第2話 名もなき少女
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家に帰ってからも、愛翔の頭の中は、あの少女のことでいっぱいだった。
「秘密」
そう言って笑った顔と、風に舞った黒髪の一瞬の輝き。あれはきっと日差しのいたずらだろう。そう自分に言い聞かせても、何度も同じ場面を思い返してしまう自分に、愛翔は少し戸惑っていた。
都会の学校では、女子と二人きりで話すことすら滅多になかった。それなのに、あの少女とは初対面から不思議と会話が途切れなかった。
名前も知らない相手なのに、まるでずっと前から知っているような、そんな錯覚さえ覚えた。
夕食の席で、祖母が味噌汁をよそいながら何気なく聞いてきた。
「今日はどうじゃった。目的の虫、見つかったか」
「いや、まだ。でも……川で、女の子に会ったよ。白いワンピースに、麦わら帽子の」
「ほう、そりゃよかったな。この辺の子かねぇ。まあ、夏じゃし、色んな子が遊びに来とるじゃろ」
祖母はそう言って、当たり前のように味噌汁をよそい続けた。祖父も特に気にする様子もなく、「話し相手がおるのはええことじゃ」と笑って茶碗を傾けている。
愛翔もそれ以上は気に留めず、話題は自然と明日の天気のことへ移っていった。
食事を終えて部屋に戻ってからも、愛翔はしばらく縁側に座って、暮れていく山の稜線を眺めていた。
虫の声が、あちこちから重なり合うように響いてくる。都会では聞いたことのない、分厚い音の層だった。
この山には、まだ自分の知らないものがたくさんある。そう思うと、不思議と胸が高鳴った。
翌日は、朝から曇り空だった。それでも愛翔は虫網を担いで山へ向かった。
目的はもちろん、あの幼虫——そして、心のどこかでは、あの少女に再び会えないかという期待もあった。
道すがら、愛翔は昨日見つけられなかった斜面をもう一度歩いてみることにした。
落ち葉をかき分け、朽木を割ってみると、中からクワガタの幼虫が数匹転がり出てきた。だが、記憶の中のあの幼虫とはまるで違う。
近くのクヌギの幹では、樹液の匂いに誘われたカナブンが何匹も忙しなく行き来していたが、それでも、目当ての幼虫はやはり見当たらなかった。
半時間ほど歩き回って、汗ばんできた頃、川沿いの道に出た。木々の隙間から漏れる曇り空の光が、川面を鈍く照らしている。すると、昨日と同じ岩の上に、白い影が見えた。
「あ」
思わず声が出た。少女はこちらに気づくと、小さく手を振った。
「また会えたね」
「うん……。今日は何してるの?」
「花、探してた。クローバーみたいな葉っぱの花が、この辺に咲くの。知ってる?」
愛翔は少し考えてから首をひねった。
実物を見ればわかるかもしれないが、特徴を聞いただけでは花の名前は思い浮かばなかった。
まったく知らないというほどでもないが、昆虫ほど植物に明るいわけじゃない。
そう言うと、少女はくすりと笑って、川沿いの草むらへと歩き出した。
「じゃあ、教えてあげる。こっちおいで」
二人は並んで歩いた。少女は思いのほか、この山のことに詳しかった。どの沢にどんな花が咲くか、どの木にどんな鳥が巣を作るか——。
まるで、この山そのものを知り尽くしているかのようだった。
「詳しいね、本当に」
「この山のことだけだけどね。小さい頃から、ずっとここにいるから」
その言い方が、どこか含みを持っているように聞こえたが、愛翔はあえて深く聞かなかった。
せっかくの空気を壊したくなかったのもあるし、なにより少女と一緒にいる時間が単純に心地よかった。
歩いている途中、少し先の草むらに紫色の小さな花が群れて咲いているのが見えた。その周りを、一匹の揚羽蝶がひらひらと舞っている。
「あ、蝶々」
「アゲハ蝶だ。花の蜜を吸いに来たんだと思う」
「花が好きなんだね、私と同じだ」
蝶の動きを目で追いながら、愛翔はふと、あの日見た幼虫のことを思い返していた。
体長十センチほどで、透き通るような乳白色の体。あれだけ特徴的な幼虫であれば、成虫になったときの姿もそれなりに目立つはずだ。
だが、これまで観察してきた図鑑にも、実際にこの山で見てきた虫たちの中にも、それらしき成虫の姿は一切なかった。
だとすれば——と、愛翔は頭の中で仮説を組み立てる。
あの幼虫は、カマキリやセミのように、脱皮を重ねて成虫に近づいていく不完全変態ではなく、蛹の時期を経て、姿かたちをまったく別のものへと変える「完全変態」のタイプなのではないだろうか。
