4 空の青さ【Epilogue・完】
マサチューセッツ地区会議事堂。ギリシャの神殿風の美しい柱に支えられた張り出した屋根があり、黄金色の丸い屋根があることで印象的になっているこのレンガ造りの建物は、アメリカ合衆国時代からの建築物だ。優雅なはずのこの建造物は、スプレーアートで汚され、レンガがいくつも欠けている。暴動の際に多くの民衆が侵入したのだ。
「ぼくが十歳のときからいるのがこのボストンなんだ。父の家も近い」
ルイは懐かしそうに空を見上げた。懐かしむほどの期間離れていたわけでもないだろうに、彼は長い間ボストンの真っ青な夏の空を眺めていた。
ここにはサンドたちだけでなく、ライリー、リリー、トウジも来ていた。聡一郎はソピアー社の新CEOとして参加しなければならないということで、連れてこられていた。あの日以来、聡一郎の手には枷はない。
「……すごいことになってるな」
トウジがつぶやく。レジスタンスたちが銃を持って警備を行う必要があるほど、敷地の外には怒りに燃える人々でごった返していた。会議のほとんどの参加者が中に入ったあと、鉄の門柵は閉じられて、そこに多くの人が押し寄せてきていた。道路も、向かいにある巨大なレリーフの前も人で満ちていて、遠くで車やオートバイクのクラクションの音が聞こえる。閉じられた柵がギシギシと鳴る。怒り狂った顔、顔、顔。いくつもの罵倒が飛ぶ。クソガキ! と誰かが叫んだ。ルイはそれに向かって微笑んだ。レジスタンスが用意したカメラはルイのみを映し、それ以外の報道陣のカメラは群衆も込みで彼を映し出す。報道陣は敷地内にも、外にもいた。ルイの姿は全世界から見られていた。
ここに来るまでの護送車から見えたボストンの風景も、惨憺たるありさまだった。清潔で美しかった街は汚され、壊され、街路樹は野営のための薪として切り倒され、道端は着の身着のままで暮らす人々で溢れ返り、子供が恨みがましい目でこちらを見つめてくる――。そんな景色がボストンで広がっているのは、トウジにとっても驚きだった。ルイはどんな感想を抱いているのだろう。微笑む表情は何も見せてはくれなかった。
会議事堂に入っていくルイに、聡一郎がついていく。引き締まった表情だ。他の会議に参加する人々も、入場証としてリングで身分を表しながらそれに続く。トウジは参加するつもりがなかった。用事があったからだ。
「ルイはどうしてる?」
トウジの新しいリングに、ケネスから通信が入った。彼は相変わらず汚れたままで、まだ島を出られずにいる。ドームの人々は少しずつ、船を使って脱出しているらしい。ドームの外の人々との接触が断たれて情報が途絶えたときや、ドームから解放されるとわかったとき、混乱は当然起こったし、何十人もの人が死んだ。ケネスは何とか生き残った。しかしトウジの父はそうはいかなかった。人々がドームを出るとき、小さな男の子を群衆のもみ合いから救って圧死した、と説明を受けた。不思議と涙は出なかった。置き去りにした父が、誇りを失わなかったことにだけ安心した。
「もう会議は始まったよ」
トウジは返した。
「しかしまさかだよな。ルイが実は生きてて、世界を救う、なんて……。フィクションみたいだ」
「そうかな。ルイはそんなに英雄的じゃないよ」
「何言ってるんだよ。すげーじゃん」
「それよりお前の話を聞かせろよ。あのあと、よく処刑されなかったな」
