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第1話 幼虫と、山の伝承

本作品は生成AIのClaudeを使用して制作しています


「——この山には、人喰い虫がいる」


 ウェーダーを膝まで水に浸けたまま、愛翔(まなと)は網を川底に向けて構えた。石をひとつ、そっと持ち上げる。舞い上がった泥の向こうから、細長い影がいくつも網の中へ逃げ込んでいくのが見えた。


「よし……」


 網を引き上げ、バットの上でそっと水を切る。カワゲラの幼虫、トビケラの幼虫。石の隙間に張りついていたヒラタカゲロウらしき個体も一匹。持参したフィールドノートに、種類と個体数を書き込んでいく。

 水生昆虫の顔ぶれを見れば、その川がどれくらい綺麗かがわかる。都会の学校ではまず教わらない感覚だったが、愛翔にとっては呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。


 流れの緩やかな淵では、水面すれすれをアメンボが滑るように行き交い、少し下流の岩陰にはヤゴが張りついているのが見えた。

 あと数週間もすれば、この川からたくさんのトンボが羽化していくのだろう。

 羽化——その言葉が頭に浮かんだ瞬間、愛翔はふと手を止めた。


 作業をしながら、頭の片隅には、幼い頃に祖母から聞かされたあの話がずっと引っかかっていた。


「悪い子は、山へ入ったら人喰い虫に食われてしまうんじゃと。だから一人で山に入っちゃいかんよ」


 祖母は決まって、そう言って愛翔の頭を撫でた。だが当時五歳だった愛翔は、その手を振り払うようにして、こっそり山へ入っていった。禁じられれば禁じられるほど、行ってみたくなる。子供とはそういうものだ。


 生い茂る草をかき分け、木の根につまずきながら歩いた先――祖父母の家からそう遠くない斜面で、愛翔は見たこともない幼虫を見つけた。


 体長十センチはあっただろうか。透き通るような乳白色の体に、まるで宝石のように光る斑点が並んでいた。人喰い虫はどこにもいなかった。ただ、その不思議な幼虫だけが、愛翔の記憶に焼きついた。


 あれから十一年。


 高校二年生になった愛翔は、あの日の記憶を頼りに、夏休みを丸々使って祖父母の家に泊まり込むことにした。


「まだ覚えとったんか、あの話」


 到着した日の夜、縁側で麦茶を飲みながら、祖父は懐かしそうに笑った。


「人喰い虫の話? もちろん」


「今どき信じとる子供もおらんじゃろうけどな。この村じゃ、昔からある言い伝えじゃ」


「本当にいるの、そんな虫」


「さぁて、どうじゃろな」


 祖父はそう言ったきり、遠い山の稜線に目をやった。

 その横顔に、からかっているにしては、どこか含みのある色が滲んでいる気がして、愛翔は少し落ち着かない気分になった。まさか、そんなわけがない。あれはただの昔話だ。子供を山に近づかせないための、方便に決まっている。


 そう自分に言い聞かせながらも、あの日見た幼虫のことが、また頭をよぎった。


 思えば、祖母は決して「人喰い虫なんて本当はいない」とは言わなかった。祖父も同じだ。二人とも、はっきりと否定はしない。ただ「昔からの言い伝えじゃ」と笑ってごまかすだけだった。子供の頃はそれを気にも留めなかったが、こうして大人に近づいた今、その微妙な言い回しがどうしても引っかかった。


 まさか、そんなわけがない。愛翔は自分にそう言い聞かせて、荷物を担ぎ直した。


 翌朝、愛翔は五時前に目を覚ました。障子の隙間から差し込む光がまだ薄青い。台所からは、祖母が味噌汁を作る匂いと、包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえてくる。


「早いのう。もっと寝とりゃええのに」


 祖母は笑いながら、炊きたての飯と焼き魚を並べてくれた。都会の朝食とは比べ物にならない品数で、愛翔は苦笑しながらも箸を進めた。食べ終える頃には、外はすっかり明るくなっていた。


