうというのは容易に想像できる類の体験ではない。
けれど、それでも何かを失うということは楽観的に受け止められる出来事ではない。
多かれ少なかれ悲観を伴う。
それなのに、目の前の彼女は淡々とした口調でただ事実として悲劇的な身の上を語る。
「でも、そっか。名前が分からないと須戸辺くんが呼ぶときに困っちゃうよね」
そこまで言うと彼女はどこか悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、大きな瞳でこちらを見つめてくる。
それに嫌な予感がするのは、僕が人に笑顔を向けられた経験に乏しいからだろう。
「そうだ。須戸辺くんが決めてよ」
「えっ?」
「どうせ君しか私の名前を呼ばないでしょ? だったら、君が名前を決めてくれた方が呼びやすいじゃない?」
「呼びやすいって」
そんな理由で名前を付けるのは飼い犬や飼い猫に対してくらいのものではないだろうか。
小学校の授業で自分の名前の由来を親に聞く宿題を出されたことがあったけれど、少なくとも僕のクラスには呼びやすいという理由で名づけられた人はいなかったと思う。
けれど、それも些細な問題なのかもしれない。
問題なのは僕が彼女に期待されているということ。
「それで」
小首を傾げるようにして彼女は僕を上目遣いに覗き込む。
「須戸辺くんは私にどんな素敵な名前を付けてくれるのかな?」
彼女の視線に思わず顔を背ける。
その瞳には確かな期待が込められていた。
彼女に相応しく、彼女の期待に応えられるような名前、それが今の僕に求められた最善の行い。
もちろん、彼女が名前を付けてほしいと言うのなら、それに応えたいと思う。
しかし、僕は僕のネーミングセンスに全くと言っていいほどに自信がないのだ。
昔、公園で捨てられていた子猫を拾った時、ありきたりな名前では芸がないと思って童話の『長靴を履いた猫』から取ってマルクという名前を付けようとしたのだけれど、姉に可愛くないと一蹴されたことがあった。
由来があることはいいこと、正解だと思っていた僕にとって、姉の一言は衝撃であり、確かな自信の喪失に繋がったことは間違いなかった。
だから、こうした正解を僕のセンスにゆだねるような物事は苦手だ。
僕の正解が誰かの正解である保証がどこにもないから。
背けていた顔を戻し、僕は伏し目がちに彼女の方を窺う。
彼女は先ほどから変わらない微笑みで僕を見つめている。
その視線に鳩尾の辺りが重くなるような感覚を覚えながらも、僕は何とか口を開く。
「よく知らないから」
「えっと、何を?」
「君のことを」
僕は彼女の事をよく知らない。
知っていることと言えば、彼女はゾンビであり、腕が外れるということくらいのものである。
そんな情報だけで、いったいどうして彼女に相応しい名前を思いつくことができるだろうか。
けれど、彼女はどこか不思議そうに小首を傾げる。
まるで、知らないことの何が問題なのか分からない様子で僕を見つめるのだ。
「だから、教えてほしい」
「でも、私、自分の事を覚えてないんだけど」
「生前じゃなくて」
「え?」
「今の君のこと」
「今の……私?」
彼女はキョトンとした表情を浮かべる。
僕は何かおかしなことを言ったのだろうか。
少なくとも、彼女には僕の言葉は予想外のものだったように見える。
彼女はゾンビであるのだから、生前には両親から貰った名前はあったはずだ。
けれど、それを忘れてしまい、新しく名前を決めるとなれば、その名前が形容するべきなのは『ゾンビの彼女』だ。
しばらくして、彼女は少し頬を緩ませる。
「でも、今の私って言われても、何を話せばいいのかな」
それはどこか嬉しそうな声色をしていた。
どうやら意図しないところで、僕は彼女の正解を引き当てていたらしい。
それに安堵しつつも、しかし、彼女の言う通り僕の質問は記憶のない彼女に取っては漠然とし過ぎていて、不親切な問いであることに気付く。
「好きなこと、とか」
「好きなことかぁ」
それでも彼女は困ったように眉間にしわを寄せ、唸り声を静かな公園に響かせる。
