21.5、洗濯
あの一件から、どれだけ経ったろうか。
ワンルームの隅に置いた衣装ケースの蓋を開けた瞬間、鼻の奥がむずむずした。
黒のボディスーツにアーマー、麻布風のマフラー、そして紅い複眼のマスク。
全部、あの時のままの状態で入っている。
「……あ」
声が小さく出た。
実は洗っていないのだ。一度も。
警察署から帰宅してケースに突っ込んで、蓋をして、それっきりだ。酒とタバコと、何かもっと生々しい匂い。マスクの内側に残った息の熱まで、全部そのまま閉じ込めていた。
指でボディスーツの裾を摘む。指先に薄い湿り気というか、乾ききっていない膜みたいな感触がある。気のせいかもしれない。気のせいにしたかった。
「……。」
俺はケースから中身を全部ベッドの上に並べた。
スーツは思ったより重い。アーマーは強化プラスチックに近い質感で、隙間に黒い汚れがこびりついている。また、マフラーは埃の匂いというより、何か別の匂いを吸っていた。マスクの内側を覗くと、頬が当たるあたりが少し白く濁っている。
家の洗濯機を見た。
全自動のごく普通のやつだ。学生時代から使っているようなサイズ。
「手洗い……か」
まずはスーツとアーマーをバラす。各部位のアーマーとマジックテープを外して、部品ごとに床に置く。作業しているあいだ、指先の感触がずっと気になった。洗っていないものを触っている、という事実が、じわじわと気持ち悪い。
浴室の洗面台にぬるま湯を張る。中性洗剤を少し垂らしてスーツを沈めた。
黒い生地が水を吸って一気に重くなる。手で押し込むと、細かい泡が浮いてくる。泡の間から、乾いた血ではない何かの匂いが立ち上がった気がして、俺は顔を背けた。
アーマーは更に大変だった。
曲面が多く、隙間に汚れが残る。スポンジで擦っても、家庭用の洗剤では落ちきらない気がする。シンクの縁に並べた部品を見渡して、俺は素直に敗北を認めた。
「無理だ…」
家庭用洗濯機に突っ込んだところで、脱水の振動でアーマーと洗濯機がイカれそうだし、スーツの特殊な生地がどう反応するかも分からない。それに他人の血痕がベッタリと付着したものを、自宅のアパートの洗濯機で回すという発想自体が、すでに頭おかしい。
俺は濡れたスーツを絞り、アーマーをタオルで拭いて、すべてを大きめの黒いゴミ袋に入れた。マスクだけは外に取り出し、口を結ぶ。
「コインランドリー、か……」
近所に1軒ある。駅の反対側、住宅街の端っこの、24時間営業のやつだ。行ったことは数えるほどしかない。普通の洗濯物なら家で済むし、そもそも人の目が気になる。
それでも今夜は、それしかなかった。
夜の10時を過ぎてから家を出る。袋を両手に提げて、街灯の少ない道を歩く。歌舞伎町のネオンは遠くに霞んで見えた。こっち側は普通の住宅と、シャッターの降りた商店だけだ。
コインランドリーの蛍光灯は、必要以上に白かった。
自動ドアが開くと、乾燥機の熱と、安価な柔軟剤の匂いが同時に押し寄せてくる。店内に人は2人。奥の席でスマホを見ているおじさんと、乾燥機の前で腕を組んでいる若い女。どちらも俺には無関心だった。
俺は一番端の大型機を選んだ。
袋からスーツとアーマーの部品を取り出す。普通の洗濯物に交ぜるわけにはいかないので、専用のネットに詰められるだけ詰める。マスクは中のベンチに置き、マフラーは別のネットへ入れた。
小銭を投入して、スタートボタンを押す。
洗濯機が回り始めた。
黒と紅が、ガラスの向こうでぐるぐると混ざる。
俺は向かいのプラスチック椅子に腰を下ろした。
手持ち無沙汰にスマホを取り出す。咲優とのLINEは、最後の既読から少し時間が空いている。送信欄をタップして、すぐに閉じた。「洗濯してる」なんて送る話題じゃない。
窓の外は暗い。乾燥機のモーター音だけが、規則正しく鳴っている。
あの夜、マスクの中で過呼吸気味になったこと。角材が複眼に映ったこと。咲優が袖を掴んでいた力の強さ。
全部、この黒い生地のどこかに残っている気がした。
洗えば落ちるのか、それとも落ちないのか。
ただ、洗わずに次を迎えるのは、さすがに無理だ。
表示が残り8分になる。
俺は椅子から立ち上がり、ガラスの向こうで、ぐるぐる回る自分のコスチュームを黙って見ていた。
黒と紅が水の中で絡まり、ほどけ、また絡まる。アーマーの角がドラムの内側に当たるたび、ゴトンゴトン、と鈍い音がした。この時間帯のコインランドリーには、そういう音が似合う。
「……」
右隣の乾燥機が止まった。若い女が洗濯物をかごに移して、足早に出ていく。自動ドアが閉まると、店内は俺と、奥のおじさんだけになった。おじさんは相変わらずスマホの画面から目を離さない。
ブザーが鳴った。
ドラムを開けて、中身をかごに移す。スーツはまだ重い。水を含んだ生地特有の、冷たい重さだ。アーマーは完全にきれいになったとは言えないが、少なくとも触るのが嫌になるレベルからは良くなていた。それで十分だと思った。
隣の乾燥機に詰める。今度は60分コース。追加の100円玉を入れて、スタートを押す。
椅子に戻り、天井の染みを見上げる。
60分は長かった。
途中、一度だけスマホを開いて、咲優のトーク画面を見た。入力欄に「今日、洗濯した」と打って、すぐに消した。送る理由がない。送ったところで、咲優が何を返すかも想像がつかない。
「お兄さん、ちゃんと洗ってよ笑」くらい言われそうな気もするし、「えっ、洗ってなかったの?」と笑われそうな気もする。どちらでも俺は困る。
乾燥機が止まった。
熱を帯びたスーツとアーマーを取り出す。乾いた生地は、思ったより軽い。マフラーを顔に近づけると、柔軟剤の匂いが勝っていた。あの時の嫌な匂いは、少なくとも表層からは消えている。
マスクをケースに戻し、すべてを袋に詰めた。
外に出ると、夜風が意外と冷たい。袋を持ち直して、アパートへの道を歩き出す。
後ろ手にコインランドリーの蛍光灯が遠ざかっていく。
家に着いて、衣装ケースに戻す前に、一度だけ全部を床に並べた。
コインランドリー特有の柔らかな布の香り。
「……次は、ちゃんとすぐ洗お……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
俺は蓋を閉じて、電気を消して寝た。




