感情
「あぁ、もうっ!フィンス!急いでくださいまし!」
広く長い廊下にリエローラの声が響く。焦った響きをもって反響する言葉は、彼女の視線の先、教科書を抱えて廊下を小走りする少女ーフィンスへと向けられる。
「ごめんなさい、リエローラ!先行っててください!」
申し訳なさそうに言うフィンスにリエローラは訳がわからない、というように首を傾げる。
「何言ってますの、すぐじゃありませんの」
「さっきの所に忘れ物しちゃって……遅れるって言っておいてもらえます?」
困ったように頼むフィンスにリエローラはため息をつく。やれやれ、とばかりに首を振るとフィンスに背を向ける。
「急いでくださいまし」
後ろに向けて手を振りながらリエローラは答える。フィンスはその姿を確認し、頬を緩めると
「ええ!」
明るく返答し、リエローラとは真逆の方向へと廊下を駆け出した。
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「フィンスさんは?」
授業が始まり、出席確認が始まってもフィンスはこなかった。教師がそれに気づき、全体に向けて問うものの、返答はない。リエローラは一人、訝しげに眉をひそめた。
「リエローラさん、何か知ってる?」
この授業―魔法学は特AクラスからEクラス、すなわちこの学園にある全クラスの志望生徒全員で行われる。だが、特Aクラスで魔法学を取っているのはリエローラとフィンスのほかにはおらず、自然と教師の質問の相手もリエローラとなる。
「遅れてくるといっていましたわ」
他クラスの生徒は特Aクラスの生徒をどこか別次元の存在としてみているものが多い。だからか、リエローラの周りに生徒はいない。関わろうとしないのだ。それは一種の畏怖とさえいえるかもしれない。
「そうですか……」
返答を聴いた教師が残念そうに声を漏らすが、リエローラはそちらに気を取られることなく授業が始まるのを淡々と待つ。
そんなリエローラの様子に押されたのかはわからないが、教師は渋々といった様子で授業を始めた。
「それでは皆さん、P158を開いてください」
授業の開始とも言える教科書を開く合図が出されると、教室内の生徒がいっせいに教科書をめくる音が木霊する。それに紛れるように、ぽつりと。
「フィンス、遅いですわ……」
呟きが、小さく紛れて消えたのだった。
****************
「すみません、リエローラ」
去っていく彼女の背を見つめながらぽつりと呟く。フィンスは角をまがるリエローラを少し寂しげに見送ると、自分もきびすを返して歩き出す。
向かう先は教室ーではない。まっすぐに向かうのはこの校舎の一階。23階建てという高い校舎であるここは、使われていない教室が多い。なかでも一番使われていないのが、一階である。それにくらべて23階の教室の競争率はかなりのものでもある。
カラリ、と乾いた音をたてて一階のとある仕切られた廊下の扉が開く。日当たりが悪く、この学園の特徴でもある碧をみることができないので、不人気であるのだが、フィンスにとってはそちらのほうが都合がよかった。
「ネロ……」
フィンスは名を呼ぶ。それはとても嬉しげに、儚げに、寂しげに。囁くようにして放たれた言葉は静かな空間に木霊し、そして届けられる。
『どうした?』
不思議そうにきょとんとしながらどこからともなく、否、どこかの影から現れるネロ。それにフィンスは小さく微笑む。
「わからないんだよ」
『何が?』
「全部」
フィンスには珍しい、要領を得ない返答。そこにあるのは苦悩。何かと何かにはさまれた者が浮かべる心の苦しみ。
「全部。全部わからない。この国の皇帝が憎い、おばあちゃん達を殺したあの紫色の姫が憎い。でも、私はどうしたいの?殺したいの?苦しめたいの?」
独白のようにフィンスから吐き出されるもの。フィンスが抱えていた苦しみがただ独りで漏れ続ける。
「リェルは一体何なの?この学園の人たちは私のことをどう思ってるの?私は何をしたらいいの?」
『……』
ぶつけられる感情の渦にしかしネロは言葉を返せない。気づかなかったからだ。フィンスと毎日のように話をしていながら、そんな感情を抱いていたことに。
「仮に皇帝を殺したとしてだよ?私はそのあとなんのために生きていけば良いの?どうやって生きていけばいいの?生きる目的がないんだよ!死ぬのが最後ならそれまでどうすればいいの!?道を視る者が言ってたこともわからない!何もかも私にはわからないんだよ!」
