48話 『消え去り』
世界は暗く、脆弱で、寒い。
少なくとも以前の彼にとってはそうであった。
彼は決して短命ではないし、脆くもない……いや、非常に強い力を持つと言ってよいだろう。
しかし、その強さはあくまで一般的な存在と比較してであり、同属に比べれば虚弱だ。
彼は幾度も死に幾度も生き、いつも怯えていた。
生きることに疲れ、死ぬにも疲れ。
だが必然か偶然か、その呪われた輪廻から彼は解き放たれた。
彼を二重に殺した偉大で半端な魂。
ドラゴンと定命のモノが混ざり合った小さな身体が放つ恐るべき光と熱、痛みと愉悦の記憶は彼という存在の本質に深く刻まれ、何物にも変えがたい。
今や彼は生じたということもなく、滅したということもなく、苦痛もなく、恐怖もない。
覚りなく、迷いなく、実体は覚束ないが幻も覚束ない。
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“爪”と“牙”を持つヒト、いとしきあるじが、既に急上昇を開始していた彼の背で叫ぶ。
風と光熱が巻き起こるとともに憤怒が魔力回路を伝って流れ込み、彼を奮い立たせた。
あるじはきわめて強力であるが、その極端な固有形質により得手不得手が激しい。
実際この案件は、地中からくる呪いは彼の領分……いや、獲物だ。
やや不満そうなあるじを空へと放って身軽になった彼は、異常の正体を探るべく水の幻に覆われた大地に身体を向けた。
闇の中でさらに暗い、影状物質に包まれたドラゴンもどきの姿がよじれ、冥界からの魔物さながらの流線形に変化してゆく。
彼の存在の核は不完全な再誕によりドラゴンの輪廻から逸脱した未分化の魂、不定形のオーラ紋であり、形状と密度にはかなり融通がきくのだ。
代わりに強靭な爪牙と、魔力を跳ね返す鱗は失われてしまったが。
ともかく、実在感溢れる幻と強力な瘴気の発生源は、彼の見立てではずっと深くにある。
生き物か、システムか、あるいはもっとエキゾチックな存在か、もっと近づいてみなければわからない。
急降下しつつ己の密度を操作し幽体と化した彼は幻を掻き分けて、固い地面にダイブした。
岩の質量と粘りつくような瘴気が邪魔をする中、普段の数十分の一の速度で慎重に泳ぐ。
彼は瞳を持たないが、霊的な超感覚で周囲を視ているのだ。
様々な大地の構成物質が彼の中を通り抜けてゆく。
進むごとに瘴気は濃くなり、何らかの規則的パターンを持ちはじめた。やはり、ただの蓄積ではなく操作者が存在する。
彼は魔力喰いではあるが他者の制御下にある力を弄ることは苦手で、一部の悪魔や上級アンデッドのように戦闘中に敵のパワーソースを吸い取ることはできない。
とはいえ、勝機は十分にあった。単に対象を破壊すれば良い。
所有者がいなくなってしまえば、それは己のものだ。
唐突に何かが接近してきた。振動が無い。非物質存在。
彼は停止し、感覚を研ぎ澄ませた。
……早い!
ZZAAABUZZZZ!
不協和音めいた攻撃的な響きが彼の防御物質を揺らす。
知的なものではないと判断した彼はタイミングを図り、地中を泳ぐ太い翼で魔力構成物を弾き飛ばした。
弾き飛ばされた何かは少し進んだ先で振動、爆発。BOOM!
わずかに裂けた空間で圧縮された瘴気が波打ち、噴き出す!