「ああ、まあな。タイミングだよ」
「生きててよかった」
「これからは余生だよ、感覚としては。まだ十五歳だけど」
ケネスは顔をしわくちゃにして笑った。また顔を見られてよかった。こうやって生きている彼に会えた。トウジはかすかに微笑んだ。
トウジは芝生の上にあぐらをかいて彼と通信をしていた。時折銃声が響く。敷地ギリギリまで押し寄せている群衆への威嚇だ。しかし彼らの声は次第に大きくなり、一つの形となり、具体的な声となる。彼らはいつの間にかこう叫んでいた。
「世界を壊したルイを殺せ!」
リズミカルに、そのスローガンは流れていた。
だって、世界政府はひどい政治を行っていたじゃないか。
トウジは茫然としながらそう思った。彼らは元に戻りたがっている。管理された階級社会に。まあまあの苦しみはあるけれど、他人よりはましだと思えるあのころに。
ルイが作った一週間と少しの大混乱は、人々をルイへの憎しみに駆り立てていた。
「どうした?」
ケネスが訊く。
「いや……。ルイはこれから身を隠す必要があるかもしれない」
「何で?」
世界を壊したルイを殺せ! 世界を壊したルイを殺せ! 世界を壊した……。
終わりのないコールは、トウジにとっての世界の実在感をぐらぐらと揺さぶった。
五時間にも及ぶ会議が済み、ルイは聡一郎と話しながら外に出て来た。意外なことに、聡一郎に笑いかけている。トウジに顔を向け、手を上げる。トウジは青ざめたまま同じように挨拶をした。群衆の声が高まった。
世界を壊したルイを殺せ!
聡一郎は動揺していたが、ルイは冷静だった。確かに、わかりきっていたことだった。秩序を失った群衆の怒りは、世界政府を転覆したレジスタンス、特にルイに向かうと。
ルイはトウジのほうに向かってきていた。群衆が集まる柵にもどんどん近づいてくる。柵がきしむ。壊れる寸前だ。乗り越えようとする者がいる。警備をしている彼の仲間がそれを自動小銃の銃床で叩き落とした。
世界を壊したルイを殺せ!
「なあトウジ」
世界を壊したルイを殺せ!
「ぼくに足りなかったのは愛なんかじゃなかったよ」
世界を壊したルイを殺せ!
「ぼくには何にも不足してなかった」
世界を壊したルイを殺せ!
「ただ、ぼくが何も愛せなかっただけなんだ」
世界を壊したルイを殺せ!
「お前は違う」
世界を壊したルイを殺せ!
「お前はぼくが壊した世界を、修理してくれるはずさ」
突然、ルイが走り出した。ライリーが叫んだ。リリーは彼女を抱き止めた。きっと知っていたのだ。ルイは柵に向かって行くと。トウジは素早く走るルイの腕を掴もうと、全力で飛び出す。けれど腕はするりと抜け、ルイは清潔なシャツに空気をはらませて駆け抜けた。トウジは必死で叫び、追う。どうして、どうして、と何度も言葉が浮かぶ。お前はこんなこと、するようなタイプじゃなかったじゃないか。
止めようとする支援者の手を逃れ、彼は勢いよく柵の上によじ登った。群衆の興奮はピークに達した。彼は一番上まで着くと、手を広げ、群衆の中に倒れ込むように落下した。トウジにはそれがスローモーションのように見えた。ゆっくり、ゆっくりと、彼は彼を殺そうとする人々の元に落ちていく……。最後の瞬間、腕が、何本も伸びて彼を引きずり込んだ。
ルイを殺せ! ルイを殺せ! ルイを殺せ!
彼は見えなくなり、群衆は膨らんだ。
殺せ! 殺せ! 殺せ!