今、目の前を舞っているアゲハ蝶がそうであるように、幼虫と成虫の姿が似ても似つかないのだとしたら——。
そうなると、成虫になったときの姿を先入観なしに探した方がいいのかもしれない。
考えながら、愛翔は思わず口元が緩んだ。誰も知らない虫の正体を、自分の推理だけで少しずつ解き明かしていく感覚は、何度味わっても飽きなかった。
「虫のこと、本当に好きなんだね」
「うん、昔からね。生き物は大体好きだけど、虫は特に好きなんだ。それに、知らないことを自分の目で確かめるのも楽しいよ」
「じゃあ、私のことも……そのうち、確かめてみる?」
不意にそう言われて、愛翔は思わず少女の顔を見た。少女はいたずらっぽく笑っただけで、それ以上の説明はしなかった。何かの冗談だろうか。それとも——。
深く考える間もなく、少女は話題を変えるように立ち上がった。
「それより、探してた花見つけたよ。こっち」
案内されるまま林道を進むと、やがて木々が途切れ、開けた場所に出た。
いつの間にか雲が切れ、日差しがまっすぐに差し込んでいる。
木漏れ日ばかりだったそれまでの道と違い、そこだけぽっかりと空が見えている。足元には、クローバーによく似た三つ葉が一面に広がり、その間から小さな花が顔を出していた。
促されて足元を見ると、小さな白い花が群れて咲いていた。少女はしゃがみ込んで、その一輪にそっと触れる。
「綺麗でしょう? この花、夜になると閉じるの。まるで眠るみたいに」
「へえ……本当に詳しいね」
「好きなの。花も、虫も。この山にあるものが全部」
そう言われて、愛翔は改めて花の形をまじまじと観察した。
ハート形の三つ葉に、漏斗のような形の白い花びらが五枚。
どこかで見たような気がして記憶をたぐると、図鑑で見た外来種の植物の写真と特徴が重なった。
「これ、オキザリスだ。たしか南アメリカ原産の外来種だよ」
「……そうなんだ」
少女の声のトーンが、少しだけ低くなった気がした。
「気になる? 外から来た花だと」
「いや、そういうわけじゃ……ただ、元々ここにあった花を、押しのけちゃうこともあるっていうから。この花が悪いわけじゃないんだけどさ」
「押しのけちゃう……か」
少女はそうつぶやいて、花びらをそっと指でなぞった。
その横顔に、ほんの一瞬、少しだけ寂しさが混じったように見えたが、それもいつもの柔らかな微笑みですぐにかき消された。
「でも、綺麗なものは綺麗だよ。どこから来たとしても」
そう言って少女は立ち上がり、愛翔の方を見上げた。
麦わら帽子のつばの下から覗く瞳が、雲間から差す日を受けて、どこか光をたたえているように見えた。
しばらくの間、二人は言葉もなく、白い花のそばに並びしゃがみ込んでいた。川のせせらぎと、遠くで鳴く鳥の声だけが、静かに時間を埋めていく。
こうして誰かと、ただ黙って同じ景色を眺めているだけの時間が、こんなにも心地いいものだとは知らなかった。愛翔はふと、そんなことを思った。
「ねえ、明日も来る?」
「うん。まだ、あの虫を見つけていないから」
「そう。……じゃあ、待ってる」
少女はそう言って立ち上がると、帽子を軽く押さえながら、また川の方へと歩いていった。愛翔はその後ろ姿を見送りながら、ふと気づいた。
名前を、まだ聞けていない。
だが、なぜだろう。今すぐに知らなくてもいい、という気がした。
焦らなくても、また明日会える。そう思える自分に、愛翔は少しだけ驚いていた。
東京にいたときは、誰かと関わることにいつも少し臆病だった。クラスメイトとの会話も、当たり障りのない範囲でしか続かない。
それなのに、出会って二日目の少女とは、不思議なくらい自然に言葉を交わせている。
家路につく道すがら、愛翔の頭には、あの白い花のことがまだ引っかかっていた。
元々ここにあった花を押しのけてしまうかもしれない花。少女はそのことを話すとき、どこか他人事とは思えない表情をしていた気がする。気のせいだろうか。
——そして、この山に古くから伝わる、人喰い虫の言い伝え。
まさか、繋がりがあるわけじゃないだろう。愛翔は頭を振って、その考えを追い払った。だが、その夜、なかなか寝つけなかったのは、きっと考えすぎのせいだけではなかった。
布団の中で天井を見上げながら、愛翔は少女の言葉を何度も思い返していた。
「私のことも……そのうち、確かめてみる?」
あれはただの軽口だったのだろうか。それとも、何か別の意味が込められていたのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、愛翔はいつしか眠りに落ちていった。