それほど難しい質問だっただろうか。
人が人を語る時、最も当たり障りなく、かつ容易に人格をカテゴライズする記号として、この質問は多用される。
好きな芸能人や好きな髪形、好きな異性の仕草に好きな異性のタイプ。
あの人はアレが好きだから私とは合わないだとか、私が好きなアレをあの子は好きじゃないから嫌いだとか。
その人が好きなものが、その人の周囲からの認識を形成する。
言ってしまえば、好きの寄せ集めが他人から承認される自己なのだ。
だから、周囲の目を気にして趣味趣向を隠したり、偽ったりすることが集団の中では必要になってくる。
それほどまでに人格と密接に関わるのだから、人格を持っていれば自ずと好き嫌いが生まれるはずである。
けれど、目の前の彼女はそれがすんなりと出てこない。
「なんでもいいんだけど」
「なんでもかぁ。なんでもねぇ」
助け船のつもりで言った言葉に、彼女はさらに首を捻り、頭を悩ませる。
不正解が続く。
彼女の困り顔に鼓動が早まり、掌がじんわりと汗ばんでいく。
どうすればいいのだろうか。
他の質問をするべきだったのだろうか。
けれど、彼女自身を知るためには避けては通れない問いではあるのだ。
だとすれば、聞き方が悪かったのかもしれない。
もっと簡単に答えられる、彼女の感性に依らない事実確認からにじり寄るように彼女に近づいていくべきだった。
「昼間は何をしているの?」
「え、昼間?」
答えを出す前に違う質問が飛んできたことに、彼女は傾げていた首を正す。
そうして、悩まし気な唸りを止め、どこかにこやかな表情をこちらに向けてくる。
「昼間はね、家で寝てるよ。外に出て誰かに見つかったりしたら怖いからね」
「家って?」
「茂みの奥にね、ちょっとぼろっちい小屋があるの。掃除用具とか入れてたのかな? 今は使われてないみたいだったからカギを壊して使わせてもらってるの」
「カギを壊したの?」
「そうなの。あのね、ゾンビって力が強いみたいなの。南京錠だったんだけど、思いっきり引っ張ったらガチャンって外れたの。まあ、その時に腕も外れて驚いちゃったけど」
「そうだったんだ」
どこか楽し気に語る彼女の調子に、この質問は正解だったと安堵する。
「お腹って空く?」
「うーん、まだ空かないかな」
「まだ?」
「さっき、食べたばかりだからね」
そう言って、彼女は乾いた唇を舌で舐める。
どこか含みのある笑みを浮かべながら目を細め、こちらを見つめてくる。
そのどこか淫靡な仕草に思わず目を逸らし、何とか頬の熱を逃がそうとする。
しかし、そうして平静を取り戻すと、ある疑問が頭をよぎる。
そう、彼女はゾンビなのだ。
そんな彼女が空腹を満たすために食すものとは、一体何であるか。
恐る恐る視線を彼女の方に戻すと、以前変わらぬ表情で彼女は僕を見ている。
悪寒が背筋に走る。
湧き出た疑念が、その瞳にどうにも恐怖を見出して仕方がない。
「何を?」
「ふふふ、それはね……」
唇を細く延ばした笑みが徐々に迫る。
その大きく強調された口元が街灯の明かりを受け、艶やかに紅く光る。
「ガオー!」
次の瞬間、彼女は口を大きく開き、まるで僕を覆い隠さんとばかりに手を広げる。
それに心臓が飛び跳ねるように驚き、しかし、それでも僕の防衛本能は恐怖にあっさりと屈し、強張った身体は全く逃げ出すこともなく身を差し出していた。
そんな僕の情けない様子が可笑しかったのか、彼女はそれ以上こちらに迫ることなく、鈴の音のような笑い声をこぼしながら身を引いていく。
「えへへ、なんてね。冗談だよ」
「冗談」
「そうだよー。本当に食べられちゃうと思った?」
「少し」
嘘です、かなり思っていました。
「でも、驚いてなかったよね。逃げようともしなかったし」
驚きすぎて逃げられなかったという格好悪い事実はあえて口にしないのは、僕にもわずかながら自尊心というものがあるからだろう。
また彼女の茶目っ気に驚かされてしまった。
これで二回目なのだけれど、一回目よりも今回は心臓に悪かった。