しばらくして浮き上がってきたルイらしいその体は、遠くに運ばれていった。もう、生きている気配はなかった。
*
ルイを生贄に上げたかのようなあの日、会議は成功していた。そこで決まった青写真は、世界を作り直すのに相応しい、理想に満ちたものとなった。差別のない、自由で、美しい、全てを受け入れる社会。会議では様々なバックグラウンドを持つ人々が意見を言い、ルイが取り仕切り、それだけが決まった。これがうまく行くか、理想だけが先走って全てが元の木阿弥に戻るかは、その後の世界の人々次第だった。若いルイが仕切ったことで、これを若者の感傷的な世界観が現れたものにすぎないと揶揄する大人たちもいた。暴動はその後も続いた。しかし、トウジはルイが死んだことでそれを絶対に守り抜くべき理想だと思った。
その後も多くの法令と、多くの仕事が決められた。リングはこれまでとは違うルールで運用されることになり、テクノロジーを発展させるため、ソピアー社が取りつぶしになることはなかった。階級制度は廃止され、それに基づいた差別は社会で禁じられるものとなった。資産は今のところ、まだ元新大陸人が多くを有する。しかし法令によってそれはほとんど社会インフラや福祉のために使われている。多くの人々の尽力で、着実に新しい世界は生まれ始めていた。
これらの決定をレジスタンスに不満を持つ人々やレジスタンス自身に完全に呑ませるには、何かを犠牲にして冷静さを取り戻させる必要があった。ルイは、わかっていて飛び込んだ。カメラが彼の姿を捉えていることを、利用した。彼が殺されるその瞬間を、全世界の人は見た。人々は彼を平和のための犠牲の羊だと考えた――。そのことが、トウジの心をざわめかせる。もっと別の方法があったのではないか。あれから三年も経ったというのに、彼は何度も自分に問い続ける。
ソピアー社新CEOの聡一郎は、彼の恋人であるオリビアに会うためにイベリア半島に向かっていた。彼のリングは彼女と通じていて、穏やかに会話を交わし、久しぶりに会える恋人に焦がれていた。彼は生きようとしている。何をしてでも。実際彼は今でもほとんどお飾りのCEOだが、少しずつ、仕事を覚え始めていた。何もできないトップなんて、引きずり降ろされても文句を言えないからな。トウジにはそう言って笑った。
ライリーことメロディーは、その後しばらく泣きじゃくっていた。しばらくトウジたちのいる本拠地でも姿を見せなかったくらいだ。しかし、彼女を迎えに来た人物がいた。トマス・アッシャー、彼女の養父だ。一緒に暮らそう、と彼は言った。母さんとアーサーとメアリーとヘレンと、一緒に暮らそう、コリンの分まで。彼女は断った。家族のことが大嫌いだったのだ。
けれど彼が何度も来るうち、考えが変わってきたようだった。彼がやっていた研究は許せないし、彼が書いた手記も研究のために交わした彼の妻との会話も本心だろう。けれどそれだけが本当の部分ではない、と彼女は気づき始めたようだった。結局、ひと月後にメロディーは家に戻った。
リリーは生きることに苦痛を感じている。何度か手首を切り、救急車で運ばれた。彼女は押し流されていくルイの遺体のフラッシュバックに苛まれている。でも、彼の決意を変えることは彼のためにならないと思っていた。彼を支えることが彼女の使命だった。彼の王妃としての彼女の。
トウジは忙しく動いている。秩序を取り戻しつつある社会で、ルイに託された使命を果たすため、世界中を飛び回り、頻繁に開催される世界会議に参加する。彼はルイのようにうまくはできない。けれど、信念を持っているから、滅多にめげることはない。
雲一つない真っ青な夏の空の下、トウジはマサチューセッツ地区会議事堂の敷地に入り、あの日群衆がひしめいていた往来を眺める。オートバイクと自転車が、それぞれ一台ずつ通り過ぎる。向かいの歩道を人々が歩いている。右手の巨大レリーフは今でも存在している。
「なあ、トウジ」
ケネスが声をかける。今度は隣にいる。彼はボストンで清掃員を始めた。副業をいくつもこなしながら、彼はしぶとく生きている。映画監督になりたいのだという。いつか映画を撮るんだ、あの時代を、映画として残すんだ、そう息巻いている。彼は真っ赤な髪の下の白い顔をトウジに向け、こう問う。
「ルイは、すごかったよな?」
トウジは考える。そして、空を見上げ、ただその青さを目に焼きつけた。答えは決まっている。
《完》