悲鳴のような声でフィンスが言う。それはとても悲痛な叫びで。
『落ちつけ、フィンス』
ネロはようやく言葉を発する。だが、気の利いた答えも返してやれず、そんなことしかいえない自分に対して軽く自嘲の笑みを浮かべる。
『何がしたい?どうすればいい?だと。そんなものは俺は知らない。それは姫の道だろう?姫が選ぶべき道。俺たちと関わりを切るもよし、人間の中に混じって暮らすもよし、俺たちと暮らすもよし、世界を変えるもよし。……ただ、一ついえるのならば生きていてほしいとは思う。まぁ心配はしていないが』
投げやりとも言えるそのネロの答えは正論だった。どうするもすべてフィンスが決めなくてはならないのだ。そんなことは、わかっている。とフィンスは小さく震える声で呟く。
「でも、私には選べない。また私みたいな目に合う人がいないようにするっていっても何をすればいいのかもわからない。世界を変えるなんていったけど、どうしたらいいかわからない」
落ち着きをかすかに取り戻したフィンスはただわからないという。ネロはしかし、そんなフィンスの様子に疑問を覚える。
『一体何があった?いきなりこんなことを言い出すとは思えない』
溜まっていた、といえば辻褄は合う。今まで我慢してきたものがついに爆発してしまったのだろう、と。だがネロはそんな答えに疑問を覚える。
――なら何故、よりにもよってこのタイミングなんだ?
しばらく、フィンスは語らなかった。うつむいて表情を隠したままに。まるで心を少しでも閉ざそうとしているかのように。
だが。クスっとフィンスがうつむいたままに笑う。
「……お見通しなんだね、ネロは。昨日リェルに言われたんだよ。
『未来っていうの不変であって変化するものだよ?一つのために生きるっていうのは、それは不変。でもその先にあるものはきっと不変じゃないでしょ?』
ってさ。よく意味はわからなかったんだけど、未来のこと考えちゃって。そうしたら、なんだかわからなくなった。考えてるうちにグルグルしてきて、もうどうしたらいいのかわからなくて。耐えられなくなって。今まで我慢してきたこととかそういうことが何かもやもやしてきて。爆発しちゃったんだよね」
フィンスは少しやわらかくなった笑みでそう語る。きっかけはおそらくそう。そしてそこまで溜め込んでいたのは事実だったのだろう。
『気づかなかった、すまない』
ネロは半ば予想していたその事実に素直に頭を下げる。フィンスのパートナーとして行動しておきながら、そのパートナーの心の内、悩みを感じ取ってやれなかったのだから。
そんなネロの言葉にフィンスは首を振る。
「そういうわけじゃない。ネロにも言えない事。言いたくないことで、私が隠してたんだもの。独りで溜め込むのはやめろって言われたんだけどねぇ」
『そうだ、な。溜め込むのはよくない。溜め込むな。俺が聞く。どんな話でも、フィンスの味方になるから安心して話してくれ』
「――っ」
不意をつかれたフィンスがかすかに赤面する。少し恥ずかしそうに小さく下を見ると、本当に小さな小さな声で、そっと。
「……ありがとう」
その言葉は届いたのか、否か。それは本人しか知る由もない話である。
「少し、楽になった。話してよかった。戻るよ。大きな先はまだ見えないけど、とりあえずもっと強くなりたいから。もう無力はいやだって、あの時心底思ったから、強くなりたい。守りたいから」
遥か昔に宣言した誓いを再び言う。それはフィンスの信条であり、生き方そのものである。守るために、力を振るいたい、とフィンスは言う。その守るものというのは自分主観であって、全体から見たら守っているわけではないのかもしれない。
でも、大切な人を守りたい。フィンスはそういうのだ。
『それがあるなら、大丈夫だろう?』
「……うん」
ほっと息をついてフィンスは頷く。
『ならば行ってこい。自分の信条を守るために、だろう?』
「うん。……今更戻るのは恥ずかしいなぁ」
フィンスが苦笑する。ネロも小さく苦笑すると、まぁ、好きにすればいいさと言葉を残して影へと消え去る。その刹那、フィンスがほんの少しだけ寂しげに顔を歪めたのに気づいてはいたが。
そして、静寂がフィンスの周りに満ちる。優しく、包み込むように。
