第十話 昇格試験Ⅲ:犠牲と救援の選択
悠然と佇むその魔物を前にして、俺たちは動くことが出来なかった。こちらを睥睨する目の前の巨大な眼に、心臓を掴まれるような錯覚を押し付けられていたのだ。
「っ、リューヤ!」
しかし、その静寂もつかの間。
動かない体に活を入れるために唇をかみ切ったのか。リンが口から僅かな血を飛ばしながら、こちらに向けて叫ぶ。そうなれば、俺の体も――動く。
咄嗟に目を合わせ、俺たちは同時に行動を決定する。
このまま二人で足掻くのは、無謀であり無駄である。ならば選択肢はたった一つ。
すなわち、逃走のみ。
即座に振り返り、俺たちはリンを先頭にして一心不乱に森の中を駆けていく。
「どうするリン、逃げるにしても適当じゃ意味ないぞ! いつかは追いつかれる!」
「分かってるわよ、だから今考えてるんじゃない!」
逃げながらも今後の相談を行う俺たちの後ろからは、バキバキと木々を破壊しながらサイクロプスがこちらを追ってくる音が聞こえる。
その視線はまっすぐに俺たちの背中を捉えており、そう簡単に誤魔化せるとは思えなかった。
「まずコイツの特徴は!?」
逃げながら、俺は叫ぶようにリンへと問いかける。
ギルドで魔物についてはいくつか調べてきているが、こんな強力な魔物に出会う機会なんてまだまだ先だと考えていたために情報がない。
そんな俺に対し、受付嬢であるリンはその知識を存分に披露してくれた。
「サイクロプス、ギルドランクで藍色相当に分類される魔物よ。特定の住処を持たないで、常に徘徊して獲物を探しているの。一度獲物の集まる地域を見つけたら腰を据えて、そこに存在する生き物を粗方食べつくしてからまた移動する、その繰り返しで各地に被害を与えるの。だからここに居ても、不思議じゃないんだけど……。それならこの周辺での目撃情報が見られてるハズでしょ? でも、そういった報告はギルドには来てなかったわ」
「……んじゃ、なんだ? こいつはここに突然出現したってことか?」
「そんなわけないでしょうに。理由は分からないけれど、何らかの人為的なものだと思うわ」
この辺りにこのサイクロプスを放ったところで、与えられそうな被害は木材関係が精一杯だ。ミナト村を破壊するにしても、それならもう少し村の近くに出現させるだろう。
……まさか今日ここに来る予定だった俺たちを狙ったわけでもないだろうに。
「ま、そういった事は後で考えようぜ。問題は、この状況に対して俺たちはどうするかだが。まさかまだ試験が続いてる、なんて言わないよな?」
「馬鹿なことを言ってないで。もう少し生産的な話にしなさいよ……」
「おれは少しでも気楽にいこうと思ってだな? ――じゃあ、そうだな。ちなみにリンはこのサイクロプスをどうにかする事は出来ないのか?」
冗談半分にそう疑問を投げかける。すると彼女は一瞬だけ視線を明後日の方向に向けた後、気まずそうにその腰に下げた二本の剣に目を下げた。
「……ちゃんと準備すれば、余裕よ」
「マジですか」
どうやら本来の彼女ならば、後ろに迫りくる暴威を相手にしても問題ないようだ。
「でも今は、こうなるとは思ってなかったから……。剣もそこそこのモノだけど、藍色級の魔物を切り裂くには今一つだし、魔法も発動媒体がないと効果が薄いのよ。道具袋の中も飲み水くらいしか入れてないし、持久戦すら無理ね」
「なるほど」
このままただ逃げ続けるだけでは先にこちらの体力が尽きそうだ。加えて討伐することも無理、と来た。
「とりあえずはそう、応援を呼ぶことね!」
「どうやって? 村の連中に、こいつを相手どった立ち回りが可能なのか?」
森に侵入する前に話した限りでは、あの村の中にいる人々には戦闘力は余り無い。それこそ時折現れるゴブリンのような低級魔物には対抗できるんだろうが、今俺たちの背後に居るような強力な魔物相手であれば短時間で戦力非戦力構わず磨り潰されてしまうだろう。
