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暁の姫騎士(後編)

暁の姫騎士(前編)の続きです。お楽しみください。

第七章



 騎士団に異変があった。それに忙殺される日々は、国王付の近衛兵たちまでを忙しくした。

 突然、騎士団の拡充が申し渡されたのだ。今まで、見習いの騎士と、騎士たちを導く立場にある高官の騎士を除けば、どちらかというと魔法文化の発展してきたこの国では、せいぜい二、三万の騎士を抱えているに過ぎなかった。それは、魔法研究院に所属する魔道士の中でも、半分をしか占めない軍人魔道士の数とほぼ同等であった。

 それが、突然倍増されたのだ。騎士団入隊の試験は、今までの試験官たちだけでは足りなくなって、各騎士部隊の隊長や、団長までが借り出されるはめになった。騎士団は、その人手の足りなさと、入隊してくる新人騎士たちの増大に大騒ぎの態を奏していた。

 騎士団に入隊したいものの意図は様々だ。まずは、剣を磨きたいもの。それが一番純粋な意図とも言える。そして、騎士の身分が与えられれば約束される、多額の俸給。騎士の身分につきまとう栄誉。それら、それぞれの求めるところは種々あれど、何かを求めて騎士団の門を叩くものの数は、この好機を逃すなと言わんばかりに増えていった。

「ラウレン様」

 新しく騎士の採用試問に合格し、新しく騎士になった者たちの目録を携えて、シアはラウレンの執務室の扉を叩いた。

「入れ」

 いささか疲れたような、ラウレンの声が聞こえた。

「こちらをお渡しするように、ディアス様から」

 身分としてはラウレンの一つ上に当たる、騎士団長の名前を出すと、ラウレンは顔をあげた。

「ああ、ご苦労だったな」

 彼の前に書類を置くと、ラウレンはうんざりしたようにそれを見やった。

「……ラウレン様」

 シアがそう言うと、ラウレンは視線を上げる。

「これは、なぜなのですか?」

「なぜ、とは?」

 目を細めて、ラウレンは言った。

「急に、騎士団寮は賑やかになりました。見慣れぬ顔がずいぶん増えました。見習いだった騎士たちも、次々と騎士へ昇格しているようです。こんなふうに、急に騎士の数が増えたのは何ゆえなのですか」

 最初は、シアが何を言いたいのかと、戸惑ったような表情を見せていたラウレンだったが、シアの最後の言葉を聞いて、困ったように薄く微笑んだ。

「……騎士の仕事とは、何だ」

「は」

 いきなり問い返されて、シアは戸惑った。

「剣をもって、王家の方々や民たちを守ることですか」

「正解ではあるが。半分、と言ったところだな」

 ラウレンは、持っていたペンを置いて、小さく笑い声をあげた。

「それらを守るのも仕事だ。では、その逆もまた真なり、といえるだろう?」

「……」

 いつもその感情を表に出すことなく、剣の稽古を付けてもらうとき以外は、互いに口をきくことすらまれなラウレンが、このように気安くシアの相手をするなど、今までにないことだった。シアは困惑に眉を顰める。

「……戦うということですか?」

「もちろんだ」

 まるでシアを試すように、ラウレンは顔をあげた。

「騎士の責務は、そこにある。時には、表に向けてその剣を振りかざすこととて、職務のうちだ」

「では……!」

 思い至らなかったわけではない。しかし、今目の前に迫ってきているとは及びも付かなかったシアは、驚きに息を飲む。

「戦が、始まるというのですか……?」

「そうだ」

 こともなげに、ラウレンは言った。

「恐ろしいのか?」

「とんでもありません!」

 からかうように言われて、シアは体に力を入れた。

「決して、そのようなこと」

「陛下は、この国の未来のための策を、実行に移そうとしておられる」

 シアのそんな言葉が聞こえたのか否か、ラウレンは淡々と言った。

「そのために、軍事の強化が必要なのだ。研究院も然り。軍人魔道士の育成が急がれているという」

「何を、なさるおつもりなのですか……?」

 異変の予感に、シアが小さく聞いた。

「どこと戦うというのですか?今、この国に敵対しているところがあるというのですか?」

 ラウレンは、何も言わなかった。ただ、顎の下に手を組んで、シアを見上げた。

「シア・カエキル」

 彼は、いつものように重々しい調子で、シアの名を姓とともに呼んだ。そのような発言は軽率だったか、とシアは身を固くした。

「……お前は、戦場に出る必要はないのだぞ」

「……は?」

 シアは、予期せぬ答えに驚いた声を上げた。

「陛下が戦場に赴かれる際には、我々もお供する義務がある。しかし、お前にはその必要はない」

「なぜですか?」

 思わずと、シアの声は大きくなった。

「近衛兵としての義務なら、私にも責務があるはず。それを、なぜ」

「お前は、正式な形で近衛兵になったわけではない」

 重い声で、ラウレンは言った。

「陛下の直接のお声がかりで取り上げられたわけだからな。言わば、陛下や他の王族の方々をお守りする、という意志をもって入隊してきたわけではない。そのようなものにこんな責務を負わせるのは気の毒ではないか」

「……信用できない、ということですか?」

 シアは声を荒らげた。

「私が、陛下のお命を狙うものだから?だから、近衛騎士としての信用はおけないということなのですか?」

 それは、シア自身思ってもみなかった激情だった。おのれの声が荒くなるのを止めることすら出来ない。

「確かに、私は異端者です。近衛兵として働く意図も、不純この上ない。しかし、騎士として、剣を扱うものとしての誇りは持っているつもりです。いかにこの身が望まぬ境遇に置かれているとしても、この剣に立てた誓いのみは穢れないものであると自負しております。それを、私が正式の騎士でないからと言って、そのようにご信用いただけないなどというのは、私の本意ではありません」

 ラウレンは、最初はシアの勢いに押されたようだった。しかし、やがてシアの顔を見ながら笑い出し、それを、シアは何度もまばたきをして見た。

「そう言う、意味ではない」

 その一言に、シアは自分の取り乱しように気がついて、さっと頬を染めた。

「お前の立場は、よく分かっているよ」

 ラウレンの表情が、変わったような気がした。

「……私は、それを邪魔しようなどとは思わない」

「……ラウレン様」

 ラウレンの表情が硬くなった。がたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、真昼の太陽が差し込む窓際へと立った。

「お前の本懐は、私の希望だ」

「……」

 差し込む陽が影を作り、陰影のはっきりしたラウレンの表情は、彼に似付かわしくもない、皮肉めいた微笑に彩られていた。

「お前が、何をしようとしているのか、私は見届けたいのでな」

「……」

 シアは黙った。恐らく、その言葉の裏にあるのは、フェリクの聞かせてくれたあの話なのだろう。共に、一度は王に剣を向けたものとして、同志というような気持ちがあるのか。

「お前は、戦場で果てていい存在ではない。近衛兵といえど、やはり戦火に身を投じなければならないときもある。そうやって命を散らすのは、騎士としての誉れかも知れん。特に、近衛兵ともなれば、主君の代わりに命を落とすのは最高の栄誉だ。しかし、お前にとってのそれは、名誉でも何でもないはずだ。お前の使命は他にある。それを果たさぬうちに、そのような場で死ぬことがあってはならない」

 いつになく、ラウレンは雄弁だった。シアはそこに立ち尽くした。

「そう言う意味で、私は言ったのだ。お前は、戦場に赴くべきではない。そこでお前が死ぬようなことになれば、私とて、残念でならんからな」

 ラウレンは、多弁に恥じたようにそっぽを向いた。

「ラウレン様は、近衛兵の第一兵。陛下のもっともお近くにお仕えする、もっとも重要な近習の一人ではありませんか。フェリク様を除けば、ラウレン様こそが陛下の片腕と誰もが認める存在で。そんなラウレン様が、そのようなことをおっしゃるのですか?」

 シアの声に、ラウレンは、振り返った。その顔に浮かんだ笑みは、自虐とも皮肉ともとれた。

「お前は、なぜサキラス陛下のお側にいる……?」

 その唇が、シアに向かってそう言った。

「何のためだ?どうして、仇であるはずのサキラス様のお側にいて、日々父を殺された恨みを募らせているのだ?」

「そ、れは……」

 シアは息を飲んだ。今まで、ラウレンが見せたこともない表情。そのように、残虐で、空恐ろしい表情など。

「それは、父の仇としての陛下を、この手で討つために……」

「その大義を、私は見届けたいのだよ」

 ゆっくりと、ラウレンは言った。

「全てがお前のようにまっすぐな意志と気性で突き進んでいけるものではない。お前は、好機に恵まれた。時間と、境遇と。全てがお前の味方をしている。だからこそ、私はお前の行く末が見たい。お前がどのようにその剣を使うのか、見てみたい」

 ラウレンの表情から目が離せない。シアは、ごくりと息を飲んで、そしてゆっくりと言った。

「ラウレン様も、なのですか?」

 肯定はしなかった。然りとて、否定もせずに、ラウレンはもう一度、唇の端を持ち上げた。

「ラウレン様は、主君たる存在に刃を向ける夢を未だに忘れかねているということですか?」

 シアの言葉に、ラウレンの眉が動いた。しかし、彼はこの度は首を振った、はっきりと、否定の意を表した。

「違う。そうではない。……そのようなこと、思ってもいない」

「ならば、なぜ?」

 畳みかけるシアに、ラウレンは首を振って見せた。

「……余計なことを聞かせた」

「ラウレン様!」

 しかし、シアの声はもうラウレンには届かなかったようだった。ラウレンは背中を向け、窓際から退くと、元のように執務の机の前に腰を下ろした。

「これから、もっと忙しくなる」

 シアの持ってきた書類の束をめくり、中身を確認しながら、ラウレンは言った。

「陛下は、交戦の準備を進めておられる。それにともない、騎士団は拡大する一方だ。近衛兵としての執務以外に、いろいろと雑務が増える」

 その時のラウレンの表情は、最初シアがこの部屋に入ってきたときのものに戻っていた。先ほどのような皮肉な笑みを浮かべたことも、謎かけめいたことを言ってシアを困惑させたことも忘れてしまったかのようだった。

「お前にも、いろいろと用をさせてしまうこととは思うが……」

「それは、もちろんです」

 シアは、そのへだたりに戸惑いながら言った。

「何なりと、お申し付けを」

「ああ」

 それきり、ラウレンはその書類を読みふけるかのように下を向いて黙ってしまった。シアは、その様子をしばらく眺めてはいたが、やがて、小さな声で退出の口上を述べると、その場を辞した。



 ラウレンの言葉は、やがて真実のものとなった。物々しい軍が、王宮に集められた。それを率いるのは、国王。隣国、ロスクリードに向けた軍隊が、王都を出、国境に向かおうとしていた。

「戦いが始まる」

 重い声で、そう述べたのはサキラスだった。王宮の庭園を見下ろすバルコニーで、そこに頭をそろえた何万何千の兵士たち全てに聞こえる声を響かせる。

「そなたたちの戦い振りに期待する。我が国の貿易の源であるただ一つの港を譲り渡せ、などという暴言を退け、この戦いに勝利し、ロスクリードの南の領土を手に入れられれば、我がリストフォルスとて、その資源を貿易のみに頼ることなく、自足自給の生活を手に入れられることとなる。我が国は狭い領土しか持たぬ。しかし、軍は充実し、兵士たちの気力もこれまでにないほどにみなぎっている。我々に、勝利のあらんはずがない」

 歓声が上がった。触れ合う鎧、抜かれる剣の、金属音がそれに唱和した。

「我らに、武運を」

 白い鎧に身を固めたサキラスが、その腰に下げた剣を抜き、天高く捧げた。太陽がその刃を照らし、眩しいほどに煌めいた。後ろに束ねられた銀の髪も、光線を浴びてきらきらと輝く。まるで誂えたものであるかのように

「天も、我らを祝福している」

 飛び交う歓声が、ますます大きくなった。それを聞き、満足した態でサキラスは薄く笑った。抜いた剣を収め、振り返る。

「一刻のちには出立する。身仕度を整えておけ」

「御意」

 近衛兵たちが、一斉に頭を下げた。シアも、近衛兵の白と黒の鎧に身を固め、束ね上げた髪を揺らしてそれに倣った。

 バルコニーから下がるサキラスに従って、近衛兵たちは彼の回りにつく。近衛兵の中でも一番身分の低いシアは、慣習通りにその後ろに従った。

 こうやって、何か振れがあるときにはバルコニーに立ち、眼下に居並ぶ兵士たちに声をかけるのが常だった。それは、宮殿の大広間で行われることもあったが、このような大人数、しかも皆が鎧に身を固め、馬を引き連れた軍の集団であるとするならば、自然、謁見の執り行われる場所はバルコニー下の、屋外の謁見場となる。そして、今その場所は、リストフォルスを戦禍に陥れる、戦争の始まりの場所となった。

 バルコニーからいったん下がり、サキラスは執務室に戻ることとなっている。その間に兵士たちは支度を済ませるように指示されていた。

「シア・カエキル」

 声をかけるものがあって、シアは顔をあげた。

「……ラウレン様」

 シアと同じ、白と黒の近衛兵の鎧に身を固めたラウレンが、彼女を見下ろしていた。

「……近衛兵の軍に、お前も加わったのだな」

「はい」

 彼を見上げて、シアは言った。

「……お言葉には、逆らいましたが」

 そんなシアをしばらく見つめていたラウレンだったが、やがて呆れたような、仕方ない、と言ったような表情を浮かべて首を振った。

「近衛兵となれば、陛下のお身の回りを警護するのは尋常、その職務に忠実であることは、当然といえば当然だ」

 そう言い置いて、さっと元の場所に戻ってしまう。その態度は相変わらずだったが、それでもそこには、常ならぬ神経の張りつめた様子があるのがよく分かった。他の近衛兵たちも、いつにない緊張に身を固めている。

 軍は、最下層におけるもっとも数の多い平兵士だけで四万を越す大軍だった。それらは色によって二分されている、白の西軍と、青の東軍。それは王家たるアンシーヌ家の聖なる色で、それぞれが、その色の鎧を身に着けている。

