25、売掛金
駅へ向かう途中、ユイはほとんど喋らなかった。
人通りは多い。酔った会社員、客引き、スマートフォンを見ながら歩く若い女。歌舞伎町の夜は、誰かが困っていようが関係なく動き続けている。
「……1つ、聞いてもいいですか」
俺が言うと、ユイがこちらを見た。
「はい」
「さっきの580万」
ユイの足が少し遅くなった。
「全部、店で飲んだ金なんですか」
「……全部っていうか」
答え方が曖昧だった。
「違うんですか」
「売掛です」
「売掛」
「はい」
言葉自体は知っている。
店で使った金を、その場では払わず後から支払う。簡単に言えば"ツケ払い"だ。
「580万全部?」
「……たぶん」
「たぶん?」
俺は足を止めた。
ユイも数歩先で止まる。
「自分が払う金額なのに、分からないんですか」
「分かってます。580万です」
「いえ、金額じゃなくて…」
俺は少し考えた。
「何に、いくら使ったかです…」
ユイは黙った。
通りの向こうでタクシーが停まり、女が2人乗り込んでいく。
「シャンパンとか」
「はい」
「ボトルとか」
「はい、」
「それで580万?」
「……全部じゃないです」
やっぱり。
「他に…は?」
「担当が立て替えた分とか」
「いくら…?」
「分かんない」
「…………」
さっきより話がおかしくなった。
「立て替えたって、何をです…?」
「店に払う分」
「店に?」
「私が払えなかったから、担当が代わりに払ったって」
「それ、いくらですか」
「たぶん……100万ちょっと」
「…たぶん?」
「正確には覚えてないです」
俺は何も言わなかった。
ユイは困ったように笑った。
「そんな顔しないでください」
「仮面なので見えないと思います」
「あ……そうでした」
少しだけ空気が緩んだ。
でも、俺の中の違和感は消えなかった。
「その立替分って、何か証拠あるんですか」
「証拠?」
「振込とか。領収書とか。借用書とか……」
「ないです」
「ない?」
「LINEで言われただけです」
「…………」
「『俺が出しといたから』って」
それだけ。
俺はもう1度歩き出した。
ユイも横に並ぶ。
「じゃあ580万の内訳、ちゃんと見たことないんですか」
「店の伝票はあります」
「全部?」
「全部は持ってないです」
「じゃあ、今の580万って」
「担当が言ってる金額です」
俺は黙った。
おかしい。
ただ、何がおかしいのか、まだうまく言葉にできない。
ユイが嘘をついている可能性もある。
単純に本人が金の管理をできていないだけかもしれない。
担当が本当に立て替えたのかもしれない。
俺には判断材料がない。
「いつからなんですか」
「何が?」
「ホスト」
「……半年くらい」
「半年で580万?」
「はい」
半年。
俺は頭の中で計算した。
1か月あたり約96万。
昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちしている俺からすると、現実感のない数字だった。
「仕事は何してるんですか」
聞いてから、少し失礼だったかと思った。
けれどユイは普通に答えた。
「昼はアパレルです」
「それだけ?」
「今は」
「今は?」
「前は夜職もやってました」
ユイはそれ以上言わなかった。
俺も聞かなかった。
「アパレルで580万返すのは無理じゃないですか?」
「……それは…分かってます」
「じゃあ、どうするんですか」
「増やします」
「仕事を?」
「はい」
「何を」
「まだ決めてないです」
ユイは前を見たまま言った。
「担当が、紹介できるって」
俺の足が止まった。
ユイも気づいて振り返る。
「紹介?」
「はい」
「何を」
「稼げる仕事」
「どんな仕事ですか」
「まだ聞いてないです」
「…………」
嫌な感じがした。
「それ、今日言われたんですか」
「前から…」
「どれくらい前なんですか?」
「2週間くらい前」
「なんて言われたんですか?」
「『今の仕事じゃ返すのキツいでしょ』って」
「それで?」
「『もっと稼げるとこ知ってるから、必要なら紹介する』って」
「店?」
「多分」
「何の?」
「分かんないです」
分からないことが多すぎる。
580万。
売掛。
担当の立替。
内訳不明。
仕事の紹介。
全部が何となく1本の線で繋がっているように見えた。
でも、まだ確信はない。
俺はスマートフォンを取り出した。
「ユイさん」
「はい」
「さっきのSNS、後でメッセージ送ってください」
「え?」
「580万の内訳、分かる範囲で」
「なんでですか」
「俺も分からないからです」
「何が?」
「その金額が」
ユイが俺を見る。
「別に、全部調べてくれなくていいですよ」
「分かってます」
「今日の依頼、付き添いだけだし」
「分かってます」
「じゃあ」
「でも」
俺は少し考えてから言った。
「580万って言われて、何も分からないまま払うのは変です」
ユイは何も言わなかった。
「少なくとも、自分が何にいくら払うのかくらいは確認した方がいいと思います」
「……そうですね」
「俺も詳しくないので、変なこと言ってるかもしれないですけど」
「いえ」
ユイは小さく首を振った。
「誰にも、そういうこと言われなかったので」
駅が見えてきた。
人の流れが少しずつ増えていく。
「じゃあ、ここで」
「はい」
ユイが立ち止まる。
「今日はありがとうございました」
「何もしてないですけど」
「一緒にいてくれました」
「それが依頼なので」
ユイは少し笑った。
今度は、さっきより普通の笑い方だった。
「3,000円、絶対払います」
「別に急がなくていいです」
「払います」
「分かりました」
ユイが改札へ向かう。
数歩進んでから、振り返った。
「内訳、送ります」
「はい」
「分かる範囲で」
「それでいいです」
ユイは今度こそ改札の中へ消えていった。
俺はしばらく、その方向を見ていた。
帰ろう。
そう思ってスマートフォンを見る。
通知が1件。
咲優からだった。
『今日なんかやってた?』
俺は少し迷ってから返信する。
『初仕事』
すぐに既読が付く。
『マジで依頼来たの?』
『来た』
『いくら?』
『3,000円』
『安っ!』
我ながらにそう思う。
続けてもう1件。
『ちゃんともらった?』
俺は画面を見た。
『もらってない』
既読。
少し間があってから、
『お兄さん、商売向いてなさすぎ笑』
返す言葉がなかった。