寿命が二週間ほど縮んだ気がするけれど、冗談でなかった場合、ここで寿命が来ていたことを考えれば安いものかもしれない。
「お腹は空いたことないよ。喉も乾かないし」
「そうなんだ」
「うん。だから、ああ、やっぱり私は死んでいるんだなって実感するの」
「実感?」
「だって、人生の楽しみは食だって言うでしょ? そしたら、お腹も空かない私は生きる意味の大部分を失っちゃってるわけだから、それはもう生きてるって言わないと思わない?」
「そう、なのかな」
「そうなの」
その感覚は生きて、空腹を感じられる僕には理解できないものなのかもしれない。
日常的に美味しいものを食べているから、別に食べられれば何でもいいなんて無責任な考えを抱いてしまうし、他に楽しいことなんていっぱいあると、理屈をこねてしまう。
持つ者が持たざる者を完全に理解するなんてことは不可能だ。
だから、せめてできることと言えば、彼女の求めに応じることだ。
「あ、今思いついた」
彼女はどこか興奮したように声を上げる。
ニコニコと笑みを浮かべる彼女の瞳がじっと僕を見つめる。
「私の好きなことってね、きっと須戸辺くんとこうしておしゃべりすることだと思うの」
「僕と?」
「うん、君と」
それには首を傾げざるを得ない。
おしゃべりが好き、というのは女の子らしい趣向のように思える。
中身があろうとなかろうと、親しい友人が集まり、言葉を交わすことそのものに意味があるのだと、いつか上坂さんが言っていた。
しかし、肝心の相手が僕のような面白味のない人間なのだ。
だから、彼女がそれを楽しいと感じてくれていることは嬉しく思うのだけれど、同時にどうしてそう感じたのかが理解できない。
「私が生きていることを実感できる唯一の瞬間だからかな」
そう言った彼女は『あ、ゾンビだから死んでるんだけどね』と付け足したけれど、言わんとしていることは分かった。
正直、目の前でこうして動いて会話をしている彼女を死者だと正しく認識している自信はない。
つまり、僕と会話している間は彼女は少なくとも生きていると認識されていることになる。
それが、彼女の実感へとつながっているのかもしれない。
「青春を教えてほしいっていうのもね、生きてた時の実感を取り戻したかったからなんだ」
ルナさんはそう言いながら自分の服をつまんで少し引っ張って見せる。
「だって、私、制服を着てるよね。それって、学生の時に死んだってことになるでしょ?」
「そうなのかも」
「だったら、生前の私は青春を謳歌できなかったってことになるよね」
「そう、なのかな」
「きっとそうなんだよ」
どこか自信ありげに言う彼女。
青春の在り方を正確に把握していない僕には死が青春と対極に位置しているのかを断定することはできないけれど、彼女はそう考えているのだろう。
「好きだったことも、嫌いだったことも、楽しかったことも、苦しかったことも、何も思い出せない。でも、こんな私でももう一度青春を謳歌できたら、空っぽな心に生きた心地が満たされると思わない?」
彼女の言葉に僕は同意を返すことができない。
分からないのだ。
全てを忘れ空っぽになってしまったことも、青春を謳歌し心が満たされたことも、経験したこともなければ想像もつかない。
「分からない」
そんな僕が表面上の同意を示すことは彼女に失礼だと思った。
「正直なんだね、須戸辺くんは」
そんな僕の答えを彼女は好意的に捉えてくれたようだった。
正直ではあるけれど、きっと僕の答えは無責任さからきている。
「それで、どうかな。私の名前、何か思いついたかな?」
そう言われて思い出す。
そうだった。
僕は今、彼女の名前を考えるために質問をしていたのだ。
どうしよう。
彼女のことはこの数分の会話で少しだけ知ることができた。
茶目っ気のある性格で明るくみえる表面に、記憶がないことに憂い、空虚さに喘ぐ内面。
それを埋めるために青春を求める。
それはまるで闇夜の中、僅かな月明りを道しるべに月に手を伸ばすかのような、暗夜航路を揺蕩う漂流者を思わせる。