 それらを指揮するのは隊長、団長、軍団長の身分にあるものだった。胸に、やはりアンシーヌ家の紋章を飾った彼らは、その出で立ちもやはり、それぞれの属する軍の色を強調しており、下級兵士たちと違う点は、その肩からそれぞれの軍の色のマントを垂らし、銀色の飾り紐で留めているということだった。胸につけた紋章が、おのおのの身分を示している。

 彼らの世話をする従者近習たちも、戦いのための要員ではないものの、やはり最低限の薄い鎧は身に付けて、主の馬をひいている。いざとなればおのれの身程度は守る必要がある彼らは、やはり腰には剣を下げ、傍目には兵士ともとれる物々しい姿に身を固めている。

 王より総大将を任ぜられた国王は、それらの軍を率い、都を出た。国境までは七日の道のり。その間は、道々夜営を余儀なくされる。

 昼間の行軍は、滞りなくすんだ。宵闇が襲うころ、進軍は歩みを止め、部隊ごとに固まって炊の紫煙を上げ始める。近習たちが走り回り、馬に餌をやるもの、主人の世話に奔走するもの。夜営のための天幕を張るもの。

 まもなく、辺りは夜の闇に包まれ、あちこちに焚かれた火だけが用心のための明かり取りとなって辺りを照らす。身分ごとの組に別れた兵士たちは、それぞれにここで、夜明けまでの時間を過ごすこととなっていた。

 侵略のための行軍と知らされなければ、あちこちに立つ夜哨の姿が見えなければ、眠るときにもまとったままの鎧の触れ合う音がなければ、静かに更ける夜の中、長閑にすら見える光景だった。

「……陛下」

 軍が一夜の宿としたところに、回りの陣営から守られるようにして立つのは国王の天幕だった。そこに、近習に先導されて招き入れられる姿があった。

「お呼びと伺いまして」

 白と黒の鎧に身を包んだままのシアだった。天幕の中、持ち運び用の簡易な寝台を背にしたサキラスが、彼女を見て頷いた。

「ああ」

 呼び寄せられて、シアは天幕の中に入る。そのように側近くに招き寄せられるのは、近衛兵の中でも、特に国王に許された者以外にはないことだった。

「不自由は、ないか」

 開口一番、サキラスはそう言った。

「……特に」

 シアは、いきなりそのようなことを尋ねられ、意図を読めずに曖昧に頷いた。

「必要なものは、全て与えていただいております」

「そうか」

 近習が、湯気の立つ飲み物を捧げて入って来た。進軍の折りには水や食料は貴重だった。特に咽喉を潤す必要もないのに飲み物を手にすることが許されているのは、身分の高い騎士や魔道士、そして、この場所でだけだった。

 まずは、サキラスにそれが捧げられる。続いて、近習はシアにもそれを渡そうとした。

「私は、控えさせていただきます」

「なぜだ」

 グラスに唇を付けたサキラスが言った。

「陛下のご相伴にあずかるなど、不遜です」

「何を」

 サキラスは笑った。

「私が許すのだ。グラスを持て」

「……」

 シアは、手を出して近習からそれを受け取った。しかし、サキラスのように口を付けることはせず、黙ってそれを膝に置いた。

「なぜ飲まない」

「……僭越だ、と申し上げました」

「……ふん」

 サキラスは笑って、おのれのグラスを傍らに置いた。

「私の寝所に忍び入ってくる厚かましさがあると思えば、そう言うところは妙に立場を心得ている。分からんな、お前は」

 シアが、頬をかっと染めた。

「それは……」

「まぁ、いい」

 あくまでも、サキラスはゆっくりと話した。その身にまとっているのが純白の鎧でなければ、ここは宮殿の、国王の私室と勘違いしたかもしれない。

「何用で、お召しですか」

 シアは先を急いだ。

「陛下の天幕に入れていただくなど、他の幹部の方々に何と言われるか」

「何か、言われているのか?」

 サキラスは、眉を持ち上げてシアを見た。

「この場所に呼びつけられるような身分のものではないと?」

「……」

 黙ったまま、シアは視線を落とした。グラスの中の琥珀の液体が揺れる。

「謀反人が、このような扱いを受けるのは身の程知らずだと……?」

 シアが白と黒の鎧を身に着けるのをよく思わないものはたくさんいた。そうすることで浴びた誹謗や中傷は、未だその目的を果たさずにいるシアに、少なからず傷をつけていたのだ。

「案ずるな」

 サキラスが、唇の端を持ち上げた。

「お前は、この戦いの間、私の小姓となれ」

「陛下?」

 驚いてシアが声を上げた。

「常に私の側にいるのだ。私の所用を果たす役目を担うことになる」

「何ゆえですか?」

 シアの声が荒らげられた。

「正式の騎士でもない私を、なぜ?」

「お前が、私の命を狙うべきものだからだよ」

 グラスを手にもてあそび、サキラスは言う。

「私がこの戦いで果てることになっては、お前も浮かばれまい?お前自身の手で私を討たねば、お前とて本望ではないだろう」

 そして、いかにも楽しげに忍び笑いを漏らした。

「そのために、いつでも、お前の手の届くところにいてやろうというのだよ」

「……なぜなのですか」

 困惑したシアは、押しつぶしたような声を上げた。

「陛下は、いつもそう言うふうにおっしゃる。私ごときを潰すことなど、造作もないことであるはずなのに。いつもそうやって、私に機会を与え、まるで私のお味方をなさっているようです」

 天幕の壁が、風にざわりと音を立てた。

「いつも不思議でした。なぜなのです」

 サキラスは唇を合わせ、声を途切らせた。シアをじっと見つめ、彼女に居心地悪い思いをさせる。

「まるで、ご自分から死にたがっていらっしゃるようです」

「……」

 何も言わないままに、サキラスはただ手に持つグラスを揺らすだけ。中に入った液は、夕暮れの湖のように見えた。

「なぜなのですか」

 重なるシアの問いには答えずに、サキラスは彼女を見た。

「明日は早い」

 それに呼応するように、夜鳴き鳥が低く鳴いた。

「今日は、お前の天幕にもう戻れ。明日からの行軍では、お前は私の天幕の隣に陣を取れ」

 有無を言わせぬはっきりした口調でそう言うと、サキラスは残った液体を一気に飲み干し、近習を呼んでそれを下げさせた。

「夜も更ける。いくら、そのように男のなりをし、化粧の一つもしないとは言っても、女がこのような時間に男の元にいるものではないよ」

 くつくつと笑う声が、シアをかっとさせた。グラスを、近寄った従者に突きつけるように手渡し、鎧が乱暴な音を立てるのにも構わず立ち上がった。

「失礼いたしました」

 立ち上がったシアを、まだその唇には微笑みを浮かべながら、サキラスは見上げた。

「仰せの通り、明日からは陛下のお側でお仕えさせていただきます。ご用の向きには、どうぞお呼びつけ下さいますように」

「頼んだよ」

 笑いを含む声にシアは踵を返した。天幕の外に乱暴な足音をさせて出ると、そこに控えていた幾人かの従者が驚いたように彼女を見た。そのまま、足音を抑えることもせずに、自分のために用意された天幕に戻る。

 小さな天幕に戻り、中に入ると入り口の布を引き寄せた。鎧を脱ぎ、鎧下を代えるため、それを傍らに置いた。

「誰?」

 天幕の外から、何か気配を感じてシアはそちらを向いた。

「誰かいるの?」

 布で作った天幕には、建物の中の区切られた部屋のように扉に鍵をかけるというわけにはいかない。ただ、表からは見えない程度に布を引き寄せることが出来るというだけだ。

「……?」

 鎧下の胸元をかき寄せて、シアは先ほど引いた布に手をかけた。表からは闇が飛び込んできて、その向こうに等間隔に焚かれた炎の赤さが浮かび上がった。

「シア・カエキルか?」

「間違いないな」

 薄暗い天幕の中から現れたシアをそう確かめて、彼女が返事をしようと口を開けた途端、腕をつかまれた。

「ちょっと、顔貸してもらおうか」

「嫌だとは言わせないぞ」

「な、何なんですか?」

 驚いて振り払うも、二人がかりで押さえられては動くことも出来ない。

「やめて下さい!」

 声を上げようとすると、口に大きな手のひらを押し付けられた。

「声を出すな」

 囁きかける声は、笑いを含んで嫌な印象を与えた。

「別に、あんたに悪いことをしよう、とか言うんじゃない。ただ、ちょっと俺たちの話を聞いて欲しいだけなんだよ」

「一緒に来てくれよ」

 とても、そんな穏やかな気持ちでいるとは思えない声で、二人の男は言った。

「ここからじゃ、陛下に声は届かないぜ?」

「なにを……!」

 シアはきっと眉を釣り上げて言った。

「陛下が、どう関係おありだというのですか」

 男の笑い声が忍び込んできた。

「そりゃぁ、あんた、シア・カエキルといえば、陛下のお気に入りの近衛兵だって、知らないものはないよ」

「ご自分のお命を狙う謀反人の娘をお側に仕えさせて、酔狂というか、お心が広いというか」

「陛下がそこまで興味をお持ちのシア様と、一度じっくり話したいと思っていたんだよな」

 棘のある言葉に、シアは唇を噛んだ。

「話なら、ここででも出来るでしょう」

「あんたと話したいのは俺たちだけじゃないんでね」

 闇に慣れた目に、二人の姿がだんだんと鮮明に映り始めた。一人は黒、一人は薄茶の髪の男だった。鎧の上に付けられた紋章が、彼らが軍人魔道士であることを示している。

「俺たちの仲間が待っている。来てもらおうか」

 黒の髪の男が、手のひらを目の前に突き出した。

「手荒なことをしたくはないんでね」

 その手のひらから、小さな炎が上がり、シアを驚かせた。

「いくら普通の女らしく、髪だの化粧だの構わないからって、やっぱりその顔を焼かれたりするのはいやだろう?」

「……」

 炎に浮かび上がった男の顔に、シアはぞっとして後ずさりをした。しかし、掴み上げた薄茶の髪の男の手が、それを許さない。

「来て、くれるよな?」

 微笑んだ男の唇は、雨の日によく見かける気味の悪い虫の形をしていて、シアの背中には、何度もぞくりとするものが走った。

 総勢五万の軍とは言え、女の身で参戦したものはシアだけと言ってもよかった。魔道士の軍の中に、戦況の行く末の卜占のために加わっている女の魔道士がいたが、すでに年老い、幾つともしれぬ老婆であるということだった。そんなシアが使う天幕は、一人用のものであった。鎧をまとい兜を下ろせば、見てくれは他の兵士たちと変わらないとは言えども、シアの存在はそれだけで有名だった。サキラスの天幕からここに戻ってくる途中にも、彼女のあとを、わざわざ天幕から顔を出して見送るものとて幾人もあった。つまり、この一人用の天幕は、彼女を探し出すのに格好の目印となったわけだった。

 二人の男に連れていかれたのは、軍の天幕が集中する広場からは離れたところ、森の始まる木陰だった。そこには、二人三人どころではない、陰に隠れて見えないが、何人もの兵士たちがいるようだった。

「シア・カエキルか?」

 その中でも、もっとも大きな体をした男が聞いてきた。シアは唇を噛みしめながら頷く。

「このような間近では、初めてお目にかかります」

 その脇に立っている男が、にやにや笑いながらわざとらしい丁寧な口調でそう言った。

「いつも、陛下がお手元から離されないので。我々のような下々のものとはお言葉も交わしていただけないで、誠、残念に存じます」

「やめろ、キース」

 先ほどの大きな男が彼をたしなめた。

「お前が口を出すと、話がややこしくなる」

 キースと呼ばれた男は、唇をとがらせて肩をすくめた。シアに再び声がかかる。

「わざわざ来てもらったのも、他でもない」

 激情を抑えるような口調で、彼は言った。

「軍を、抜けてくれないか」

 淡々と、男は言った。

「お前は、目障りなんだよ」

「……」

 シアは返す言葉を失って、黙ったまま彼を見た。

「女が遠征に参加する、というだけでも軍としての秩序を壊している。占い師の婆さんは別だ、しかし、あんたは若い女で、しかも陛下のお気に入りだ。さらには、陛下の仇でその命を狙う謀反人の娘、というおまけまで付いている」

「はっきり言って、そう言うやつと一緒の軍にいるのはいやなんだよ」

 後ろに立っていた、今まで一度も口を挟むことのなかった男がそこで初めて口を開いた。

「陛下のご命令とあっちゃ仕方がない。だが、あんたが自分から出ていく分には、問題ないだろう?」

「出ていけ」

「出ていってくれ」

 唱和する声が、シアの肩を震えさせた。

「……私は」

 シアの声に、皆が耳を傾けたようだった。

「私は、陛下のお気に入りなどではありません」

「馬鹿な」

 誰かが、吐き捨てるように言った。

「正式な騎士でもないのにいきなり近衛兵に取り上げられて?実戦の経験もないのに遠征に加えられて?今さっきだって、陛下の天幕から出てきたくせに」

「それでも、そう言い逃れるか?」

「違います」

 胸が震える。そう言われることは、シアの自尊心に大きな傷をつけた。

「違います。私はただ、父の仇を狙うのみのもの。近衛兵として使われることも、遠征への参戦も、ただ、それのみを目的としたことで、それ以外の意図はありません」

「……ふん」

 鼻を鳴らす音がした。

「そんなことを言いながらでも、実は密かに陛下の情人だって噂もあるくらいなのに」

「なっ……!」

 これに驚いたのは、シアの方だった。

「情人、ですって……?」

「正式にそうするには身分が低すぎる。しかも、ご自分が死を命じた男の娘をそうするには世間体が悪いから、ただの近衛騎士という形にはしているが、実は、そうなんじゃないかって言うものも多い」

「そう言われるだけの材料はあるからな」

 笑い声が幾つか絡み合った。シアはぎりりと歯を噛み鳴らし、とっさに腰に手をやった。

「お、やる気か?」

 身構える音がした。しかし、鎧を脱ぎ捨てたままの格好でここに連れてこられたシアの腰には、短剣一本ささってはいなかった。

「武器がないんじゃな」

 笑い声がする。

「腕っぷしじゃ、いくら、騎士よりは腕力に劣る魔道士とは言っても、俺らの方が上だろうな」

 シアの手首が、ぎりりとつかまれた。

「出て行くならよし、そうでなければ……」

「……なければ……?」

 気丈に、シアが睨み返すのを馬鹿にしたように男は顎を反らせた。

「そうしたい気持ちにさせてやるまでだ」

 足を払われた。驚く暇もなく、したたかに地面に頭を打ち付けて歯噛みした。両の手首を押さえ付けられて、首をあげようとすると、頭も大きな二つの手で地面に縫い付けられたように叩きつけられた。

