3、プライド
今日は給料日だ。
昼の本屋でアルバイトを始めて3ヶ月。給与明細には、「給与額:70000円」という数字が印字されていた。
「今月も、それなりに頑張ったな……」
俺は何故か苦笑した。
生活費を引けば、ほとんど手に残らない額だ。それでも自分で働いて得た金だと思えば、銀行の口座から下ろした現金を財布へしまう瞬間だけは、少しだけ誇らしかった。
翌日の夜、この日はコンカフェでのバイトが休みだった。
せっかくの休みだし、ひとりで飲もう。
そんな軽い気持ちで、俺は歌舞伎町にある小さなバーへ入った。
店内には6、70年代の洋楽が流れていて、照明も暗い。カウンター席に座って酒を頼むと、店員は必要最低限の言葉だけを交わして奥へ戻っていった。
誰も話しかけてこない。
俺は、それが心地よかった。
大学時代から、人付き合いは苦手だった。大勢で騒ぐより、一人で本を読んでいる方が楽だったし、誰かと話すたびに「今の返答、変じゃなかったか」と後から考えてしまう。
だから、こういう場所は嫌いじゃない。
酒と音楽だけがあって、余計な会話がない。
グラスの中の氷が、パチッと小さく鳴った。
それから一時間ほど経った頃、俺は会計を済ませて店を出た。
スマホの時計を確認すると、午前1時を回っている。
「さて、帰りますか」
そう呟いて歩き出した、その時だった。
「……!!」
細い路地から、一人の少女が飛び出してきた。
見覚えがある。
昨日、広場でライターを借りようとしてきた少女だ。
「お兄さん!!」
少女は息を切らしながら俺の腕を掴んだ。
「ヤバい、助けて……!」
「え?」
突然のことに、頭が追いつかなかった。
だが、その数秒後。
少女が飛び出してきた路地の奥から、二人組の男が姿を現した。
「おいコラァ!」
「逃げんじゃねぇぞオメェ!」
金髪混じりのフェードカット。
腕には刺青。
そして、酒の匂い。
どう見ても、俺が関わってはいけないタイプの人間だった。
俺は一歩、後ずさった。
(無理だ)
まず頭に浮かんだのは、それだった。
(警察を呼ぶか?)
いや。
(関わりたくないな……)
少女の手が、まだ俺の腕を掴んでいる。
振り払えばいい。
そのまま走って帰ればいい。
そうすれば、俺は何もされない。
「ご、ごめん……」
俺は少女から目を逸らした。
「今、急いでいるから……」
言ってしまった。
最低だ。
我ながら、そう思った。
目の前で助けを求められている人間を見捨てようとしている。
でも、怖い。
俺は喧嘩なんてしたことがない。
相手はどう見ても俺より強い。
殴られたら痛い。
怪我をしたら仕事にも行けない。
下手をすれば、もっと酷いことになるかもしれない。
だから逃げる。
それが普通だ。
「あぁ……そ、っか……」
少女の声が、小さく震えた。
その一言が、胸にひどく突き刺さった。
俺は何を守っている?
自分の安全か。
面倒事に巻き込まれない生活か。
それとも……。
男として情けない自分か。
「……おい、待て」
気付けば、俺は振り返っていた。
自分でも何故そうしたのか分からない。
少し酒が入っていたからかもしれない。
あるいは、さっきの少女の声が頭から離れなかったからかもしれない。
俺は少女を自分の後ろへ下がらせた。
心臓がうるさい。
足も震えている。
今すぐ逃げたい。
それでも、後ろには俺に助けを求めている人がいる。
ここで退いたら、きっと一生後悔する。
「おい」
男たちが足を止めた。
「そ、その女の子に……何か用か?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
一人の男が、口元を歪める。
「ねぇ、お兄さん」
「……」
「めっちゃ勇気あるじゃん!」
その瞬間、俺はとんでもないことをしてしまったのだと気付いた。
逃げるなら、今だった。
けれど。
もう、遅かった。




