↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/51

21.5、洗濯

 あの一件から、どれだけ経ったろうか。

 ワンルームの隅に置いた衣装ケースの蓋を開けた瞬間、鼻の奥がむずむずした。

 黒のボディスーツにアーマー、麻布風のマフラー、そして紅い複眼のマスク。

 全部、あの時のままの状態で入っている。

「……あ」

 声が小さく出た。

 実は洗っていないのだ。一度も。

 警察署から帰宅してケースに突っ込んで、蓋をして、それっきりだ。酒とタバコと、何かもっと生々しい匂い。マスクの内側に残った息の熱まで、全部そのまま閉じ込めていた。

 指でボディスーツの裾を摘む。指先に薄い湿り気というか、乾ききっていない膜みたいな感触がある。気のせいかもしれない。気のせいにしたかった。

「……。」

 俺はケースから中身を全部ベッドの上に並べた。

 スーツは思ったより重い。アーマーは強化プラスチックに近い質感で、隙間に黒い汚れがこびりついている。また、マフラーは埃の匂いというより、何か別の匂いを吸っていた。マスクの内側を覗くと、頬が当たるあたりが少し白く濁っている。

 家の洗濯機を見た。

 全自動のごく普通のやつだ。学生時代から使っているようなサイズ。

「手洗い……か」

 まずはスーツとアーマーをバラす。各部位のアーマーとマジックテープを外して、部品ごとに床に置く。作業しているあいだ、指先の感触がずっと気になった。洗っていないものを触っている、という事実が、じわじわと気持ち悪い。

 浴室の洗面台にぬるま湯を張る。中性洗剤を少し垂らしてスーツを沈めた。

 黒い生地が水を吸って一気に重くなる。手で押し込むと、細かい泡が浮いてくる。泡の間から、乾いた血ではない何かの匂いが立ち上がった気がして、俺は顔を背けた。

 アーマーは更に大変だった。

 曲面が多く、隙間に汚れが残る。スポンジで擦っても、家庭用の洗剤では落ちきらない気がする。シンクの縁に並べた部品を見渡して、俺は素直に敗北を認めた。

「無理だ…」

 家庭用洗濯機に突っ込んだところで、脱水の振動でアーマーと洗濯機がイカれそうだし、スーツの特殊な生地がどう反応するかも分からない。それに他人の血痕がベッタリと付着したものを、自宅のアパートの洗濯機で回すという発想自体が、すでに頭おかしい。

 俺は濡れたスーツを絞り、アーマーをタオルで拭いて、すべてを大きめの黒いゴミ袋に入れた。マスクだけは外に取り出し、口を結ぶ。

「コインランドリー、か……」

 近所に1軒ある。駅の反対側、住宅街の端っこの、24時間営業のやつだ。行ったことは数えるほどしかない。普通の洗濯物なら家で済むし、そもそも人の目が気になる。

 それでも今夜は、それしかなかった。

 夜の10時を過ぎてから家を出る。袋を両手に提げて、街灯の少ない道を歩く。歌舞伎町のネオンは遠くに霞んで見えた。こっち側は普通の住宅と、シャッターの降りた商店だけだ。

 コインランドリーの蛍光灯は、必要以上に白かった。

 自動ドアが開くと、乾燥機の熱と、安価な柔軟剤の匂いが同時に押し寄せてくる。店内に人は2人。奥の席でスマホを見ているおじさんと、乾燥機の前で腕を組んでいる若い女。どちらも俺には無関心だった。

 俺は一番端の大型機を選んだ。

 袋からスーツとアーマーの部品を取り出す。普通の洗濯物に交ぜるわけにはいかないので、専用のネットに詰められるだけ詰める。マスクは中のベンチに置き、マフラーは別のネットへ入れた。

 小銭を投入して、スタートボタンを押す。

 洗濯機が回り始めた。

 黒と紅が、ガラスの向こうでぐるぐると混ざる。

 俺は向かいのプラスチック椅子に腰を下ろした。

 手持ち無沙汰にスマホを取り出す。咲優とのLINEは、最後の既読から少し時間が空いている。送信欄をタップして、すぐに閉じた。「洗濯してる」なんて送る話題じゃない。

 窓の外は暗い。乾燥機のモーター音だけが、規則正しく鳴っている。

 あの夜、マスクの中で過呼吸気味になったこと。角材が複眼に映ったこと。咲優が袖を掴んでいた力の強さ。

 全部、この黒い生地のどこかに残っている気がした。

 洗えば落ちるのか、それとも落ちないのか。

 ただ、洗わずに次を迎えるのは、さすがに無理だ。

 表示が残り8分になる。

 俺は椅子から立ち上がり、ガラスの向こうで、ぐるぐる回る自分のコスチュームを黙って見ていた。

 黒と紅が水の中で絡まり、ほどけ、また絡まる。アーマーの角がドラムの内側に当たるたび、ゴトンゴトン、と鈍い音がした。この時間帯のコインランドリーには、そういう音が似合う。

「……」

 右隣の乾燥機が止まった。若い女が洗濯物をかごに移して、足早に出ていく。自動ドアが閉まると、店内は俺と、奥のおじさんだけになった。おじさんは相変わらずスマホの画面から目を離さない。

 

 

 ブザーが鳴った。

 ドラムを開けて、中身をかごに移す。スーツはまだ重い。水を含んだ生地特有の、冷たい重さだ。アーマーは完全にきれいになったとは言えないが、少なくとも触るのが嫌になるレベルからは良くなていた。それで十分だと思った。

 隣の乾燥機に詰める。今度は60分コース。追加の100円玉を入れて、スタートを押す。

 椅子に戻り、天井の染みを見上げる。

 60分は長かった。

 途中、一度だけスマホを開いて、咲優のトーク画面を見た。入力欄に「今日、洗濯した」と打って、すぐに消した。送る理由がない。送ったところで、咲優が何を返すかも想像がつかない。

「お兄さん、ちゃんと洗ってよ笑」くらい言われそうな気もするし、「えっ、洗ってなかったの?」と笑われそうな気もする。どちらでも俺は困る。



 乾燥機が止まった。

 熱を帯びたスーツとアーマーを取り出す。乾いた生地は、思ったより軽い。マフラーを顔に近づけると、柔軟剤の匂いが勝っていた。あの時の嫌な匂いは、少なくとも表層からは消えている。

 マスクをケースに戻し、すべてを袋に詰めた。

 外に出ると、夜風が意外と冷たい。袋を持ち直して、アパートへの道を歩き出す。

 後ろ手にコインランドリーの蛍光灯が遠ざかっていく。

 家に着いて、衣装ケースに戻す前に、一度だけ全部を床に並べた。

 コインランドリー特有の柔らかな布の香り。

「……次は、ちゃんとすぐ洗お……」

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 俺は蓋を閉じて、電気を消して寝た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。