「……ぁっ……!」

 痛みに上げる声をふさがれた。息も出来ないほどに口と鼻を押さえられて、もがく腕を地面に張りつけられた。

「声を出すな」

 耳元に囁きかけられて、硬直する。

「誰かに言い付けてみろ。……ひどいぞ」

 低い声で洞喝されて、シアは体を引きつらせた。

「もっとも、今からされることを言いつけられるはずもないけどな」

 何人もの笑い声が絡み合った。それが、シアの体を撫で去っていく。

「そっち、押さえとけ」

 足をも押さえられ、地面に張りつけられた形のシアは、おのれの衣装が引き裂かれるのを聞いた。

「……男のなりばかりしているから、どんなもんかと思ったが」

「なかなか」

 男たちが何を見ているのか。何を目の前に笑っているのか。シアは動けない悔しさに歯を鳴らした。

「戦に加わりたいなんて、思いもしないようにしてやる」

 上半身を、冷たい風が吹いた。その、肌を刺す直接の刺激は、そこを覆っていた衣装がもうすでにないことを示している。

「謀反人の分際で」

「女の癖に、騎士だと?」

「生意気なんだよ」

 今まで押さえていたのであろう、シアへの罵詈雑言が次々と漏れでた。シアは、せめてそれを自分に浴びせかける者たちの顔を見ないで済むように、しっかりと目をつぶった。

「悲鳴も上げないのか」

 声を出すな、と言った男がそう言った。

「……かわいくない女だ」

 一体、そこには何人いて、何人でシアを取り囲んでいるのか。暗闇がそれを確認することを阻んだ。シアの胸の膨らみの上を、幾つかの手がなでさすった。

「ひ……っ……!」

 押さえられた唇の間から、それでもシアの悲鳴が漏れた。

「や……っ……」

 その感触に、ざわりとしたものが走る。殺されるよりも恐ろしい、屈辱への予感がシアを狂おしいほどに嘖んだ。

「やめ、や……っ…!」

 しかし、その声ははっきりと声にはならない。口を押さえている男も、シアの唇が震えていることに気づいてはいるのだろうが、しかし、それをほどく気はないらしい。

「おい、その先だ」

 シアの下肢を包む衣装に手がかかった。

「あぁ……っ……」

 身を捩ろうとしても、それはかなわない。下腹部が、冷たい空気に晒される。武人の娘として育ったシアには、こういうことには人一倍潔癖だった。おのれの剣を穢されること、そして、自らの誇りを貶められること。そのような場合には舌を噛んで自決することをも厭わないようにと教えられてきた。その復讐のみを願って今まで生きてきた、父の教えに、シアは忠実に従おうとしていた。

「……っ」

 体の上で、妙な声がした。と、空気が揺れる感覚が襲い、体を這う手がずるりと落ちた。口を押さえつけた手も緩み、驚いたように引っ込められた。

「ずいぶん、楽しそうなことしてるじゃないか。ええ?」

 その場にはなかった声が聞こえた。

「けど、寄ってたかって押さえつけるには、ちょっと相手がまずいんじゃないかな」

 茶化したような口調で、しかしその中に明らかな怒りが含まれているのを感じ取れないものはいないだろう。シアの体はたちまち解放された。

「命が惜しいんなら、やめとけ。それとも、俺を相手にするか?」

「……とんでもありません」

 先ほどまでの威勢が嘘のように、そこにいた者たちは小さな声でそう言った。

「全く、下らんことを思いつきやがって」

「……フェリク様」

 解放された体を起こしたシアは、そこに現れた影に驚いて目を見開いた。

「どうして、ここが」

「陛下のお声ががりに対する、嫉みってやつか?」

 呆れたように、フェリクが言った。

「だったらな、もっと頭を使え。陛下のお気に入り、ってことは、陛下のお目が、常に届いているってことなんだぞ」

 金縛りにあったように、シアを嬲っていた魔道士たちは身動き一つせずに硬直していた。フェリクが、軽く印を結んだままの手をしているということは、おそらく彼らはフェリクの術に捕らえられたままなのだ。

「……行け」

 低く、フェリクが言った。

「今すぐいなくなれば、この失態は、黙っていてやる」

「……」

 フェリクが印を解くと、急に体の自由を取り戻した魔道士たちが、今までの気迫をすっかり失ってそこに転がっていた。

「……行け!」

 声が荒くなった。魔道士たちにとっては直接の主とも言える頭領魔道師に叱責されて、その場にとどまっている勇気のあるものはいなかった。まるで、激しい雨に流されていく木の葉のように一人二人、そして、シアがその光景に驚いていったんつぶった目を再び開いたときには、もうそこには誰の姿もなかった。

「きゃっ!」

 いきなり、シアの体が宙に浮いた。と思うと、彼女の体はフェリクの腕の中に収まっていた。

「は、なしてください!」

 抱き上げられて、シアは驚きに腕を振り回した。

「歩けます、離して下さい」

 シアの声が聞こえないかのように、フェリクは彼の肩にかかったローブを取り、そしてそれを腕の中のシアに着せかけた。

「人目につかないように、姿を消すぞ」

 返事を待たずに、魔法の波動が体を包んだ。このように、身を覆う魔法に身を任せるのは初めてだった。最初は空気が急に粘着質のものになったかのように感じられたが、その違和感はすぐに去り、何もないときと同じように何も感じなくなった。

「フェリク、様……?」

 それに顔をあげると、フェリクはいつもの穏やかな表情を向けてきた。先ほどの怒りに満ちた顔は別人であったかのように。

 招き入れられたのは、先ほど訪れたサキラスの天幕のほど近くに張られた別の天幕だった。近習が驚いてフェリクと、その腕に抱えられたシアを迎える。天幕の中に入り、シアはやっとフェリクの腕から下ろされた。

「これを着るといい」

 傍らにあった衣装を差し出され、シアはそれを恐る恐る受け取った。フェリクが天幕を出る。一人きりになったそこで、フェリクのローブを取ると、その下には破れてしまった衣装から覗く、あられもない姿が目の当たりにされた。

「……」

 表にいるよりは明るい、天幕の蝋燭の中で見るとそれはあまりにも無残な光景だった。あの時、押さえつけられた衝撃で自分がどのような扱いを受けていたかというところまでは気が回らなかった。しかし、こうやって見ると、あの折りの屈辱があまりにも大きいものであったことに思い至り、シアはそっと唇を噛んだ。

 渡された衣装は、シアにはかなり大きかった。一目でフェリクのものだと分かる。しかし、破れた衣装のままでは天幕から出ることも出来ない。衣装の裾や袖を絞って結び、どうにか体に合わせた。

「フェリク様」

 呼びかけると、天幕の外の気配が動いた。

「お待たせいたしました」

 衣装を引きずる音がして、天幕が開いた。フェリクはシアを見るとにっこりと笑った。

「ちょっと、大きかったな」

「いえ、お貸しいただき、ありがとうございます」

「なんの」

 フェリクは笑って、シアの傍らに腰を下ろした。

「……あれらは、全て俺の部下だ」

 それは、当然だった。フェリクは頭領魔道師なのだし、頭領魔道師は、国全ての魔道士の総元締めとなる立場だった。

「その部下の不始末、詫びても許されることではないと思うが」

 すまん、とフェリクが頭を下げた。それに、シアは意表をつかれて慌ててしまった。

「とんでもありません」

 体の前で手を大きく振ると、フェリクは何度かまばたきをしてそれを見た。

「とんでもないってことがあるか」

 シアの方が、それに叱られたように肩をすくめた。

「やつら、ふざけている。あんなことをするなんて。魔道士にも、人間の風上にも置けんやつらだ」

 このように怒るフェリクを、シアは初めて見た。まるで子供のように怒りをあらわにしている。首を振ってその激情を抑えようとはしているようではあったが、しかし沸き上がる感情を押さえきれずに歯ぎしりさえしている。

「……陛下の許可があり次第、あいつらは軍議にかける」

 フェリクは重々しく言った。

「極刑だって、俺は進言する。こういう姑息な手に寄る輩だけは、許せない」

「フェリク様」

 それには、シアの方が驚いた。

「そんな……!」

「シア」

 フェリクが、シアの方を振り向いた。

「まさか、お前は許せるのか?」

 まるで、自分の方があのような目にあったかのような表情で、フェリクは言った。

「自分を、あんな目に合わせたやつらを……?」

「気持ちは、わからないでもありません」

 シアが言うと、フェリクは今にも目が飛びだしそうな仕草を見せた。

「確かに、正規に軍に集められた人たちには、気に入らないのでしょう。私のように、正式の身分も持たないままに参戦する身が。それに、あれは誤解としか言い様がありませんが、それが陛下のお気に入りゆえだと思っているようでは。それは、妬みも……」

「シア!」

 鋭く声が飛んだ。

「なぜ、そのような言い方をするんだ?本当に、そう思っているのか?仕方ないと?あのような仕打ちを受けるのは、仕方ないと?」

「……」

「それは、お前が女だからか?敵討ちを狙う者だからか?だから、あのような屈辱に甘んじるのか?」

「……」

 シアには、まだ分からなかった。果たしてフェリクが今のおのれの心情を吐露するべき人物なのか。彼は、サキラスの側近だ。それは、敵として警戒すべき相手ではないのだろうか、と。

「……俺は、お前さんの敵じゃないよ」

 そんなシアの思いを読んだかのように、フェリクは今度は小さな声で言った。

「そりゃ、あんたの生きているわけを聞けば、俺も立場上、力添えしようとか、そう言うわけには行かんさ。けど、これは……」

 フェリクは、言葉を濁した。

「これは、話が別だ。陛下も、これを危惧してお前を側から離さなかったのに」

「……陛下が?」

 シアは眉を顰めた。

「お前を小姓に、って話があっただろう?」

 首をすくめてフェリクは言った。

「あれは、そのためだよ」

「……」

 シアのまとった、大きめの衣装が肩から滑り落ちた。それに慌てて手をそえる。それから、フェリクは目をそらせた。

「陛下は……」

 声が震えるのを押さえられなかった。シアは、唇を噛んでそれを押しとどめようとする。

「陛下は、何をお考えなのですか?どうして、私をお側に置いておかれるのですか?私は、何のために……」

 うつむいて、熱くなる目頭を見られまいとする。口を手で覆って、声が漏れないようにする。

「あのような謂れのない誤解と、辱めを受けて、あまつさえ仇の情けをも被って。それでも、生き続けなくてはいけないものなのでしょうか?このまま、大義も果たせず朽ちてゆくのでしょうか。それどころか、この先一生を仇と狙うものに憐れまれて、そんな恥辱のまま生き続けることになるのでしょうか……?」

 シアの目から、涙がこぼれ落ちた。一つ落ちたそれに連なるように二つ三つと降り注ぎ、やがてそれは雨のようにシアの膝に置いた手の甲に降り注いだ。

「……分かりません」

 震える唇から言葉が漏れて、シアは肩を震わせた。

「分かりません、私は、どうすればいいのか。どうやって生きていけばいいのかさえ。私は、こんなふうに扱われるため生きてきてわけではないはずなのに。父の仇を討って、その手で私も父の後を追うはずだったのに。あの広間で、陛下が生きろと仰せられたときは、何も、こうやっていつまでも恥辱に甘んじるために、あえてその言葉に従ったわけではないのに……!」

 上手く言葉になったのか、自信はなかった。ただ、今まで鬱積したものを一気に吐き出すかのように、シアの唇は言葉を綴った。

 そんなシアを、フェリクは黙って見ていた。彼に似付かわしくもない激情はそこから去っていた。いつものように落ち着いた、魔物めいた金の瞳をシアに向けて、そして、言葉を綴り始めたのだ。

「……お前さんの親父の話だが」

 フェリクの声は、低かった。

「なんで、カエキル殿がロスクリードの宰相に切りかかったか。どうして、陛下がそれを断罪せねばならなかったのか」

「……」

「あんたの知らないことがある」

「なんですか、それは……!」

 シアは勢い込んだ。

「何をご存知なのですか」

 そんなシアを見て、フェリクは口をつぐみ、そしてじっと彼女を見つめた。

「……この国は、狭い領土しか持たず、これといった産業もないし、国を立てていくには輸入に頼るしかない国だ。ロスクリードはそんな我が国の最大の貿易相手国だ。あそこには広大な農地もあれば、牧畜や放牧に適した高地もある。遠くとの貿易のために必要な港だって。しかし、我が国にはその内のどれもない。内陸の、小さな国でしかない国にとっては、輸入した原材料を加工してまた輸出するのが唯一の産業らしい産業だ。自給自足できてこそ、国としての体面が保たれるのだからな。隣国とは言え、ロスクリードが我が国を侮っているのは知っている。しかし、だからと言ってこちらとてそれに反撃するだけの材料はない。ロスクリードとの貿易を差し止められれば、民は飢えるしかないからな」

「それゆえに、この度の遠征となったのでしょう?」

 揺れる声を懸命に抑えて、シアは言った。

「そんな状況を脱却するために。そのために、ロスクリードとの国境を越えることを決められたのでしょう?」

「……今回の遠征に至るには、きっかけがあったんだよ」

 大きくため息をついて、フェリクは言葉を切った。傍らに置かれたグラスを手に取り、一口含んでから、続けた。

「それが、あの宴だ。お前さんの親父さんが、命を落とした、あの」

 シアを見つめながら、フェリクは言った。

「宴の酒の勢いもあったのだろう。だが、高揚した気分が、本音を言わせたというのが正しいのかもな。あの宰相は、我がリストフォルスを侮蔑した。おのれを養っていくことも出来ない国だと。そのふがいなさは、やはり王が若いからなのかと。どうせなら、けちくさい加工貿易などに頼らずに、いっそのこと美貌の王を産出物そのものとして輸出してはどうだ、などとね」