それにはリンも賛成だったようで、無言の返答が暗に俺への同意を示していた。
「……つまりはこういう事だろ? 村に行かせる訳には行かない以上、俺たちでコイツの注意を引き続けなければならない。加えて、村の連中に接触も出来ないから、助けを呼びに行ってもらうこともできない。それなら、俺たちの内どちらかがコイツを引き付けて、もう片方が救援を呼んでくるって手しかないんじゃないか?」
そして、その前者における犠牲の役割を果たさなければならないのは――俺だろう。
「な、馬鹿なことを言わないで!」
「どこが馬鹿なんだ? いやまあ、自分の命を捨てるような意見なんか確かに馬鹿げてるけどさ、無駄に大勢の命を捨てるよりは、一人を捨ててその他を救うってが正しいやり方だろう?」
「でも……」
背後を見て、言い淀むリン。
俺たちの後ろでは、木々なぞ何の障害にもならないとは言わんばかりにサイクロプスがその巨体で全てをなぎ倒して迫ってきている。
まさか自分が一人で、あれを相手にしなければならないとでも思っているのだろうか。
「あ、もちろん囮は俺の方な」
「猶更ふざけてんじゃないわよ! それなら実力のある私の方が……」
「俺は街までの道も覚えてないんだから、たどり着くまでに時間がかかるんだよ。町の人間に案内を頼んでも、多分お前の方が早いだろ。あれだけ馬をかっ飛ばしてたんだし」
「……でしょうね、ええ。確かにそうよ。でも……」
この期に及んで、決断が煮え切らないリン。
その背を押すように、俺は近くに落ちていた石ころを奴目掛けて振り返りざまに投げつけた。
放物線を描いて飛んでいった石ころは、うまく奴の眼へと当たった。
流石に高ランクの魔物だけあって、その程度では傷一つすら負わせることが出来なかった。
それでもそれなりに痛かったようで、これまで二人に向いていた注意が俺一人へと集中する。
「お前も高ランクの探索者なら、分かっている最善の手を取るべきだろ! 分かったらさっさと行け!」
サイクロプスから向けられる半ば殺意の入った睨みつけを無視し、俺がリンを睨み付ける。
そこまで来てようやく彼女は覚悟を決めたようで、急にギアが変わったかのように走る速度を上げた。
「……分かったわよ! ただし! 戻った時死んでたら、あの世で会った時に改めて私が切り刻んでやるからね!」
「鬼かお前は」
とてつもなく恐ろしい一言を口にし、リンはそのまま飛ぶように去っていった。
にしても、死んだ後でさらに殺すとか鬼畜過ぎる。これは猶更、死ぬことはできないな。女を怒らせたら恐ろしいのは、たった十数年しか生きていない俺でもはっきりと知っている。
……さて、と。
「それじゃ、テメェの相手はこの俺だデカブツ」
リンが見えなくなったところで、サイクロプスの方を向いて暴言を吐く。
相手の放つ圧倒的な気迫に飲み込まれないよう、自身の気を強く保つために。
どうせ一時間も持たないだろうが、それだけあれば村から出来るだけ離れたところに引き離すこともできるだろう。そうしてこいつが次の獲物を求めて彷徨っている内に、応援に来た部隊がこいつを始末してくれる。
「……とりあえず、もう一発位やってから逃げるか」
もう一発、今度ははっきりと奴の目玉目掛けて俺は石を投擲する。先ほどのちゃらんぽらんな投げ方とは違う、かつて授業で習った通りの投法を使って。
逃げる足を一旦止めて、手の中にしっかりと石を握り込む。そして、軸足からの体重移動をスピードに乗せつつ、腕をしならせるように――放つ。
標的は先ほどと同じ、奴の額の中心に位置する巨大な眼球。
奴は、また獲物が無駄な抵抗をしているとでも思ったのだろう。先ほどと同じように、特に防御するような素振りを見せないままこちらへ突っ込んでくる。