 虫網と観察ケースを肩から下げて、愛翔は山へ入った。


 田舎の朝は早い。まだ夜露が残る草むらをかき分けながら、愛翔は目を凝らして地面や木の幹を観察して回った。朽木をひっくり返せばクワガタの幼虫が転がり出て、桑の葉の裏にはカミキリムシが張りついている。エノキの根元では、羽化したばかりらしいセミが翅を乾かしていた。まだ体は白っぽく、殻から出たばかりの柔らかさを残している。少し離れた場所からしばらく観察していると、やがて翅がゆっくりと茶色く色づいていくのがわかった。


 こうして命が形を変えていく瞬間に立ち会えるのが、愛翔にとって何よりの楽しみだった。都会のコンクリートの隙間では絶対出会えない虫たちに、愛翔の心は自然と浮き立った。


 けれど、あの幼虫だけは、どれだけ斜面を歩き回っても見つからなかった。


 二日目も、山を歩き回った。今度は範囲を広げ、記憶の中の斜面から少し外れた雑木林にも足を延ばしてみたが、それらしき姿はどこにもない。夕方、汗だくで家に帰ると、祖父が「今日はどうじゃった」と声をかけてくれた。愛翔が首を横に振ると、祖父はどこか楽しげに「まあ、そう簡単には見つからんじゃろ」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。


 三日目になると、愛翔は少し場所を変えて、山の麓を流れる川に狙いを定めた。あの幼虫を見つけた斜面のすぐ下を流れる川だ。もしかしたら、幼虫時代を水辺で過ごすタイプの昆虫なのかもしれない――そんな仮説を頭の中で組み立てながら、長靴を履いて川に入った。


 冒頭の水生昆虫調査は、その延長線上にあった。網を振るいながら、愛翔はふと考える。もし本当に、あの人喰い虫の伝承に何か元になった生き物がいるとしたら――自分が幼い頃に見た、あの幼虫のことではないだろうか。


 馬鹿げた考えだ、と自分でも思う。だが、この村に来てからというもの、頭の隅からその可能性が離れなかった。


「そこ、危ないよ」


 不意に声をかけられて、愛翔は振り返った。


 川岸の岩の上に、白いワンピースに麦わら帽子をかぶった少女が立っていた。長い黒髪が風になびいて、麦わら帽子のつばがふわりと揺れる。


「危ない?」


「うん。その岩、苔で滑るから」


 言われて足元を見ると、たしかに愛翔が踏みしめていた岩肌は青々とした苔に覆われていた。危うく足を滑らせるところだった。


「ありがとう。助かったよ」


「どういたしまして」


 少女は帽子のつばを少し持ち上げて、こちらを見た。人懐っこい笑みだったが、その奥に、どこか掴みどころのない気配があるように愛翔は感じた。うまく言葉にできない、初めて会うはずなのに、どこかで見たことがあるような――そんな不思議な感覚。


「魚でも獲りに来たの?」


 少女は愛翔の手にある観察ケースや、腰にぶら下げたバットへ目をやって言った。


「いや、虫だよ。子供の頃にこの辺で見た虫を、もう1回見つけたくて」


「どんな虫?」


「それが……うまく説明できないんだ。図鑑にも載ってなくて」


 少女は少し首を傾げた。その仕草が、どことなく人間離れした美しさを持っていて、愛翔は思わず目を奪われた。


「面白そうな話。もっと聞かせてよ」


 風が吹いて、少女の黒髪がふわりと舞う。日差しを受けて、一瞬だけ、髪が虹色に光った気がした。


 見間違いだろうか。愛翔が瞬きをした、その一瞬の間に——。


 少女の唇が、静かに動いた。


「——そうだ、あなたの名前は?」


「愛翔。親愛の愛に、飛翔の翔で、愛翔」


 答えると、少女は小さく口の中で繰り返すように「まなと」とつぶやいた。その響きを確かめるような言い方が、なんだか妙に印象に残った。


「そっちの名前は?」


 愛翔が聞き返すと、少女はふっと悪戯っぽく笑って、麦わら帽子のつばを指先でつまんだ。


「秘密」


「え」


「今日はまだ、教えてあげない。……また会えたらね」


 少女はそう言うと、くるりと背を向けて、岩から岩へと軽い足取りで飛び移っていく。呼び止める間もなく、その白い背中は川沿いの木々の向こうへと消えていった。


 残された愛翔は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、少女が消えていった方角をただ見つめていた。


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