あるじの仲間が使っていた榴弾砲とやらに似た挙動。
彼は流れ出た瘴気を少しばかり絡め取り、咀嚼した。
彼にとって有害なほどではないものの、体系化された呪いを感じる。美味とはいえない。
再び不協和音とともに同様の瘴気榴弾が迫る。同様に弾き飛ばす。爆発。
対象は間違いなく敵として彼を認識している。
彼は注意深く弾の発生源の座標へと向かっていった。瘴気はだんだんと濃くなり、彼の影状防御物質に迫るほどだ。
攻撃。弾く。
攻撃。弾く。
攻撃。弾く。
数度のリピートの後、弾が有効でないと判断したか、あるいは自爆を恐れたか、榴弾攻撃が止まった。
代わりに触手じみて成形された瘴気が伸びてくる。
だが負の魔力は彼に対して根本的に効果が薄い。触手を食い千切り、さらに深くへ。
濃密なその中心に、フラクタルな魔力コードを発する何か。破壊対象。
彼は獲物の発見に喜び、あるじの微笑みに似せた表情を形作った。
眼も鼻も耳もない流線形の頭部に走る、一本線のような裂け口が可能な範囲で。
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「ふうむ、この位置からだと視えないか」
雲ひとつない星空の下、大木の枝に立つ人影が唸るように呟いた。
先ほどサンカントとグレーレ老人が囚われた幻影の洪水、過去の現場から脱出してきたリュミエラだ。
件の岩場から半マイルほど離れたこの場所からは、一切の幻が見えない。
地上では聞こえていた不安な水音も、接地していなければ聞こえないようだ。
しもべであるクロマクが原因を破壊するため地中に潜った後、しばらくの間サンカントの回収を試行錯誤していたリュミエラは、結局諦めて離れた。
彼女といえども暴れるサンカントを無傷で確保するのは難しいし、何より即座に命が危険といった感じではなかったからだ。
いずれにせよ記憶や魔力関連の特殊現象など専門外であり、クロマクが幻影の洪水の原因を破壊するまでは、独り相撲を繰り広げる二人と一匹を眺めて待つしかない。
しばらく後。
「どう? この指何本?」
「三本……大丈夫だつってんだろ、リュミエラさん」
「本当かしら。それにしても、これは」
「う゛ー」
二人と一匹が、岩場に座り込んでいる。
水も、過去の映像も、瘴気も消え失せ、微かに夜の自然らしい音がする以外静かなものだ。
クロマクはリュミエラの期待通りに幻の原因を探し当てて機能停止させ、漂う瘴気の何割かを食って辺りを正常に戻した。
だが、謎は解決していないどころか、むしろ増えてしまった。
「結局さ、何がどうなってこうなったのかしら、五年と百二十二日前、だっけか」
「たぶんだけどな、みんな間違ってねえんだよ。洪水も、子供のドラゴンに村が襲われたのも、混乱に乗じてベルトランに攫われたのも。
でも、でもよ、グレーレ婆ちゃんは何なんだよ! 何でだよ!
俺、生きてるか死んでるかぐらいわかるぜ、肉だって間違いなく肉だった、ちゃんと消化できたし!
なんで…………もっと、もっと聞きたいこといっぱいあったんだ……だって……」
サンカントの叫びは、途中から嗚咽と化していた。
確かに生きていたはずのグレーレ老人は、地中から戻ってきたクロマクが飛翔するのと入れ替わりで、最初から存在していなかったかのように行方をくらました。
転移の痕跡は残っておらず、かといって物理的に立ち去ったとも考え難い。
離れて観察していたリュミエラには爆発か、あるいは急激な燃焼のように感じたが、サンカントによればゆっくりと崩れるように霧散していったらしい。
クロマクは奇怪な地下オブジェクトの情報を、彼の知性で判断できる限り詳しくリュミエラに伝えた。
やはり能動的に幻影の再生や瘴気の放出を行っていたらしく、何らかの記憶媒体と自己防衛機能を含むものであったのだろう。
明らかに専門の技術者が再調査するべきだが、今の首都ルクスの状態で田舎の廃村に調査隊を送る余裕があるとは思えなかった。
それに、全てが消え去ったわけでもない。
グレーレ老人の相棒であった巨大ラパンタルが長い耳を寝かせて悲しげに唸り、大儀そうに立ち上がった。
よく手入れされた小さな鞍と魔物用の簡易防具が、かの竈の商人族老婆が完全な幻ではなかったことを示している。
「GRRRR」
「村に戻る、かな? 多分」
「R-R-R」
「ふむ。クロマク……はまあいいか、サンカント、どうする?」
「いく」
隠れる必要がなくなって悠々と夜空に浮かぶクロマクを除き、足取りは重い。
サンカントと巨大ラパンタルは落胆しているし、リュミエラは謎について考え込んでいた。
ずっと、引っかかっているのだ。思い出すべきことがあるはず。
わからない。