だが、先ほどの一発は態勢もろくに整えないままの素人の投げ方だ。速度も時速四十キロ出ていたかどうか。
それに対し、今回の投げ方は確かな知識に裏打ちされた一撃だ。それに加えてこの体は、この世界に来てから急に調子が良くなっている。重い刀を扱うにも抵抗なく振るうことが出来るほどに。
そこから放たれる石の投擲は――まさに、攻撃と呼ぶ事が出来る威力を出した。
寸分違わず奴の瞳の中心に命中した石ころは、衝突と同時に轟音を立てて破裂した。
その光景が語るように、たかが石ころの一撃も相当の威力を持っていたようで……なんと、奴の誇る巨体を一瞬のけぞらせるほどの威力を誇った。
こちらの想像をはるかに超えた結果に、俺自身目を剥いて驚いた。
「……嘘だー」
もちろん、嘘ではない。
それを示すように、改めてこちらを睨みつけるサイクロプスの瞳からは僅かに血が流れ出ていた。
ただ、そんな少しのダメージを与えられたことによる喜びを一瞬で沈下させるほど――奴の怒りに充血した殺意の視線が、鋭く俺を射抜く。
「ま、まあ? 注意を向けることには成功したわけだ。……そのせいで俺の死期が更に早まったような気もしなくはないが」
よし、逃げよう。
慌てて背を向け、かけ始めると共に巨大な遠吠えがビリビリと森の中を揺らす。
ただの獲物としか見做していなかった相手に、僅かでも傷をつけられたことが奴のプライドに触ったのか。
完全にキレた奴が、ついに本気を出してこちらを追いかけ始める。
「オォオオオオオォォォオオオォォオオオオオオォッ!!」
地獄の底から響くようなその声は、大地を揺らし空を割る。まさに迫りくる暴威の嵐となったサイクロプスは、こちらへと憤怒に身を任せ襲い掛かってくる。
「わっはっは、捕まえられるものならやってみな――って、うぉっ!?」
空元気ついでに挑発を重ねていると、後ろからは奴がその手で振るう棍棒によって管からた木々の破片が飛んでくる。
それどころか、折れた木を引っこ抜いて投げつけてくる。
それらを危なげに回避しつつ、俺は来た道とは反対の方へ向かうように少しづつ横へ曲がりながら道なき道を進む。
「なんか、こういうのって妙にテンションが上がるなぁ……少々楽しい」
無論、そんな訳はない。言葉に出して、現実の危機感に震えないように自身を鼓舞しているだけだ。
ただ――本当にそうなのだろうか。
本当に今の自分は、絶体絶命とも言えるこの現状に、怯えているのだろうか。
押し殺しているハズの、心臓の動揺。後ろから着実に近づいてくる、暴力的な死神の足音に俺の心は締め付けられるような苦しみを与えられている……のか?
だが、それよりも、そんなモノよりも。
もっと強く叫ぶ本能が、高揚感が。俺の頭の中を滾る血流と共に駆け巡っているような、そんな錯覚が俺に語り掛けているように聞こえる。
――戦え、と。
「いや、そんな馬鹿な……」
確かに、サイクロプスに斬りかかってみたいという心がない訳ではない。
しかし今の俺の役割はあくまでも囮であり、リンが助けを呼んでくるまでの時間を稼ぐこと。もし一瞬でやられたなら、そこからサイクロプスはまた餌を探しにミナト村まで足を運ぶかもしれない。
そんな状況の中で、戦わなければならない理由はない。
だが、この世界に来てから俺も多少なりとも成長はしてきたと思う。
力仕事だって難なくこなせるようになったし、ゴブリンだって余裕をもって倒せるようになった。
そんな今の自分を、試してみたい気分がないとは言えない。
けれども、それをやってしまえば一瞬で死んでしまうことも想像できる。
それを理解している理性を、戦えと叫ぶ何かが揺らし続ける。
「そう、戦ったところでどうしようもないし、これはあくまで俺の自己満足に過ぎないんだから仕方がない……」
――ならば、勝てば良いのだろう?