「……」

 シアは、言葉を飲んだ。

「もちろん、その言葉を回りのものはたしなめはしたさ。しかし、調子に乗った宰相の言葉は止まらなかった。確かに、あの兄妹の美貌は際立っているさ。それを餌に、一国の王族の面々を捉まえてそのようなことを言いたい放題だ。あんな口の軽い宰相では、ロスクリードそのものの品位も疑われる、と言うようなもんだが、まぁ、事実あれが宰相なのだからな」

 再びのため息と、グラスを持つための手が掲げられた。それを、シアはまるで影絵を見ているように、ぼんやりと見つめる。

「その時、剣舞の披露を終えたカエキル殿が陛下に付き従っていた。その侮辱に再三剣に手が行ったようではあったが、陛下に止められていたのを俺は見ていたんで知っている。しかし、こと、宰相の言葉が王族の個人的な中傷にまで及んだとき、剣が抜かれた。あとは、あんたも知っての通りさ」

「……」

 何度かまばたきをして、シアは今聞いた話を反芻した。そのような侮蔑におのれの故国が値すると知って悔しい気持ちも多々あった。しかし、それ以上にシアを襲ったのは、その事実に対する衝撃だった。

「それでは、父は、国の名誉を守ったのではありませんか……?」

 息を飲みながら、シアは言った。

「王族の方々の誹りを口にするのも遠慮しないような非礼の輩に、制裁を加えたということではありませんか。それなら、父は讚えられこそすれ、死を賜らなくてはいけないほどの大罪を犯したということにはならないのではありませんか?」

「制裁、とね」

 フェリクは片方の眉毛を釣り上げて言った。

「それが許される身分か、あの剣士様は?仮にも貿易国の宰相にそのような行為をして、許されるような立場か?」

「……」

 一転、激しくおのれを貫いたフェリクの言葉に、シアは詰まった。

「親父さんの罪に名前を付けるとしたら、それは不敬罪だ。おのれの身分も立場もわきまえず、早まった行為をしたその報いだ」

「しかし……!」

 シアには、まだ納得はできなかった。

「しかし、ご自分に向けられた恥辱の恨みを晴らそうとした父を、なぜ死に至らせなくてはならないのです?それも、父の断罪は陛下が下されたものでしょう。なぜ、陛下はおのれの忠臣をそのように……!」

「じゃ、どうすればいいんだ?」

 畳みかけるようにフェリクが言った。

「宰相に傷までつけておきながら、その犯人を許せと?そして、ロスクリード側に貿易を差し止める理由を与えて、国民を飢えさせろと?」

「……!」

 シアは唇を噛んだ。

「確かに、お前さんの言うように、陛下はカエキル殿を見殺しにしたのかも知れん」

 そんなシアをじっと見つめ、フェリクは言った。

「しかし、それはカエキル殿も承知していたはずだ。おのれの一時の激情が、どのような結果をもたらすか。それが分かっていたからこそ、あえて黙っておのれの犯した罪の償いを受けたんだ。大した身分でもない、地方貴族のために国を傾けるわけにはいかないと。それは、彼自身が一番よく納得して、あえて断罪を受けたんだ」

「そんな……」

 言葉を失って、シアはその場に座り込んだ。

「でも、陛下はそんなことは一言もおっしゃらなかった。まるで父を貶めるような言い方をして、だからこそ私は、父の不遇に消しようもない怒りを感じたのです」

 握った手が震えている。それにさらに力を入れて、シアは震える声を継いだ。

「あの時、そう言っていたら、あんたはどうした?」

 そんなシアを見つめながら、フェリクは言った。

「きっと、ロスクリードに向かって、この王宮にやって来たときのように宰相に会わせろと言って憚らなかっただろうな。それで、仮にも本当の父の仇たる宰相殿に会えていたら、お前はどうした?その時こそ、お前は本当に殺されていただろうよ。そうでなくても捕らえられてつながれて、誰にも知られない場所でひどい目に遭うことになっていることだって、十分に考えられたんだ」

 シアの激情とは裏腹に、フェリクの声はあくまで静かだ。

「それを、陛下は止めたかった。これ以上、犠牲が増えるのは見たくないと言っていた。だから、ああ言ったんだ。お前のやり場のない怒りが、ご自分に向けられるように、ってね」

「そ、んな……」

 シアに言葉はなかった。知らなかったとはいえ、おのれの行動の短慮さを恥じた。父も、サキラスも、そのような考えがあって成したことだったのに。それを知ることもなく、ただサキラスを仇と信じて来たことが、忌まわしいほどだった。

「……私は、どうすればいいのですか?」

 シアは、唇を震わせた。

「……私は、間違っているんですか?」

 顔を上げてフェリクを見た。それに、シアの方が驚いた。フェリクは見たこともないほどに真摯な眼差しをシアに送っている。それに、シアは言葉を切った。

 フェリクが腕を広げて、シアを抱きしめた。それに驚きながらも、振りほどくことは出来なかった。その腕の温かさは、シアの涙を吸い取った。

「……お前は、必要な人間なんだよ」

 呟くようにフェリクは言った。

「お前は、陛下にとって必要なんだ」

「……」

 以前、似たような言葉を聞かされた。それは、サキラスにであったか。私のために生きろ、とサキラスは言わなかったか。

「お前の目的も、生きる意味も、全てをご存知でいながら、それでも陛下はお前を必要としている」

「なぜ……?」

 サキラスには聞けなかった問いが漏れ出でた。

「なぜなんですか。なぜ、陛下は私を必要とされるんですか?」

「……お前が」

 フェリクは首を振った。

「お前さんが、お前さんでしかいられないように、陛下も陛下でしかいられない」

 眉を顰めるシアに、フェリクは疲れたような笑いを浮かべた。

「陛下が陛下であるために、お前さんが必要なんだよ」

「……」

「シア」

 いつもに似合わぬ固さを持ったフェリクの声が、尖った。

「……陛下を」

 夜も更けた帳の向こうからは冷たい風の音がした。この天幕の中に招き入れられてからどれほどの時間が経ったのか。すでに、夜は深く空気は冷たかった。

「陛下を、守ってやってくれ」

「フェリク様?」

 当惑してシアは言った。

「私が、陛下を……?」

 その言葉の、あまりの違和感にシアはただ眉根を寄せるばかりだった。

「どうして、そんなことが……」

 フェリクの表情は苦痛に満ちて、それ以上を尋ねることは憚られた。シアは、先ほど流した涙も忘れ、ただその言葉の意味に困惑する。やがてフェリクの天幕を出、夜半の風に吹かれながらも、ただひたすらに逡巡するのみだった。


第八章



 「失礼いたします」

 夜が明けたばかりの朝の光を背に、天幕の戸代わりの布を引く影があった。

「お目覚めでしょうか」

 そこには、すでに体を起こし、夜着から鎧下に着替えたサキラスの姿があった。

「お早いお目覚めで」

 サキラスは、朝食前の飲み物のグラスを差し出すシアに微笑んで見せた。

「……今日は、もうロスクリードとの国境を越える」

 寝台に腰を下ろし、天幕の布を一枚めくり上げ、表を見やりながらサキラスは微笑んだ。

「勝負は、今宵からだ」

「……お飲み物を」

 シアの差し出した盆の上に乗ったグラスを取って、その中の琥珀の液体に唇を付ける。サキラスは、シアを見た。

「随分、慣れたようだね」

「おかげさまを持ちまして。いまだ、気の利かぬ身ではありますが」

「とんでもない」

 声を上げてサキラスは笑った。そんな彼を、シアはじっと見つめる。

「ずいぶん役に立ってくれているよ。何しろ、遠征の行軍ともなれば女手はない。お前が行軍に参加していてくれて、ずいぶんと助かっているよ」

「……ならば、よろしいのですが」

 そんなわけがあるはずはない、とシアは密かにごちた。女手がないのは確かだが、サキラスの寝食の世話をする従者たちは、いずれもそのためだけに連れてこられた、手慣れた者たちばかりだ。シアの仕事といえば彼らの作る食事や飲み物をサキラスの元に運び、空いたそれを下げるだけだ。それ以外の細々とした用事など、シアでなくても充分に務めは果たせる。

 つまり、それはフェリクの言葉を裏付けるものだった。サキラスの側近く常におれば、あの魔道士たちのようにシアに嫌がらせを企むものも近寄ってはこられない。そうやって小姓としての務めを果たすことで、シアが女の身で軍に交じる意味への裏付けにもなる。

 口には出さなかった。しかし、シアはあれからサキラスが自分をそばに置くわけを考えている。ただ、彼の悪趣味な気まぐれのみではないことが、シアにはもう分かっていた。そこにある、もっと深い意味に思いを馳せる。

「失礼いたします」

 朝食を終え、鎧を含めた衣装を全てまとったサキラスは、朝の閣議のために腰を下ろす。天幕には、重臣たちが集まってくる。魔道士の鎧を付けたもの、騎士のマントをなびかせたもの。物々しい装いで、たちまち国王の天幕は埋められた。サキラスのそばに立つシアを見て、眉を顰めなかったものはいない。ただその中で、見知ったフェリクだけは眉を顰める変わりに目配せを送って来て、シアに下を向かせた。

「今日中に、ロスクリードとの国境に到着いたします」

 将軍の座をあずかる初老の騎士が言った。

「本日の朝会では、ロスクリードへの本格侵略の手順を再確認することにいたしたいと存じますが」

「そうすべきだろうな」

 嘲笑うようにサキラスが言った。居並ぶ重臣が全て腰掛け、自分の方を見ているのを確認し、サキラスは口を開く。

「ロスクリードへの最初の一歩は、夜襲だ」

 その言葉に、驚いたように重臣たちが目を見開いた。

「夜討ち、でございますか」

「我々の目的を何と心得る」

 嘲笑の形に唇を歪めたまま、サキラスは言った。

「侵略に、見目麗しいだけの作戦など必要ない。結果が求められているのだ。そのためには、出来るだけ早く、出来るだけ確実に効果の上がる方法をとらねばならない」

 目の前に広げられた地図に、サキラスの指が這った。

「今日の夕刻には、ここパイジャン地方に着く。魔道士の白部隊に円陣を張らせろ。目くらましの術が宵の口になるまでには広がっているように。日が落ちれば、騎士たちに国境にいちばん近いシャダの町を襲わせろ。街そのものを人質にとり、朝には王宮に早馬を走らせるのだ。我が国唯一の貿易港を移譲しろとの要求は飲めない。要求を撤回し、さもなければ、ロスクリードの一番の耕地を持つこの地方を支配する、と」

 重臣の中に広がった沈黙に、シアは驚いた。これだけ大掛かりな遠征を画策しておきながら、指揮にかかわる重鎮たちにも作戦を伝えていなかったなど、あり得ないのだ。

「しかし、陛下」

 焦燥しきった、魔道士の一人が言った。

「最初のお話では、まず王都にこの第二将軍たるサーディが出向き、陛下のご意向をお伝えし、その返事如何では国境に置いた軍を動かし、ロスクリードを攻めると、そう言うご計画では」

「そのような方法で、無駄に時間をとるつもりはない」

 サキラスは手厳しく言った。

「それに、返答とて分かり切ったものであろう。ロスクリードの王が、他国の申し出をすんなりと受け入れるような物分かりのいい真似をするとは思えんしな」

 物分かり、と重臣たちが忍び笑いを漏らした。

「それはそれ、ロスクリードの国王は、気性の激しい方とお聞きしておりますからな。我が国をあなどって申し入れた港の譲り渡しを断るなどという申し出には、その場で書簡を破り捨ててしまうくらいのことはやりかねんでしょう」

「その前に、武力で制圧する」

 サキラスは冷たい声で言った。

「シャダの町を見捨てて国の体面を守るか。一つの町のために要求を退けるか。どちらを取るかは国王陛下のお気持ち次第だが」

 地図の上に指を置き、拍子を取るように軽く叩きつけ、サキラスは笑った。

「いずれにせよ、港の譲り渡しなど、認めはしない」

 急な作戦の変化に戸惑っていた重臣たちは、サキラスの言葉に魅せられたように彼の言葉に唱和していく。

「機は、今宵。それぞれの配下にもしっかりと申し付けておけ。サーディ」

 名を呼ばれた騎士が、さっと顔をあげる。

「夜襲の陣頭指揮はそなたに任せる。具体的な隊の編制、そなたの腕にかかっているぞ」

「御意」

 使者の役割を取り上げられて、いささか不満げだった第二将軍は、その言葉に嬉しげに頭を垂れた。

「かしこまりてございます」

 細かな打ち合せに興じ始める重臣たちを眺めていたサキラスだったが、傍らに立つシアを振り返って、微笑んでみせた。あの、表情だった。冷徹な王の表情が、ほんの一瞬緩むとき見られる、優しげですらある顔。

「……」

 そのように見つめられて、目をそらすまい、と顎を引いたシアに、サキラスは新たな微笑を浮かべた。

 軍議の様子を、サキラスは一歩下がったところから見ていた。時折口を出すことはあっても、そのほとんどを己が任じた臣下に任せ、それを遠くから見守る、という位置を守っている。そんなおりのサキラスの瞳は穏やかで、先ほど、奇襲の策を口に出したときの彼の激しさとは一転して、まるで子供を見つめる母親のそれのようだった。

「ご退出だ」

 サキラスがそう言ったとき、そんな物思いにふけっていたシアははっと体を起こした。会議を終えたのであろう、重臣の面々が立ち上がり、天幕の出口へと向かっていた。シアは、慌てて駆け寄り、布を引き上げる。

「ご苦労様でございました」

 入って来たときのような好奇の視線は受けなかった。彼らの頭の中は、今から始まる戦闘のことで膨れ上がっているらしい。議論を戦わせながら、また沈み込むように考え深い顔をしながら出て行く彼らをシアは見送った。



 シャダの町への奇襲は成功した。大した犠牲は出さぬままに占領に成功した町から、ロスクリードの王とへと早馬が走る。リストフォルスに比べると格段の広さを誇るロスクリードの王とへ早馬がつくのに数日。返事を携えた急使が戻ってくるのにさらに数日。その間、国境近くの耕地を抱えたパイジャン地方を視察する機会を得たリストフォルスの者たちは、その広大な土地に広がる、自国では見ることもない光景に目を奪われた。