気づけば、グレーレ老人が住んでいた家の前だ。
扉代わりにかかっている簾は新しく、埃も殆どついていない。
巨大ラパンタルは入ってすぐの土間じみた部分に座り込み、眠り始めてしまった。
疲れているのか、現実逃避か……恐らく両方だろう。
リュミエラとサンカントも色々な意味でまいっていたが、今休憩するわけにはいかなかった。
ここで諦めては、何の為にはるばる廃村ランシスまで来たのかわからなくなってしまう。
念のためクロマクに外の警戒を頼んだリュミエラは、案外広い屋内を漁り始めた。
台所は食事を摂って休憩した時のままで、鍋に水滴すら残っている。
確かに、老婆はここで生活していたのだ。
棚には燻された肉、岩塩で漬けられた肉、数日以内に摘んだと思われる野菜類。
温度差と僅かなクリスタル燃料を使用する換気システムもちゃんと機能しており、不快さはない。
別の部屋に少しばかりの洗濯物が干してあり、また別の部屋には竈の商人族サイズの小さな寝具が畳んである。
一人暮らしらしく全く物がない部屋もいくつかあるが、いずれも掃除が行き届いておりすぐにでも住めそうだ。
「日記とか、あるかなって思ったんだけど、グレーレさんそういう習慣はなかったのかな。
にしても………………」
「特に怪しいものはねーな。ところでリュミエラさん、なんでさっきから時々止まってんの?」
「それがね、よくわかんないことがわかんないのよ、こう、喉元まで出掛かってるんだけど」
「あん?」
「あれよ、ええと、ああいう、燃えるような、炭化とは違ってさ、そんな」
「ふーん……俺にはよく、あ、ああ! あの、そうだ! 自壊! ソリオンとかがたまにやる、そうだ、こないだの変な女も」
「ああああ!! えらいサンカント、それ、それよ!」
「っいってえええ、左手の爪、爪が」
大声と悲鳴が屋内に響き、驚いて跳ね起きた巨大ラパンタルの鳴き声が反響する。
二人と一匹が平静を取り戻すには、一定の時間を要した。
「あー、まあ、ごめん」
「いや大した傷でもないし別にいいけどよ、んでどしたのさ」
「さっきさ、自壊って言ったよね、確かにそうなのよ。
いや、多分あってる。ほら、グレーレさんの魔力とあと急いだ時の動きとか、精密機械みたいじゃなかった?
おばあちゃんだからと思ってたけど、あれ……」
「うん、わかるぜ、わかるけどよ、でもおかしくねえか。
俺が認めたくねえ、ってのは少しある、あるのは否定しない、でもさ、迷い込んだ俺達に優しいし、あの、あの変なあれも、洪水の幻も死ぬって感じじゃなかった。
今思えば幻で、あの時は本物だったけど、えと、いっぱい助けようとしながらグレーレ婆ちゃんと話したんだ、消えちまう、消えちまうねって。
クロマクが消し去らなくても、自然に収まってた気がする、いやでもあれが消えたら婆ちゃんも消えて、あれ、あれ?」
「あたしだってよくわからない、けどね、クロマクが何らかの機械を止めたのは間違いない。
で、少なくとも直近まで生きてたグレーレさんが崩壊した。
あの幻、たくさん流されてたのよね、まああたしは全部見たわけじゃないけど」
「……うう゛、ん。もしかしたらさ、グレーレ婆ちゃんが俺の知ってる人だったんじゃないかって、ちょっとだけ思って。
だから、あのさ、俺、あ……そうだ……おかしいんだ、そうだ、あんなに、あんな百人以上流されて、更にドラゴンが、そんなはずないんだ、数が足りない、あ、ああ、あ……あ」
なかば錯乱し、呻き、くずおれて涙を零し始めたサンカントをリュミエラは背中から抱き、温めてやった。
両親が健在な上、物心ついた頃から荒事に慣れ親しんでいた彼女に、サンカントの心情がどういったものかは今ひとつ実感できない。
しかし、良いものではないことは明白だ。
調べたいこと、調べなければいけないことはどんどん思いつくが、今日はこれ以上無理かもしれない。
悲しみ疲れて寝息を立て始めた少年に己のフードマントをかけてやったリュミエラは、筆記用具を取り出した。
今ひとつ回りの悪い頭に思いついたことを口に出して確定させ、端から書き記してゆく。
「水害、竜害、ベルトラン襲撃の犠牲者数にそれぞれ齟齬あり、首都ルクス保管データと現地の墓標に齟齬あり。
グレーレと名乗る老人の発言も不明瞭。しかしグレーレの名は保管データに生存者としてあり。
クロマクによる地中捜索での遺骨の数も合わず。幻影とグレーレの自壊の関連性についてその一、その二、その三。
自壊とベルトラン製品の類似性。ラパンタルの記憶を掘り起こせないものか。
調査班を……いや、エリク隊長に…………けど……肉が……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
夜は長い。




