25
正直に言えば。
最初はここまで付き合ってくれるとは思っていなかった。
伊藤レイという男は。
もっと自分中心の人間だと思っていた。
実際、自分中心ではある。
かなり。
ロブスターの亡霊の話は延々するし。
返信が遅いと騒ぐし。
妙な見栄も張る。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
でも。
意外と。
ちゃんと“ついてきて”くれる。
「のだぁ……」
山道で死にそうになっても。
「脚がぁぁぁぁ!!!!!!」
ライブで足をつっても。
「吾輩ぁ……高級レストラン怖いのだぁ……」
高級店で緊張しても。
結局、逃げない。
付き合う。
それが少し意外だった。
昔のレイなら。
もっと“自分が楽しめる場所だけ”へ行くタイプだと思っていた。
でも実際は。
生け花展にも来た。
美術館にも来た。
山登りにも来た。
クラシックコンサートですら途中寝そうになりながら最後までいた。
しかも。
ちゃんと感想を言う。
ズレてはいるけれど。
真面目に見ている。
「……」
美咲は静かな夜のリビングでワインを飲みながら思い出していた。
あの山登りの日。
レイは本当に死にそうだった。
汗だく。
息切れ。
遭難寸前。
なのに。
『景色綺麗なのだぁ』
頂上ではちゃんと笑っていた。
少し驚いた。
レイはもっと文句を言うと思っていた。
途中は散々言っていたけれど。
最後はちゃんと“来て良かった”みたいな顔をしていた。
「……」
元夫は。
優秀だった。
スマートだった。
大人だった。
でも忙しかった。
趣味を共有する感じではなかった。
お互い尊重していた。
それはそれで悪くなかった。
ただ。
“付き合う”というより、“干渉しない”に近かった。
一方。
レイは妙に首を突っ込んでくる。
生け花見て、
『のだぁ?この枝めちゃくちゃ強そうなのだぁ!』
とか言う。
美術館では、
『この絵、ちょっとロブスターの亡霊っぽいのだぁ』
とか意味不明な感想を言う。
でも。
ちゃんと来る。
ちゃんと見る。
ちゃんと反応する。
その“生活に入り込んでくる感じ”が。
最初は騒がしくて仕方なかった。
今は。
少しだけ心地いい。
「……ふふ」
美咲は少し笑った。
思えば。
自分も変わった。
昔なら。
絶対こんな男を選ばなかった。
うるさいし。
子供っぽいし。
趣味も変だし。
ロブスターだし。
でも。
五十を超えてわかったこともある。
“ちゃんと一緒に楽しもうとしてくれる人”は、思ったより貴重だ。
若い頃は。
もっと条件を見ていた。
仕事。
収入。
スマートさ。
常識。
もちろん今も大事だ。
でも。
一緒に山を登って。
ライブ帰りにファミレスで笑って。
料理を美味しそうに食べて。
そういう時間の積み重ねも、案外大きい。
「……」
スマホが震える。
レイからだった。
『のだぁ!』
『この前教わったワインの動画見て勉強してるのだぁ!』
『あとぉ!』
『ロブスターの亡霊コラボワインあったのだぁ!』
『買うのだぁ!?』
「……」
美咲は吹き出した。
「最後で台無しね」
でも。
その画面を見ながら。
少し優しい気持ちになる。
レイは。
格好つけきれない。
不器用だ。
すぐ調子に乗る。
子供みたいに騒ぐ。
でも。
好きな人の趣味を、ちゃんと“知ろう”とはしている。
そこは。
案外誠実なのかもしれない。
「……」
美咲は窓の外を見た。
東京の夜景。
静かな高級マンション。
若い頃。
こんな未来は想像していなかった。
ロブスターの亡霊のオタクと付き合って。
山登りで手を引いて。
ファミレスで甲殻類論を聞いて。
それを少し楽しいと思っている未来なんて。
「……変なの」
でも。
悪くない。
本当に。
思っていたよりずっと悪くない。
その時。
また通知。
『のだぁ!』
『ワイン難しいのだぁ!』
『吾輩やっぱり梅酒の方が好きかもしれないのだぁ!』
美咲は静かに笑った。
「……無理しなくていいのに」
そう呟きながら。
少しだけ。
胸が温かかった。