「……これだけの土地が」

 サキラスの呟きにも似た小さな声が聞こえたのは、小姓として傍らに侍るシアだけだった。

「これだけの土地を持ちながら、これだけ豊かな実りを貪りながら、それでもなお、欲しいものがあるのだな。それでもなお、一体何を欲するというのだろうか」

 涼しい風に吹かれ、それに髪をなびかせながら、サキラスは言った。

「この一部だけでもあれば、我が国が立ち行くのにずいぶんと助けになるのに。国土の違いゆえか……?それとも、他人のものだからこそ欲しくなるという、人間の本性ゆえか?」

「……」

 今のサキラスは、鎧を付けてはいなかった。やはり白い衣装に身を包み、鎧の代わりに体を守る革のマントが風になびいた。

「今回の戦に勝利し、この土地を得たとなれば、私もまた別のものを欲しがるのだろうか。もっと広い、もっと豊かな土地を?耕地の次は、牧草地を。ロスクリードの有名な、広大な果樹園を?その内には、隣国そのものを?」

 そんなときに漏らす、サキラスの乾いた笑いはそのままだった。どこか感情のこもっていないような、非人間的にすら聞こえる笑い。その紫の目も、長い銀髪も、彼を冷酷な王者に見せるには充分だった。ともすれば、その効果のほどを知って、サキラスはあえてそう言うふりをしているのかも知れない、と今のシアは思った。

「……欲というのは限りないな。もっとも、それがあるからこそ人間は発展していくものだが」

 サキラスが、シアを振り返った。

「剣は?」

「ここに」

 いきなりそう問われて、慌ててシアは腰の剣を指し示した。

「いくら、兵を動かすのにはまだ早いとは言っても、ロスクリードとて魔道士もおりますれば、お一人でこのような場所にお出かけになるのは危険かと存じますが」

「……いいんだよ。お前がいるからね」

 そして、一瞬ののちに姿を変える。先ほどの冷たい表情は、途端に柔らかい微笑を浮かべることが出来るのだ。その変化に、シアは戸惑うしか出来ない。

「今なら、私を討てるだろう?」

 サキラスは笑った。

「誰もいない。私を倒して、逃げることだって出来るよ」

「……そんな」

 視線のやり場に困り、シアは跪いたおのれの膝の辺りをじっと見つめた。

「その機会を狙っているのだろう?今回の遠征にだって、それを目的に参加したのではないのか?」

「……それは……」

 視線をあげずに、シアは言葉を濁した。そんなシアをしばらく見つめ、サキラスは軽い笑い声を立てた。

「困らせるつもりはないよ。聞かれずとも、分かっていることだろうしね」

「……」

 風が吹いて、シアは視線をあげる。サキラスはもうシアを見てはいなかった。再び前を向き、実りの草原を見つめている。

「しかし、私は、お前に感謝しているのだよ」

 それがシアの視線をサキラスに釘付けた。そんなシアを知ってか知らずか、サキラスは前を向いたままだ。

「私は、今まで父王の死で、急に私の手の中に落ちてきた国というものを守ることだけで汲々としてきた」

 サキラスの声が、風に乗って響いてくる。

「守るだけで精一杯だった。だから、隣国のあからさまな侮辱にも耐えるしかないのだと思って来た。……私には、おのれの体面よりも民の方が大切だからね。そして、その結果、お前の父にはあのようなことを強いてしまった」

「……」

「今回の遠征は、お前の態度がきっかけとなったのだ。このような少女でさえも、おのれの大義を胸に、命も惜しまずにまっすぐに駆けてくる。そんな光景を前に、国民の未来のために、大きな賭けに出る勇気を持たずして何とする、とね」

「……」

 自嘲するように笑ってから、サキラスは言った。

「……もう、戻ろう」

「御意」

 小さな声で、シアは返事をする。

「いいのか、お前は?」

「……え?」

 顔をあげると、背後から差す夕日に輪郭を茜に染めたサキラスが見えた。

「このような機会、もうないかも知れないよ?」

「……」

 剣を取ろうとは思わなかった。確かに、今は機会なのに。このまま、腰の剣を抜いて、思いを遂げて。それが、待ち望んでいた瞬間なのに。

「……お供つかまつります。皆、陛下のおいでを探していることでしょう。急ぎ、お戻りを」

「……ああ」

 サキラスは踵を交わし、同じことを二度は言わなかった。その時剣を抜かなかったことを後悔しているのか。シアは、何度も自問した。そして、返ってくる答えが同じであることに、驚くことしか出来なかった。



 ロスクリード王の元へ送った早馬は、戻っては来なかった。その代わりにもたらされた知らせ、それが答えだった。

「……使者は、斬られたと」

 ロスクリードの王都での出来事を知らせた報告に、サキラスが言った。

「港の明け渡しに応ぜず、さらにはパイジャン地方の占有をも宣言するとは、と、ずいぶんお怒りのようだな、国王陛下は」

 書簡を握りつぶし、サキラスは言い捨てた。

「このような顛末は分かり切っていたことだ。よい、それでは、予定通り王都への侵攻を開始する」

「御意」

 集まった幹部たちが、一斉に敬礼した。

「パイジャンを取り戻すために、ロスクリードの王都軍がやって来るだろう。それらを迎え撃つ前に、こちらが先に王都へ発つのだ。この地に傷をつけてはならん」

 リストフォルスの王都を出てから約一月。軍は、再び歩みを開始した。目指すは、王都、そして、ロスクリードの王都軍を降伏させ、国境線を北上させ、リストフォルスの領土を広げること。それが、今回の遠征の最たる目的だった。

 パイジャン地方の実りは、リストフォルス軍を潤していた。その余りある収穫こそがリストフォルスに進軍の決意を固めさせ、ロスクリードの王が無残も、と言うべきか、リストフォルスの使者を怒りに任せて斬ったことは、軍の志気をいやおうなしに高めていた。

 パイジャン地方から、さらに北へ。パイジャンでは実りの秋も終わりを告げようとしているこの時期ではあったが、行軍が進む先々にはまだ熟していない実を付けた穂で埋まった耕園が広がっていて、同じ時期にこれだけのさまざまな光景を見せるこの国土の広さに、感じ入る面々も少なくはなかった。

「……先王は」

 行軍の折り、四方山話の一つのように、サキラスは言った。

「おのれの地位を守るために汲々と自国の領土にしがみつき、それだけを守るのに懸命だった。外に目を向けるという野心も、魂胆も、あの方にはなかったらしい。そして、そんな中、病で早くに身罷った父王の後を継いで……」

 サキラスは馬上から、馬をひくシアを見下ろす。

「それが最善の道だと信じていた。与えられたものを守り、それ以上は求めずに、危険は冒さず、小さな領土の中に収まっているのがね。しかし、そうではないと知った以上。こうやって、外に出る道もあるのだと分かった以上」

 秋の風が、彼の髪をなびかせる。

「我が国は、今までとは違った歴史を歩むことになるだろう」

 戦場に来てから問い言うもの、サキラスは今までになく冗舌だった。それは、シアが小姓となって彼に常に従うようになったゆえ、彼の言葉を聞くことが多くなったからなのかも知れなかった。そして、ともすれば、サキラスはシアの心を見抜いていたからこそ、彼女におのれの手のうちを見せるようなことばかりを言い募ったのかも知れなかった。その腰に下げた剣を抜こうとはしなかったシアの心を。

 サキラスは、うつむいたまま顔をあげようとはしないシアに視線を注いでいるようだった。

「……シア・カエキル」

 その声が、シアを呼んだ。

「私は……」

「陛下!」

 軍の中ほどをいく国王の行軍の前を、一人の魔道士が遮った。

「どうした」

「ロスクリード軍でございます。表れました!」

「……ようやくか」

 サキラスは唇を緩めた。

「もうそろそろ表れなくてはおかしいというものだ」

「陛下、ご指示を!」

 それに頷いて、サキラスは声をあげる。

「将軍、頭領魔道師たちをこれへ!」

 集められた幹部に指示が飛ばされる。パイジャンでの滞在の間、何度も策を練り、模擬戦闘を繰り返して来たのだ。そして、今その成果のほどが試される。

「ロスクリード軍を討ち、降伏させるのだ。パイジャン地方を我らの手に!そして、大いなる土産物を手に、凱旋するのだ」

 ときの声が上がり、そして、戦いが始まった。



 「白騎士団と、青騎士団の下級騎士の軍を動かせ。緑の魔道師の軍をそれらに付けろ。結界を絶やすな、敵軍の魔道士の先手を取れ」

「ロスクリードの魔道軍は、我らのそれよりも格が落ちる。その分、騎士軍は数においても我らより勝る。とにかく、魔道戦に持ち込め。赤の魔道士の火炎魔法を優先しろ。それを盾に、騎士たちは剣で切り込むのだ」

「この先のシャイクに置いて、ロスクリードの魔道士軍が総攻撃に出ました」

「その軍は、特に軍人魔道士ばかりを固めているように見受けられます」

「こちらの騎士軍を叩き潰して、前線を破ろうという作戦のようです」

「第一師軍の大半がやられました。後衛たる第二師軍が前線に出ておりますが」

「敵軍の結界を解け。むやみに切りかかる前に、魔道士を前衛に出すのだ」

「敵の前衛を切り崩すことに、まずは集中しろ」

「長引く戦闘は不利だ。魔道士の精神集中が持たん!」

 さまざまな声が流れ込んできた。近衛兵に固められた王の本陣は、次々と報告を持ち込んでくる兵でごった返す。

「向こうは、こちらの軍に積極的に踏み込んでくる様子は見せません」

「最前線を、切り崩しても、すぐに退却し、後追いすれば逃げるような態度すら見せます」

「……膠着に持ち込むつもりか」

 波のように入ってくる報告の一つ一つに耳を傾け、サキラスは唸った。

「こちらが、魔道士に寄るところの大きい軍である弱点を、あからさまに突いてくるつもりだな」

「陛下」

 声がかかった。

「この際は、私に指揮のご命令を」

「フェリク」

 サキラスの前に跪いたのは、頭領魔道師たるフェリクだった。

「魔道士を使うのならば、やはり直接の指揮をとるのは魔道士がよかろうかと」

「しかし、お前に最前線に行かれては……」

「この私が、負けるとでもおっしゃいますか」

 宮廷で常の時にも見せ続けていた、フェリクの尊大さはここにあっても変わらなかった。胸の前に手を置いて、不敵な笑みを浮かべながらサキラスを見上げる。

「次、陛下にお目にかかるのは、パイジャンを完全に手に入れてからのことになるますれば」

「……分かった」

 サキラスは、右手を挙げた。

「そなたに任せる」

「御意」

 フェリクの姿が目の前から消えた。魔道を使って姿を消したのだとは分かっても、魔道士は普段、そう言う力を魔道士でないものには見せないことになっていることから、初めてそのような光景を目の当たりにしてシアはぎょっとした。

「驚かせたようだな」

 そんなシアを見て、サキラスが微笑む。王宮にあっては王の腹心という立場から、サキラスにまで気軽な口をたたいて見せるフェリクの、あのようなかしこまった姿も、シアを驚かせたのだった。

 もっとも、彼の真剣な眼差しを見たのはこれが初めてと言うわけではない。国境を越えるための遠征が始まったばかりの頃。彼の天幕に招き入れられ、サキラスを守れとシアに言ったときの彼も、やはり同じような目をしていた。そして、今の彼は、やはり同じ意図のためにその真摯な眼差しを輝かせるのだ。

「……」

「フェリクが立ってくれれば、ひとまずは安心というわけか」

 そう言って、サキラスが踵を返した刹那だった。

「ああっ!」

 悲鳴が聞こえた、と思うと、途端に辺りがざわつき始め、重なる怒声が耳を打った。

「陛下!」

 転がるようにしてやってきた騎士は、鎧の隙間を切り裂かれ、肩から血を流していた。

「なにごとだ!」

 陣内の空気が一瞬にして凍りつく。

「敵の……奇襲です」

「なんだと?」

 とっさに剣に手をやり、サキラスが叫んだ。

「奇襲だと?どこからだ」

「うわぁぁ!」

 騎士の返事より先に、剣が肉を斬る音と、悲痛な叫びが聞こえた。

「地の利を生かしたか」

「陛下、危険です!」

 近衛騎士たちが、中心陣営の天幕を囲む。

「お出にならないで下さい」

「あちらの低地からそっと近づいてきたようです」

「魔道士を使って、気づかれないように精鋭のみでやって来たと見受けられます」

「……フェリクが席を外すのを、待っていたか」

 きりりと、サキラスは歯を鳴らす。

「油断したな」

 今までは、フェリクがそばにいたので近づけなかったのだろう。あれほどの魔道士なら、たとえ魔道を使わずとも魔道士が近づけば分かっただろう。だからこそ、恐らくフェリクがいなくなるのを待っていたのだ。この場所を固める魔道士は数多くいるが、敵にとって一番厄介なのは、やはり頭領魔道士には違いないのだから。サキラスは、胸の前で印を結んだ。

「結界を強くしろ、無駄に血を流させるな」

 サキラスの声に、回りの魔道士たちが唱和するのが聞こえた。辺りを守る空気の膜が強くなったのをぼんやりと感じたが、それを破ろうとする力もまた働くのが感じられた。

「騎士は魔道士を守れ!」

 ここも、新たな戦場だった。情報を持ってくる使いの声が響くことがなければ、飛び交う火炎も打ち鳴らされる剣の音も聞こえないここでは、血まみれの激戦を目の当たりにすることはなかったのだ。シアは腰に差した剣の把に手をやり、いつでもそれが抜けるように身構えて息を詰めた。