そうして、ふと頭に浮かんできた言葉。
「ルナ」
それは人類が月に焦がれた情念の結晶の名である。
「ルナ?」
「月に初めて降り立った無人探査機」
「無人探査機? 人は乗ってないんだ」
「それはアポロ」
「あ、そっか」
彼女は夜空を仰ぎ見た。
まばらに漂う雲の隙間から覗く月は満ちるには足りない、十日夜の月。
手を伸ばしてみても、掴めるのは不完全な青春かもしれない。
けれど、掴んでみるまで青春がどんなものかなんて誰にも分からない。
「空っぽでも、月に辿り着いた。だから」
「空っぽの私も青春に辿り着けるってこと?」
「そう」
今は欠けて見えて、辿り着く頃には満ちているかもしれない。
保険でもあり、期待でもある。
不確かで不確定な青春を求める、そんな彼女に相応しい名前であると、僕は思えた。
「ルナ、ルナかぁ。うん、いい名前ね」
「よかった」
彼女の顔を見て、自分の頼りないネーミングセンスもやるときはやるものだと安心する。
そんな安堵する僕を見つめる彼女がどこか悪戯っぽく口元に笑みを浮かべる。
「ねえ、名前で呼んでみて」
「え?」
「須戸辺くんが付けたのに、まだ呼んでくれてないよね?」
僕が意図的に避けていた部分を彼女は的確に突いてくる。
例え、『ソレ』だけしか呼び名がなくても、『ソレ』が苗字か名前かと問われれば、どちらかと言えば名前であることは違いない。
女の子を名前で呼ぶなんて、当然未経験なわけで、僕の臆病な心根が一歩踏み出すことをためらわせるのだ。
「ええと」
「じー」
頬が熱を帯びていく。
わざわざ効果音を付けながら、彼女は僕を促すように見つめてくる。
その視線から逃げるように目を泳がすも、ここには僕と彼女しかいない。
助け舟はどこからもやってこないのだ。
いや、そもそも逃げるようなことではない。
ただ僕が自分の意気地のなさを踏み越え、名前を呼べば済む話なのだ。
「ル、ルナさん」
震える声で彼女の名前を呼ぶ。
それを聞いたルナさんは、少し惚けたような表情を浮かべた後に、その大きな瞳を細め、小首を傾げながら笑顔になる。
「はーい、何ですか、須戸辺くん」
「用はない」
「えー。せっかくだから何か聞いてよ。今なら何でも答えるよ?」
ルナさんは両手を広げ、どんな質問でも受け入れるという意思表示をする。
しかし、そう言われてもすぐには思いつかない。
記憶のない彼女に尋ねても困らない質問というのは、改めて考えると多くはないということに気が付いたのだ。
それでも、ルナさんは何らかの問いかけを期待しているのだから、僕はこれまでの会話の中から自然な話題を探す。
「それじゃあ」
「うん、何かな?」
「今、楽しい?」
その問いにルナさんはしばらく僕を見つめたまま黙る。
目元も口元も笑っているのに、それでも即答できなかったのは質問の真意を測りかねていたのだろうか。
僕としては言葉通りのことが聞きたかっただけなのだ。
僕という面白味に欠ける人間との会話でも好きだと言ってくれるルナさんに、失礼ではあるけれど、一抹の疑念を抱いてしまっていたのだ。
突然聞かれたら戸惑ってしまうのも無理はないと思う。
困らせる気はなかったのに、申し訳ないな。
「うん、たぶん!」
変わらぬ笑顔でルナさんはそう言ってくれる。
けれど、もしその沈黙の意味するところが戸惑いではなかったらどうしよう。
本当は楽しいと感じておらず、取り繕う言葉を探していたならどうしよう。
僕が、きちんとルナさんの望む僕を振舞えていなかったらどうしよう。
悪い癖だ。
自分で自分の不安を煽っていく。
誰も口にしていない、誰も思考していない、ありもしない嫌悪を勝手に背負い込んで倒れ込む。
何度か頭を振る。
冷たい夜の空気が茹る頭をクリアにする。
やめだ。
目の前のルナさんをないがしろにしてまでする思考ではない。
大事なのは、事実。
僕の妄想を否定してくれるようなゆるぎない事実。
彼女の名前はルナで、僕との会話を好いてくれている、それが今日、分かったのだ。