フィンスはふと窓から外を見る。ここは一階。当然外は対してみえない。だが、フィンスは無言で見つめ続けた。彼女が見ていたのは、外の風景なのか。否、彼女が見てたのはそこではない、遠いどこか。とどかない過去の記憶へと心を寄せる。
――コツン
小さな足音が静寂を切り裂くようにして鳴る。フィンスはその音にピクリと体を動かすも、振り返らず見つめ続ける。
足音を鳴らしたのは、一人の教師。純粋に、普通の国民として普通の感情として。魔王を嫌い、たまたま身についた力をそのために役立てようと思った、普通の帝国の国民。ゆえに、裏を知らず。
「――っ」
息を鋭く止めたのが、感じられた。それは、フィンスの背中に漂う哀愁の念からか。無言で窓を覗く少女と、その背中を震えながら見つめる教師。
永い、沈黙が続いた。それは、むしろ心地よいものでさえあっただろう。
見てはいけない。教師は心の中で小さく呟き、踵を返そうとした。そのときフィンスが始めて口を開く。
「貴方は……死ぬほど何かを恨んだことはありますか?憎んだことはありますか?」
それは、教師に向けての言葉か、否か。それは本人にしか、本人にさえわからないのかもしれない。息を止めてフィンスの言葉に耳を傾ける教師は、答えられない。
「私はありますよ」
唄うように、悲しげに、儚く、寂しげに。今にも消えそうなほど儚い空気を漂わせながら言葉は紡がれる。
クスリ、と少女が笑みを漏らした。だが、それはとても悲しくて。
「ひどく、耐えられないほどに憎くて、憎くて」
その声にこもる強い感情。嘘ではないと、そう感じさせる強い思い。
「でも、私にはなにもできなくて」
ふっと、少女の言葉から力が抜ける。無力であったと、そう語る少女はやはり壊れそうな空気をまとっている。
「そんな、耐え難い思いを」
最期の言葉だけは、確実に。教師に向けて放たれていた。
「貴方は、感じたことがありますか?」
ほんの少しだけ傾けられた顔が、少女の頬に流れる一筋の涙を映し出す。教師は、ハッとしてその表情を見つめる。
囁くような声にこめられた、今にも爆発しそうなほど強い感情。それを無理やりに押し込めて紡ぐのは、いかに辛いことか。表情に映し出される壮絶な感情に教師は強く胸を打たれる。
「――失礼、言葉遊びです」
諦めたように、何かをいつくしむように、小さく微笑むと少女はまたその顔を隠す。教師には、それを見る権利はない。
「すみません、何か用があったんですよね」
どうぞ。少女はそういってまた無言になる。先ほどまでの強いささやきが嘘であったかのように落ち着いて。
「いえ。あなたにもきっと待ってる人がいるでしょうから、早く行ったほうがいいですよ」
教師は、初めて声をかける。そんな、無難な返答しか返せない自分を恨みながら。
クスリ、と少女はまた小さく笑った。
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気づいてはいた。当然。
何故あんな呟きがもれたのだろう。私にもわからない。
それでも、何故か出てしまったのだ。つい先ほどまで感情を吐き出していたからだろうか。まさか。
切り替えは悪くないほうだと思う。なら何故言ってしまったのだろう。
彼女は、教師だろうか。授業を受けた記憶はないが、見たことはある気がする。
ああ、たまらなく辛かった。目の前で大切な人が死のうとしているのに、なにもできない無力な自分。守りたいと思ったのに。
守れる力があるのにそれを使わないのは罪だ。もう、私には何もない。そう思ったこともあったけれど、ネロたちに会って、彼らだけは守りたいと思った。あとは、リエラ。
少しずつ、大切な人が、大切だと思える人が増えてきて嬉しいと思う。だが、同時に怖くもある。また、大切な人を目の前で失ってしまうのではないかと、怖い。
いや、ならばもっともっと強くなればいい。もう何も失うことなんてないように、私がすべてを守れるように。あんな辛い思いはしたくないから。
だから、こんなところで立ち止まっている暇はない。そんなことはわかってる。わかってるけど。
今だけでいい。今だけで良いから――
泣かせてほしい。
遅くなりました。本当にすみませんでした……。
最後のシーンはずっと前から書きたいと思っていたもので、だから納得のいかないつなげ方にはしたくありませんでした。
フィンスの隠し続けていた感情。それが爆発した今回。初めて弱さを見せた少女は、それでも歩き続ける。
少しでも、少女の心が感じていただけたならば。