「結界を破らせるな!」

 聞こえた声は、ラウレンのものだった。ここからは姿は見えない。しかし、その声に騎士たちが鼓舞されているのが感じ取れる。

「……シア」

 おのれも術を使うことを止めないまま、サキラスが言った。

「私がここで倒れても、決して後退するなと皆に伝えろ」

「陛下……!」

「今回の遠征の目的だけは果たすように。ヴィストゥスにも、サーディにも、フェリクにも伝えてくれ」

「……そのようなお言葉、承りかねます」

 シアは唇を噛んだ。

「そのようなお役目、お受けいたしませんから」

「なぜ?」

 ぴりぴりと伝わってくる緊張の中でも、サキラスは微笑んだ。

「それが出来るのは、お前しかいないのに」

「……」

 シアは振り返った。天幕に飛び込んできた白のローブの魔道士。シアの剣が宙に舞った。

「このようなところに、臆面もなく……!」

「リストフォルス王、お覚悟を!」

「させるか!」

 シアの剣が魔道士の頭に落ちた。しかし、その刹那姿は消え、シアの背後に回り込んでいる。

「ちぃっ!」

 舌打ちとともに振り返る。魔道士の手には短剣が握られて、それを払い落そうと剣をたたきつけた。

「うわぁっ!」

 魔道士の声と、血しぶきが上がった。短剣が転がり落ちる。それを踏み越えてシアが再び剣を振りかざすと、魔道士はそれを避けて床に転がった。先ほどのように消えて移動できないのは、印を結ぶ手を傷つけられたからのようだ。

「陛下っ!」

 魔道士の体を踏み越えて、シアはサキラスのもとへ急いだ。剣を構え、彼の前に立つ。

「……先ほどのお約束は、私には遂行出来かねます」

 呟いたシアの視線の先に、動く影があった。起き上がれないまま床に伏せる魔道士と同じ衣装を着た影だった。

 それに驚く間に、新たな魔道士はシアとサキラスの間に立った。そして、声も立てずただ素早く手にした短剣をサキラスに突きつける。

「陛下!」

 サキラスの剣が、それをはね飛ばす。力ではやはり劣る魔道士は、小さく舌打ちすると、手が空いたのを幸いと印を結んだ。

「通すか!」

 サキラスが体をひねる。シアは、剣をまっすぐに魔道士にに突き立てた。

「ああ……っ……!」

 標的を目の前に、シアのことを失念したのか。魔道士はあっさりとシアの剣に貫かれた。血が飛び散り、魔道士は、そのまま地面に倒れ伏せた。

「シアっ!」

 サキラスが、鋭い声を投げて寄越す。とっさにシアは振り返り、そして、そこに先ほど倒れたはずの魔道士がいるのを見た。

「あ……」

 剣は、足下に倒れたほうの魔道士の体に刺さったままだ。それを引き抜く間もなく、魔道士が襲ってくる。

「シアっ!」

 サキラスが印を結んだ。それが辺りを覆う一瞬前に、すでに魔道士は術を放っていた。シアの足は、自然にサキラスの前に立った。魔道士の方を向こうと体をひねった刹那、シアの体を鈍い痛みが体を襲った。

「……ぁ……」

 体の真ん中を貫く痛みだった。ゆっくりと、引き裂かれるようにそれは全身に回り、剣を引き抜こうと伸ばした指先がしびれ始める。足から力が抜け、立っていられない。がっくりと支えを失った体は、薄い布を引いただけの地面に倒れ落ちた。

「シア!」

 崩れ落ちる刹那、術を放った魔道士が倒れるのを見た。その体が命を失って、自分より先に地面に落ちるのを見た。サキラスの術が先に魔道士を倒したのだ。声が響いた。それが、サキラスのそれであったことだけははっきりと分かった。その声にいささかの震えも、弱々しさもないことが、シアを安堵させた。ともあれ、表の警備の隙を抜けてきた魔道士たちの奇襲からは、サキラスを守り抜いたのだ。

「シア、シアっ!」

 意識が遠のく。固い地面にたたきつけられ、その更なる痛みが、魔道士の術に貫かれた体をわずかばかり覚醒させた。たくさんの足音がする。油断した、ほんの短い間に二人の魔道士が侵入してきた天幕を固めるべく、近衛兵たちがやって来たに違いない。安堵にか、それとも余りに激しい痛みにか、やがてシアの耳には、その声さえも入らなくなっていた。まるで毒が回っていくかのように、痛み以外の感覚が全くなかった。


第九章



 体を嘖むのは、倦怠感と麻痺。指先までもが自分のものではなくなったかのようにぴくりとも動こうとはしない。瞼も開かない。まるで、その上に何かを乗せられてしまっているかのようだった。

 心を嘖むのは、別の痛みだった。なぜ、このように体が痛むのか。戦線での出来事を思いだした。本陣に奇襲を仕掛けてきた魔道士の集団に立ち向かい、天幕の中でサキラスに害をなそうと術を仕掛けてきた魔道士のそれをその身で受けたのだ。

 その時の衝撃は、鮮やかに思いだすことが出来る。体中の骨がばらばらになってしまったかのような。そのまま骨と肉が離れ、体が砕けていくような。その刹那、死んでしまったのかと思えるような打撃。

 痛むのが、体だけであるのならよかったのだ。体の痛みはじきに癒えるのだろう。生きてさえいれば。しかし、心の呵責は消えはしない。恐らく、生きてあるうちには消えることなく、胸を嘖むのだろう。

 なぜ、あの時身を投げ出したのか。あの時、そこには敵の魔道士を除いては、シアとサキラス以外、誰もいなかった。シアがサキラスを見殺しにしていても、誰にも気づかれることはなかったはずだ。そうでなくても、あの時、わずかに身を交わすだけで、サキラスは充分に致命傷を負ったはずなのだ。

 おのれの手にかけると誓った以上、自分以外のものの手にかかるのは本意ではない。自分が、この手に握った剣で刺し貫くことだけを夢見てきたのだ。そのためには、あのような斥候まがいの魔道士の手などに傷つけられることは許せなかった。いや、あそこで王が斃れれば、リストフォルス軍は総崩れになっただろう。その隙に乗じてロスクリード軍はリストフォルスに軍を進めてこないでもない。王に個人的な恨みはあっても、自分の故国でもある国を危険に晒すことは目的ではない。だから、この場ではひとまずサキラスの盾になることを選んだのだ。

 言い訳を重ねてみても、それらは結局言い訳でしかなかった。シアは、サキラスをかばったのだ。なぜ、そのようなことをしたのか。理由は一つしかなかった。いくら別の理由を自分に言い聞かせてみても、本当のところ、おのれの行動の根拠は一つしかなかったのだ。

 おのれの誇りのためではない。故国を思う気持ちからですらない。ましてや、近衛兵としての忠義心など、思い浮かべるだけで笑ってしまうような言い訳だった。

 サキラスを傷つけたくなかった。サキラスが目の前から消えていなくなってしまうことを、シアの脳裏は拒否した。彼を傷つけるくらいなら、死に至らせるくらいなら、おのれがその身代わりを引き受けたほうがよほどましだったのだ。

 あの刹那、シアを襲ったのはその感情でしかあり得なかった。死んで欲しくなかった。故に、魔道士の術の前に身を投げ出した。この体が痛みに貫かれても、後悔はなかった。サキラスに累が及ばなかったことを知って、心の底からの喜びを感じた。たとえ自分はこのまま死んだとしても、悔いは残らないと思ったのだ。

 今の自分は、どこにいるのだろうか。体を自由に動かせない。目が開かない。この暗闇は、ともすれば、黄泉への道なのかも知れなかった。このまま止まらずに、歩んでいけば父に会えるのかも知れなかった。

 そのことが、シアに躊躇いを覚えさせた。父に顔向けは出来まい。その復讐のみを誓ってこの一年を生きてきたのに、揚げ句の果ての顛末が、その仇を守っての死だとは。笑い話にもならなかった。このようなふがいない自分を、父は責めるだろう。あの時の勢いはどこに行ったのかと。

 サキラスを、傷つけたくなかった。無事に生きて、あの姿を守っていて欲しかった。恐らく、彼を傷つけたのが自分であっても、それを許すことは出来なかっただろう。それを守りたいと思うのは、騎士としての誇りか、それとも……。

 指先が、ぴくりと力を持った。瞼が開く。重いそれをこじ開けて、その先に見たものは、見慣れた騎士団寮の天井だった。

「……」

 薄暗いのは、もう遅い時間だからなのか。人の気配がする。しかし、首を曲げてそれを見たくても、縫い付けられたかのように動かない。唯一自由になる指先を必死に動かす。それだけはおのれの意志で動かせるようになったとき、気配を感じていた人影が振り向いた。

「……シア様!」

 それが駆け寄ってくる。開いた瞼の向こうには、少女の顔が見えた。

「……エンジュ?」

 懐かしい、侍女を思いだした。故郷に置いてきた幼なじみの侍女は、今はどうしていることか。彼女の顔は、そんな思いを抱かせた。

「シア様、私がおわかりになりますか?レオナです」

「……ああ」

 ため息とともに、シアは呟いた。シア付になっている、騎士団の侍女だった。

「レオナ……?」

「そうですわ、お加減はいかがですか?」

「……戦は?」

 困惑して、シアは尋ねた。

「どうして、私はここに?」

「戦は、終わりましたわ」

「……!」

 驚きに体を起こそうとして、寝台から起き上がれない体が悲鳴を上げる。

「いけません、まだお治りになっていないんですから」

「戦は、どうなったの……?」

 まだ掠れる声で、シアは聞いた。

「まさか……!」

 レオナの笑顔が、それに答えた。

「勝ちましたわ、我が国の軍が」

「……」

 安堵の吐息とともに、シアは寝台に体を沈ませた。

「国境近くの領土を我が国の領土にすることが出来たらしいですわ。なんでも、農地の広がる広い土地だとか」

 シアの目覚めに安心したのか、レオナは表情を緩ませている。

「もう、一月も前に帰還されましたのよ。シア様は、魔道士にお怪我を負わされになって。ここに運ばれてこられたときは驚きましたけれど……戦場で、陛下のお命をお助けになったのでしょう?シア様が治られ次第、受勲のお式があるとか」

「……そう」

 わずかに身じろぎして、シアは黙った。今の、この重い体ではこの程度が精一杯だった。

「……シア様が、陛下をお助けしたなんて、少し驚きましたけど」

 口ごもるように、レオナは言った。

「でも、嬉しいですわ。シア様のお働きが認められて。あの、シア様には申し訳ないんですけれど、こうあるほうが、シア様のおためにもなるような気がいたしますの」

「……」

 以前のシアなら、そう言われて、レオナを叱りつけたかも知れない。しかし、今のシアは、それを肯定はしなかったものの、然りとて否定も出来ずに、ただ黙っていた。それを、レオナは傷が痛むゆえだと理解したらしい。

「お怪我の方は、ほとんど治ってはおります。ただ、長い間お目覚めにならなかったので、お体がしびれてしまっているんだと思いますわ。医師の方も、そうなるだろうとおっしゃっていましたもの」

 レオナは慣れた手つきで布を絞り、シアの腕を拭き始めた。その仕草に、シアはレオナに視線を注いだ。

「ずっと、看病しててくれたんだね」

「え?」

 見つめられて、レオナは頬を染めた。

「いえ、その……そうですけれど」

 レオナは照れ隠しのようにシアの腕を乱暴に拭き、彼女に悲鳴を上げさせた。

「申し訳ありませんっ!」

 レオナの方が驚いて、慌てて手を引っ込めると勢いよく頭を下げた。

「……いいんだ。ありがとう。……長い間だったろうにね」

「いいえ、そんな」

 頭を下げたときと同じくらいの勢いで、レオナは首を横に振った。

「とんでもございません。私が、是非にとお願いしてやらせていただいていることですのに……」

 シアの体を拭う間、レオナは黙っていた。やがて、背を向けて布を新しい水で洗い、振り返ったときには、その目には涙が浮かんでいた。

「……レオナ……!」

 驚いて、シアが声を上げた。

「どうしたの?」

「……いえ……」

 指先で涙を拭い、レオナは言葉を詰まらせた。

「シア様は、ご存じないんですわ。私が、シア様がお気づきにならない間、どれだけ心配したか。このままずっと、お気がつかれなかったらどうしよう、って」

「レオナ……」

「そんなの、いやですわ。早くお元気になって、また立派なお姿を見せて下さいませ」

 シアは、首をレオナの方に向けた。

「……ねぇ、レオナ」

 その言葉に、レオナは顔を上げる。

「どうして、レオナは私によくしてくれるの?」

 レオナは、涙を拭く手を止めて、シアを見た。

「前から思ってたけど。私の存在は、ここでは決していいものではないと思うのに。レオナにとっても、自分の君主たる方を狙う者なんて、嫌いこそしても、どうしてこんなによくしてくれるのか、私にはすごく不思議だった」

「……シア様」

 レオナは、小さく声を絞りだした。

「……私は、シア様を嫌いになんてなれません」

 まるで、何か許されない告白でもするかのように、レオナは語り始めた。

「そりゃ、シア様は陛下のお命を狙う方で……他の侍女たちだって、あまりシア様には近寄らないようにしていますわ。それは、みんな、シア様に近いものとして、あらぬ疑いをかけられるのを恐れているんですわ。私に言わせれば、馬鹿馬鹿しいことでしかないんですけれど」

 レオナは言葉を切った。

「だって、シア様は一生懸命でいらっしゃるんですもの」

 シアの機嫌を損ねないようにか、言葉を選び、ゆっくり、噛みしめるようにレオナは言った。

「その目的が何であれ、シア様は、いつだって頑張っていらっしゃいましたわ。変な中傷をしてくる人たちにだって、いつもまっすぐ向かっていらっしゃいましたし、今でも充分お強くていらっしゃるのに、剣のお稽古だってかかさず、ぼろぼろになるまで毎日頑張っていらっしゃいました。最初、シア様付に任命されたときは、確かに迷いましたけれど……シア様は、いい方です。これは、お近くにいることを許された私だけが知っていることですわ」

「ありがとう」

 シアは微笑んだ。

「そう言うふうに言ってくれる人がいるのは嬉しいことだよ。確かに私は……ここまでしてもらう理由なんてないものなんだからね」

「シア様っ」

 レオナは憤慨した。

「そう言う風におっしゃるのはいけませんわ。シア様がそんな方でないことは、私が一番よく知っているのですから」

「……ありがとう」

 シアは微笑んだ。

「レオナは……私の乳兄弟に似ているよ。故郷で別れて以来、それっきりだったけど……」

「……まぁ」

 レオナに手を伸ばそうとして、まだ動かすことの出来ないそれに痛みが走り、シアは顔をしかめた。

「いけませんわ、まだ」

「……うん」

 シアは、目を閉じた。長い昏睡から目覚めたばかりの体は、そうすることによって更なる眠りに引き込まれた。うっすらと遠のいていく意識の中、レオナが、手を握ってくれていたような気がする。



 意識が戻ってから二週間。ようやく立ち上がり、まともな歩行が出来るようになったシアに、国王からの招集の命がかかったのだ。

「きっと、先延ばしになっていた叙勲ですわよ」

 うきうきした声で、レオナが言った。

「他の方々は、もうとうに、戦いが終わってすぐに受けられていたのですもの。シア様だけは、お怪我がひどくて今日になってしまいましたけれど」

 シアの支度を手伝いながら、レオナが弾む声を抑えられないと言った調子で続ける。

「きっと、ご出世なさいますわよ。何と言っても、陛下のお命を守られたのですから」

「……」

 その言葉に、何と反応していいのか分からない。着せかけられる衣装に黙って袖を通しながら、シアはうつむいた。

 招集されたのは、謁見の間だ。初めてサキラスに会ったのも、彼を仇と復讐を誓ったのもそこであったことを思いだす。それから、一年。あの遠征の間、どれだけ自分が変わってしまったのか。聞かされた真実が見せた本当の姿に、どれだけ戸惑ったのか。そして、今から自分が赴く場所で、何が行われるのか。白い、近衛兵の衣装の中で、シアはそっとため息をついた。

「レオナ」

 支度を終え、シアを見送るために扉近くに歩み寄ったレオナに、シアは声をかけた。

「いままで、ありがとう」

「……はぁ」

 いきなりの言葉に戸惑ったのか、レオナは間の抜けた声を出した。

「これからも、元気で。レオナのことは忘れないよ」

「シア様?」

 そして、急いで踵を返した。背後に、追いかけてこようとしたレオナの足音が聞こえる。それを振り切って、シアは建物を抜けた。きっと、レオナの顔を見るのはこれが最後なのだと思いながら。

 謁見の間は、騎士寮からは歩いてもそうはかからない。近衛騎士のための寮は王宮のすぐ近くにある。そうでなくてはその役目を果たせない、そして、近衛騎士の正装は、門衛に、何も言わなくても門を開けさせる。そうでなくても、シアの顔は宮殿中に知られたものではあったのだが。

 謁見の間の前に控える警衛に、おのれの到着を知らせる。警衛は、広間に入り、中に控える従者にそのことを伝える。入室が許され、シアは、空の玉座の置かれた段の下に跪いた。

 ややあって、衣擦れの音が聞こえてきた。シアは目を閉じて、さらに頭を深く垂れる。その数は、多くはなかった。一人、二人、三人。その後に続くのは、従者たちの靴が絨毯を踏む音。

「シア・カエキル」

 聞き違えるはずもない、サキラスの声が聞こえた。

「面を上げよ」

 ゆっくりを顔をあげたその前には、サキラスがいた。いつものように長い髪を一つに束ね、白の衣装をまとって、玉座に腰を下ろしていた。その顔からは、戦からの疲れも焦燥も見えないことに、シアはいささか安堵した。

 サキラスの隣のもう一つの玉座は、空いたままだった。彼の左隣には、フェリクが腕を組んで立っている。段を降りたその場所には、ラウレンが、やはり近衛兵の正装を身にまとってまっすぐに立っていた。

「……傷は、もういいのか」

「おかげさまを持ちまして」

 シアは、低い声で言った。

「もう、普通に歩いたりする程度には、問題ございません」

「それはなによりだ」

 サキラスは、深い息をついた。

「何しろ、一月も意識が戻らなかったのだからね。どれほど気をもんだか」

「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」

「いや」

 椅子に座り直して、サキラスは首を振った。

「快癒したなら何よりだ。魔道による外傷は、根が深いことが多い。特に、戦闘魔法を主として使う魔道士は、あえてそれを狙って仕掛けてくるからな。一歩間違えば、死にも至りかねないところだったのだよ。このように元気な姿を見られて、本当に安心している」

「……はい」

「陛下」

 フェリクが、声をかけた。

「シアは、回復したばかりですから、長い間この場に止め置くのもどうかと思われますが」

「そうだな」

 フェリクを見上げ、サキラスが微笑んだ。

「この度の戦、我らは勝利といてもいい成果を挙げた。ロスクリードの無体な申し出を下げさせ、あまつさえ、国境近く、パイジャン地方を我が国のものとすることで、領土を広げることが出来た」

「聞き及んでおります」

 シアは、胸の前に手を置いた。

「全ては、陛下のご尽力の結果かと」

「とんでもないことだ」

 サキラスは軽い笑い声をあげた。

「そなたのような、私のために命を投げ出してくれるものがいたからこそ、この勝利があったのだ。これからは、この国も変わる。全ては、今から始まるのだ」

「……御意」

 シアの心臓が高まる。その場に跪いているのも、サキラスの言葉に耳を傾けているのも苦痛でしかなかった。その場にいるのが、サキラスとフェリク、ラウレン、そして何人かの従者たちだけであることがシアを救った。そうでなければ、大勢のものの前で倒れるというぶざまな姿を晒していたかも知れない。

「戦闘の最中、本陣に乗り込んできた刺客たちの手から私を救ってくれたことには、深く感謝している。それのみならず、そなたは長い間癒えぬ深い傷を負ったこと、まこと、遺憾に感じている」

「……」

「私の意を表すには足りないものであることは承知しているが、せめてもの謝しを、受け取って欲しい」

 サキラスが手を上げると、赤い天鵞絨を貼った足のついた盆を従者が運んできた。そこには、金の宝飾を彫り込んだ短剣が置いてあった。それを取り上げ、サキラスは立ち上がる。

「シア・カエキル。そなたに、ナルドゥス圏治者の任を授ける」

 父が、その最後とともに奪われた地位だった。主を失った領地は、今では王家の直轄領となっていると聞く。

「故郷に帰り、父の跡を継ぐがいい。本来、そなたがあるべきだった場所に戻るがいい」

「……陛下」

 驚いて、シアはただじっとサキラスの顔を見つめた。

「ナルドゥス圏を主のないままにしておく理由はもうない。そのためのきっかけはお前が与えてくれたのだから。せめて、それをお前に返ささせてくれないか」

 フェリクも、ラウレンも、驚いた様子は見せなかった。そのことは、腹心たるフェリクと、シアの直接の上司たるラウレンの間で練られた結果の報償だったのだろう。シアは、唇を噛んだ。

「故郷に戻り、そなたの父の菩提を弔ってくれ」

「……」

 心臓が、限界までに高鳴った。それを押さえるために、シアは胸に置いた手に力を込める。

「……剣を」

 フェリクが、小さな声でシアを促した。シアは立ち上がり、サキラスの捧げる剣に手が届く、彼のちょうど真下までに歩みを進める。

「受け取ってくれるな」

「……」

 シアは、手を伸ばした。剣を取り、頭を下げ、そして、彼女はそのまま今まで自分が跪いていた場所にまで戻るはずだった。

 しかし、彼女はそうはしなかった。宝飾の施された剣の鞘を左手に持ち、その把に右の手をかけると、一気にそれを引き抜いたのだ。

「シア!」

 声が交差した。飾りのための剣とは言え、それはずっしりと重く、中に収められた刃も鋭く研がれていた。部屋に差し込む光を反射して、その切れ味のよさは見るからに明らかだった。

「シア」

 一つ、落ち着いた声はサキラスのものだった。そうなることを予感していた、とでも言うように、あくまでも冷静な態度を崩さなかった。シアに駆け寄ろうとする従者たちを、彼は手で制した。

「……今更、そんなことをおっしゃるのですか」

 鼓動が、彼女の声を上ずらせた。落ち着かない息を懸命にこらえながら、震える手で剣の切っ先を、必死に構えた。

「私が今まで、何のために生きてきたかをご存知でいながら、そのようなことをおっしゃるのですか?私に剣を与え、そして、国に帰れと仰せですか」

「お前は、私を守ってくれたではないか」

 サキラスは、あくまで落ち着いた声で言った。

「それこそが、お前の忠義の証しだと、お前の本心だと、信じているよ」

「……ひどい、お方です」

 シアは唇を噛んだ。

「どこまでも、私を追いつめられる」

 あの時、おのれを襲った衝動を、シアはやはり許せなかった。おのれのしたことでありながら、それはあまりにも認めがたいことだった。仇と狙うものを、身を呈してかばうなどと。そして、何よりもシアを激怒させたのは、そのことを、自分が後悔してはいないことだった。サキラスが無事でよかったと思ってしまう、おのれの心だった。

「……お恨み、申し上げます」

 剣が光った。それはまっすぐに空を切り、そして、シアの胸に突き刺さった。

「……!」

 しかし、赤い血が辺りを染める前に、それは止められた。サキラスが、シアの一歩前までに駆け寄り、印を結んだのが見えた。何か透明で厚いものがシアの胸の前に張られていて、それ以上は剣が突き通せない。

「……っ……」

 むやみに力を入れても、それは無駄だった。そして、サキラスの手がシアの手の剣をはたき落とす。

「何をするのかと思えば……」

「なぜ……」

 シアの体が崩れ落ちた。絨毯の上に転がった剣を、サキラスが拾い上げる。

「なぜ、そんなことをなさるのです。あなたが奪った幸せが、再びこの手に戻ってくるとでもお思いですか?いまさら国に戻ったとて、この私が領地のものに顔向けが出来るとお思いですか?そして、何よりも、父に……!」

 涙が流れ落ちた。それが頬を伝い、声を震えさせるのにも、シアは構っていられなかった。

「父に、何と申し開きをすればいいものか。命を賭した敵討ちに破れ、あまつさえその敵の手に寄って情けを受け、そして……」

 それ以上は、言葉にならなかった。シアは絨毯に顔を伏せて、肩を震わせて涙をこぼした。

「その上、おのれの命の自由さえも、許してはいただけないのですか……?」

「シア……」

 サキラスの、声が聞こえた。その手が背中に触れた。その暖かさに、身震いした。

「……ひどい……」

 震える声でそう言う以外、シアには何も出来なかった。

 大きな音を立てて、広間の扉が開いたのはその時だった。それを止める、幾つもの声が重なった。それを遮る高い声は、聞き違いようもなかった。衣擦れの音が忙しく床を這う。

「殿下!」

 入って来たものを制する声がした。シアが顔をあげる前に、サキラスが呟くようにその名を呼んだ。

「……ティルリア」

 シアが顔をあげると、そこにはティルリアの姿があった。春に花咲く柔らかな桃色の花と同じ色の衣装をまとい、長いその金褐色の髪は結われることもなく緩やかに波を描いて衣装の上に落ちていた。それは、豪華な飾りのように衣装を彩り、そんないささか乱れた姿でさえも、その美しさを邪魔しはしなかった。

 桃色と、褐色の彩りに包まれた彼女の姿の中で、その柔らかな色彩に似合わず鋭く光るものがあった。端正な顔にはめ込まれた、二つの栗色の目。それは怒りに燃えて見開かれており、彼女のその美しい容姿にはいささか不似合いなほどだった。

「……お兄様から離れて」

 ティルリアは、声を荒らげた。

「どういう魂胆なの?お前が、お兄様をおかばいするなんて?お前が、お兄様のお命を狙いこそすれ、お兄様のお身を案じるなどと……笑わせますわね。そんなつまらない演技をして、皆を油断させて、一体どういうつもりなんですの?」

「ティルリア、下がれ」

 いささか厳しいサキラスの声にも、ティルリアはひるまなかった。

「お兄様は、騙されておいでですわ」

 サキラスを見据えて、ティルリアはさらに声を大きくする。その取り乱し方は、シアを驚かせ、彼女はただ目を見開いてティルリアを見た。

「このような娘の口先に、騙されておいでなのですわ……ですから、あの時、わたくしは申し上げましたのに。このような不届き者、その場で適当な処罰をお与えになるが尋常、と。それでもお兄様はわたくしのお言葉などお聞き入れにならずに。このような茶番を演じて、この娘が何を企んでいるかお察しになれないわけがありませんでしょうに」

「ティルリア様」

 声が飛んだ。

「この者は、陛下のお身をかばったのみならず、自らの命を絶とうとしたのですよ。それをお止めになったのは陛下です。そこまでしたシアの気持ちがわからないあなたではないでしょうに」

「お黙りなさい、フェリク」

 ヒステリックに響くティルリアの声が、広がった。

「わたくしは、騙されませんわ。お兄様を謀ろうとしているものをかばうなんて、お前もやはりこの娘に翻弄されているんですわ」

「ティルリア」

「近寄らないでっ!」

 耳を塞ぐような仕草を見せて、ティルリアはその場に膝を突いた。桃色の衣装が、ふわりと美しい曲線を描く。

「わたくしは……どうしても許せませんの。この娘が表れてから、お兄様は変わってしまわれた。以前は、ご自分から戦に向かわれるなどということなど、そんなご自分を危険に晒すような方ではなかったのに……」

「姫」

 フェリクが、先程とは違う声でティルリアを呼んだ。

「そうではないでしょう。姫にこんなことをさせたのは、シアの存在そのものではないでしょう。どうぞ、姫の思う本当のところをおっしゃって下さい」

「……」

 唇を噛みしめたティルリアが、顔をあげた。その、青ざめた表情はいつものそれとは違う、鬼気迫った美しさを醸し出して、そのすさまじさに一瞬身を震わせながらも、やはりその美貌はシアの視線を惹き付けた。

「お恨み、申し上げますわ、お兄様」

 フェリクの言葉に応じるように、覚悟を決めた悲壮さを込めて、ティルリアが低く言った。

「わたくしがただ一人の方と、思い定めていたお兄様が、このような、大した身分も、美しさも、何もない小娘……あまつさえお兄様のお命を狙うなどという不届き者。そんな娘にお心を奪われておいでなどと。わたくしには分かりません。なぜですの?このわたくしよりも、この娘の方がいいと仰せですの?」

「……お前は、妹じゃないか」

 ため息とともに、サキラスはそう言った。

「妹として、長きにわたって共にいたお前に対する愛はあるよ。即位してからも、妃の代わりとして政務に従ってくれたお前にも感謝している。しかし、それ以上は……」

「わたくしは、代わり、などではなく、お兄様の妃そのものになれたら、と、それだけを願っておりましたのに」

「ティルリア」

 サキラスは、静かに言った。

「それだけは叶えられない、と言っただろう」

 唇を噛んで、ティルリアが息をついた。

「お前は、私の妹だ。その範を超えるつもりは、ない」

「お兄様……」

 ティルリアは、立ち上がった。その場にいたものは、皆それにはっと身構えた。武器一つ持たないか弱い姫君であるはずだったのに、その捨て身の殺気は、見るものを無意識のうちに警戒させるほどだったのだ。

「お恨み、申し上げます」

 きらり、と何かが光った。以前にも、同じような光景があった。兄に刃を向けた娘を許さない、とその華奢な細い手で短剣を握り、シアを刺そうとした。その時、その迫力に押されてよけることも出来なかったことを思いだす。

 そして、その時果たせなかった思いを今果たそうとするかのように、再び、ティルリアの懐から表れた短剣は、空を舞った。

「あの時、お兄様の手を振りきってでも、お前をこうすればよかった……!」

 シアは、それから逃げなかった。あの時ティルリアの剣をよけられなかったのは、彼女の気炎に押されてのことだった。しかし、今は違う。シアは、逃げなかった。それは、彼女の体がまだ充分に回復していないことも原因の一つではあったが、しかし、今は、シア自身に彼女から逃げる気がなかったのだ。

 シアは、目を固く閉じた。

「……!」

 肉を割く、嫌な音がした。短剣が、絨毯に吸い取られて鈍い音を立てた。ティルリアの悲鳴が聞こえる。

「殿下!」

 ラウレンの声が聞こえた。シアは、目を開ける。痛みはなかった。絨毯には赤い染みが飛び散って、血特有の、金属の匂いがする。目の前にはティルリアが、その背をラウレンに支えられて床に座り込んでいた。そして、シアをかばうように彼女の前に倒れ伏す姿。

「陛下?」

 サキラスが、胸を押さえてその場に跪いていた。その手は赤く汚れ、衣装も血に染まり見る間にそれが広がっていく。

「陛下……」

 シアの体には、傷一つついていない。サキラスの目は、ティルリアを見ている。傷の痛みに耐えているのか、息が荒く幾つも吐き出される。

「お前を、愛おしいと思うよ」

 ティルリアの手は震え、返り血を浴びた顔は信じられないものを見たとでも言うように固く強張っていた。

「ずっと幼いころから、私の側にいたのはお前だった。どんなことがあっても、お前だけは私の側にいてくれた。そのことは、感謝している。言葉だけでは足りないくらいに」

 サキラスの声は荒い。流れる血の量が、その傷の深さ、そして、ティルリアがどれだけの本気を込めてシアに突きかかってきたのかを物語っている。

「……だからと言って、これを、許せるものではないだろう……?」

「……お兄様」

 血のついた手で、顔を覆ったティルリアは、その美しい顔を、血に汚したのも気づかない様子のまま、ただ、サキラスを見つめていた。

「わたくしは、ただ……お兄様が変わっていかれるのに耐えられなかったんですわ……」

 ティルリアの手が震え、その顔には赤い跡がついた。口を開かないまま、彼女を抱きかかえたラウレンが、そのたもとから手巾を取り出し、それを拭う。

「ラウレン・チェチリア!」

 それに気づいたティルリアが、ヒステリックな叫びをあげた。

「お下がり、このわたくしに、触れるでない!」

 しかし、ラウレンの手は止まらず、ティルリアの顔を拭い、血に汚れた布を、今度は取り上げたティルリアの手に当てる。

「……姫には、そのようなお姿はお似合いではありません」

 その場には似合わないほど、落ち着いた様子でラウレンはティルリアの血を拭き清め、そして、彼女に手を差し出した。

「姫は、取り乱しておいでです。今は、この場にいらっしゃるべきではありません」

「離して!」

 ラウレンの手を振り払い、ティルリアは言った。

「お前の手を借りようとは思わない。わたくしを離して」

「……いいえ」

 ラウレンは、それ以上は何も言わなかった。ティルリアを、まるで体重などないかのように抱き上げて、踵を返した。

「……ラウレン」

 サキラスの、声がした。掠れたそれを振り返り、ラウレンは、薄く微笑んだ。しかし、それ以上の言葉はなく、それから逃れようとするティルリアを抱きかかえ、彼らの姿は呆然と見送る従者たちを尻目に、広間の向こうに消えていった。

「……そうか、ラウレン・チェチリアか……」

 サキラスが、囁くようにそう言った。

「ティルリアが、あそこまで思い詰めていたと言うことに気がつかなかった、私も愚かだったな……」

「陛下!」

 押さえた胸から血が止まらない。サキラスの体が、前に倒れるように揺れた。それを、慌ててシアが支える。

「陛下、治癒魔法を」

 フェリクが印を結ぼうとするのを、サキラスは手を上げて制した。

「……治癒呪文は、好きじゃない……」

「陛下、そのようなことを言っている場合では……」

 シアを振り返って、サキラスが微笑んだ。

「今度は、私がお前をかばう番だったな」

 そんな、青ざめた顔など、見たくはなかった。

「これが、少しでも、お前への罪滅ぼしとなっていればいいのだが……」

「陛下!」

 二人の声が交錯した。サキラスは目を閉じて、そして、最後に続いた声も、薄く開いた唇の向こうに消えていった。

「……陛下!」

 いつから、今、腕の中にある、父の仇であるはずのこの存在を、失いたくないと思うようになってしまったのか。それは、戦場でのあの日、敵の斥候からサキラスをかばったあの瞬間に生まれたものではなかったはずだ。それは、もっと以前から。

 続く考えから、シアは頭を振って逃れようとした。どうしてもまとわりついてくる、逃げることの出来ない、ただ一つの思いから。それが無駄だと知っていながら。

「陛下、目をお開け下さい」

 フェリクが、手をかざしてきた。致命傷ではないはずだ。それに、この頭領魔道師の腕に任せていれば、憂えることなどない。それは分かっていても、なおも、シアはサキラスを支える腕をほどくことは出来なかった。

「……お許し下さい……お父様……」

 シアの声が、薄く響いて、消えた。


第十章


 涼しい風が、心地よかった。降り注ぐ太陽は、まだ肌を焼くほどには強くない。花は咲き乱れ、とりどりの色で庭園を所狭しと埋め尽くす。光を浴びて、穏やかな風に首を揺らすその姿は、そこに歩く二人の姿を見送っているようだった。

「お怪我は、いかがですか」

 話の接ぎ穂を探すかのように、長い濃紺の髪を風になびかせた少女が言った。

「このくらい、何ともないよ」

 薄く笑い、それに答えを交わすのは、太陽の光に眩しく反射する銀髪を背に流し、肩にかける薄いローブを片手で押さえながら、彼女の一歩前を歩く青年。

「皆が、大袈裟なのだよ。ローブ越しに、剣を受けただけではないか。それも、女の力でだ」

「でも、あのようにたくさん血を流されましたものを」

「衣装が白いのが、そう見せただけだ。全く、フェリクも、医師たちも、人を重病人のように扱って」

「皆さま、陛下のお身が心配なのです」

 シアは、小さく笑った。

「……ティルリア様は、いかがなされておいでなのでしょうか」

 一際目を引く、赤い花に視線を落としているサキラスに、シアは問い掛ける。

「私がお見舞いに伺っても、一度としてお目にかかることは叶いませんでしたから」

「それは、そうだろうね」

 今度は、サキラスが笑う番だった。

「あれは、情の強い娘だ。おまけに自分の意志を曲げるのが大嫌いと来ている。あのような失態を見られて、あれがお前とまともに言葉を交わすようになるには、ずいぶんと時間がかかるだろうが」

「……ラウレン様は?」

 シアは尋ねた。あれ以来、人と会うのを拒んでいるティルリアも、ラウレンだけには面会を許しているということを、フェリクから聞いた。

「あれは、私とて意外ではあったが」

 肩をすくめてサキラスは言った。

「ラウレン、か……」

「……ラウレン様は、先王とお二人の母君を争ったことがあると聞いておりますが」

「ああ」

 言いにくいことを、それでも確かめずにはいられないと言ったシアの声に、サキラスは何でもないことのように反応した。

「そう言う話も、聞くには聞いているが」

「……偽りなのですか?」

「そんなことはなかろうよ」

 サキラスは、軽い笑い声を立てた。

「父上や母上から直接聞いたわけではないが。噂には、聞き及んでいる」

「……ラウレン様は、ティルリア殿下を愛しておいでなのですか?」

 シアの話を上手く交わすようなサキラスの言葉に業を煮やし、まっすぐな言葉でシアはそう尋ねた。

「それを、いいことだと陛下はお考えなのですか?」

「そう息巻くな」

 しかし、サキラスは笑ってそう言っただけだった。なるほど、田舎の領地でその地特有のまっすぐな気性を持ったものばかりの間に過ごしてきたシアには、宮廷の権謀術数に生まれながらに慣れてきたサキラスの話し方は、まどろっこしいばかりだった。

「私なら……母に懸想したものが娘にも、などというのは考えられません」

「そう言ってやるな」

 あくまでも、サキラスは落ち着いたままだ。

「そうとは言っても、その当時ラウレンは、まだ少年だったのだ。年上の女に対する憧れが乗じたのだと捕らえても無理はない。それに、あれは私さえ、まだ生まれる前の話なのだから。そんな昔の話を蒸し返してどうこう、と言う気にはなれないよ」

 笑いさえ含んで、サキラスはそう言うのだ。シアは唇をとがらせた。

「ティルリアさえいいのなら、私は、何も言わないよ」

「陛下……」

「ところで、私にはもっと重大なことを決めなくてはならないのだけれどね」

 サキラスが、シアの方を振り返った。そのなびく、輝く色の髪に視界を奪われて、シアははっと目を見開いた。

「……今まで、娶らずに、妃代行という形で左の玉座を埋めてきた私だが」

 薄く笑って、サキラスがシアを見た。

「この先、いつまでもそのままではいられまい?そこに、正式に座ってもらう女性が必要なのだが」

「……陛下は、なぜ今までお娶りにならなかったのです?」

 サキラスの口調に、慌てたようにシアが尋ねた。

「……連れ添うべき、理想の女性がいなかったから、とでも言うべきかな」

 にやり、とサキラスは意地の悪い笑みを浮かべた。

「必ずしも即位の折り、王妃がいる必要はないという今までの慣習に甘えてきたが。この先ずっとそうであるわけにも行くまい。大臣たちの声も、そろそろうるさくなってきている」

 サキラスの紫色をした瞳が、シアをじっと見つめた。それに首をすくめて、シアは一歩後ろに下がる。

「……理想の女性が、見つかられましたか」

「ああ」

 余裕に満ちた、サキラスの表情だった。シアはそれを見上げ、唇を噛んだ。

「……どこの、姫君でしょう。陛下のお目に叶う女性とは」

「そうだね」

 シアを追いつめるように、サキラスは一歩、また一歩先に進んだ。

「女の身で、剣を扱い、馬に乗り、戦場に出ていくのにも躊躇いを見せない、勇敢な女だ」

 彼を押しとどめるように手を差し出すと、それをしっかりと握られた。

「しかし、ダンスのステップの一つも、ドレスの裾の優雅なさばき方一つも知らないがね」

 その先には水をたたえた小さな泉があって、シアの足がその縁ぎりぎりに立つまで、サキラスは容赦しなかった。

「きゃっ!」

 シアは、悲鳴を上げて泉に落ちかかった。それを、サキラスの腕が支える。背後から太陽の光を浴びて、サキラスの顔は逆光に見えなくなった。

「……そんな女は、とても王妃の座をいただくに相応しいとは思えません」

 声が震えるのは、落ちそうになった驚きからか、サキラスに抱きしめられる衝撃からか。

「とんでもない」

 サキラスは笑った。

「ダンスだの、礼儀作法だのは習えばいい。その気になれば、何ヶ月もかからずに覚えられることだ。しかし、剣を持つ勇敢さ、身を呈して主君を守る胆力は、習い覚えて身に付けるものではあるまい?」

「……それが、一度はその主君に剣を向けたものでも?」

「そのようなことは、よくあることだ」

 シアの声とは裏腹に、サキラスの言葉は快活で、楽しそうに響いた。

「人の気持ちは変わるよ。私が、お前に変えられたようにね」

「……」

 サキラスは、ますます楽しそうだった。

「人が、いいようには言いませんでしょう」

 シアは、せめてもの抗いといったように言った。

「一度は、その命を狙ったものを妃に、など」

「人が何と言おうと構ったことではない」

 恐らく、シアの受け答えは全て予測されているのだ。流れ出るように流暢に、サキラスは言葉を綴った。

「それに、そう言った人の声を変えるのも、これからの態度次第だ。それを変えていけないほど、お前は自分に自信がないのかい?」

「そんなことは……!」

 言って、シアは慌てて口を押さえた。

「それか、最初に私が決めた通り、もとの領地に帰るか」

「……」

 サキラスの、シアを抱きしめる腕が強くなった。

「……陛下は、ずるくていらっしゃいます」

「ずるい?」

 小さな笑い声が、耳に届く。春の風が、それをあたりにまき散らした。

「ずるいのは、お前だろう?そうやって、私をはぐらかす」

「陛下……」

「陛下、ではないだろう」

 言葉を綴る、サキラスの唇がシアのそれに近づいてきた。それでも、それから逃げようとでもするように、シアは体を反らせ、そして、それを抱きしめるサキラスの腕に力を入れさせた。

「……っ……」

 間近に迫ったサキラスの、白磁の顔に埋め込まれた二つの瞳が、笑いを帯びている。それに視線を絡められ、正視できなくて瞳をそらせると、唇が彼女を追ってきた。

「……私を、何と?」

「……サキラス……」

 庭を染める華やかな色彩は、そろってなびく風に煽られて、同じ方向に首をもたげた。その先にある二つの人影を見守るのは、それらの花々だけだった。


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