俺の言葉に応えるように、心の底から返ってきた答えが脳内に響き渡る。
そんな声を頭の中から追い出すように、俺は首を振って改めて現状を整理する。
「そう、時間を稼ぐためにサイクロプスから逃げ続ける……俺がすべきことは、ただそれだけだ」
迷いを振り払うように、俺は目の前に存在する障害へと意識を向ける。
そろそろ人が入るために整備されていた範囲を抜け、雑草や茂みが多くなってくる。足に絡みそうなものを手に持った刀で切り払い、踏み固められていない地面を転びそうになりながら急ぎその先へ抜けていく。
だが後ろからこちらに食らいつかんと迫ってくる巨体には、この程度は障害にならないらしい。
体に絡みつく蔓や枝は力任せに引き千切り、それ以外の邪魔なものはやたらめったに振り回す棍棒によって砕かれていく。
まさに野生と言わんばかりのその振る舞いは、一向に留まることを知らない。
大気を割く轟音を伴うその一撃一撃が、次に足を止めた時がこちらの最後になると教えてくる。
駆けて、駆けて、駆けて駆けて駆けて――。
ひたすらに逃げ惑う内に、俺はやがて行き止まりにたどり着いてしまった。
森林を二つに割るような、幅の広い大河。
それが俺の目の前を、向こう岸と隔てていた。
泳いで渡ろうにもそこは遮蔽物なんて何一つない水面だ。
近くに立っている木々を引っこ抜いて投げるには簡単に照準を合わせられるだろう。また、この水面を前にして頭が冷えて、泳いでこちらを追うことを諦めて村の方向へ戻っていく可能性も考えられる。
「……さて、どうすれば良いのやら」
そう考えて――俺は、足を止めてしまった。
刹那、暴虐の足音が止まる。
振り返れば、そこには蒸気のような白い吐息を吐き出し、全身から熱を上げて興奮した様子を隠さないサイクロプスが立っていた。
……その顔は、先ほどまでの怒りから一転して嗜虐の笑みに染まっている。
俺が泳げないと勘違いしたのだろうか。ともかくこれ以上逃げようとしない態度から、奴はついに俺を仕留められると思ったらしい。
少なくともその愉悦に歪んだ笑みからは、楽に殺してくれそうな気配は感じられない。散々こちらを甚振って遊び道具にしてから、殺す算段でも立てたのか。
「まったく、少なくとも、絶対に碌な終わり方じゃあないよな」
異世界に来てまだそんなに経っても居ないのに、もうバッドエンドにたどり着くとは。
俺はため息をつきながら、腰に佩いた刀を抜いた。
「さてさて、ここからどうやって更に時間を持たせるか……」
奴を相手に応戦しながら、その後ろへ回り抜けて逃走劇を再開するか。
それともこの場に留まって奴と戦うことで、地道に起死回生のチャンスを狙うか。
いずれにせよ少しの間は、戦わなければならないことには間違いない。
「死にたく、ないなぁ」
ちょっとでも判断を間違えれば、その瞬間奴の棍棒は俺の体を打据えるに違いない。それがどこに当たろうとも、俺は瀕死の重傷を負う事間違いなしだ。頭部を綺麗に吹っ飛ばされるだけならともかく、足や胸に当たって行動不能になるのだけは避けなければ。
「……俺に、出来るのか」
そう都合よく、恐怖心を克服して精密な動きを以てして奴の動きを回避できるのか?
そんな不安が、急に心の奥から湧いてきた。
ただでさえ逃げる間はそのことに集中していたおかげで封じ込めることが出来ていた脅えが、改めて対峙するこの状況になって復活する。
手に持った刀が、カタカタと震えだす。
その姿を見ても、目の前のサイクロプスは動かない。
ただケタケタと、こちらを見て笑っている。その瞳に着けられた傷は既に治癒しており、流血も止まっていた。怯える俺の様子を見て楽しんでいるとは、なんとも悪趣味だ。
他に、何か取れる手はないのか。
戦わずして、奴から時間を稼ぐ方法は。
――そんな都合の良い方法が、そこらへんに転がっているとでも?
往生際の悪い思考を巡らせていると、そんな当たり前の答えが内側から返ってくる。
――もしそうだとしたら、今頃は世の中に都合の良いことばかりが溢れかえって、誰しもが幸せになっているだろうさ。
分かって、いる。
――誰もがそんな幸運を持ち合わせていない。幸運に身を任せて成功する奴なんてのは、ほんの一握り。それ以外の人間は、ただ自身の力を持ってその不幸を戦い抜くことしかできない。そして、血を流し、痛みを堪え、その先を見出した者こそが生きる資格を手に入れらえるのだ。
それしか、もう自分には残されていないのだと。
――ならば、覚悟を決めろ。奴との不条理な戦いを生き抜き、そして未来をその手に掴むために。汝は既に、必要な欠片を揃えているのだから。後はお前の、覚悟次第だ。
俺の持つ、戦うための力。
この世界に来て手に入れた、今現在切っ先をサイクロプスに向けている刀。
そして――武神の寵愛。
そこに俺の戦う意思が備わることで、ようやく活路を見出すことが出来る。
それならば。
「やるしか、ないよなぁ……ッ!」
刀を握る手の震えが、止まる。大地を踏みしめる足が確かに地面を捉え、身体の重心が安定する。
噛み締めた顎がギリギリと音を鳴らし、その覚悟を強く心の中に刻み付ける。
気づけば、目の前のサイクロプスも笑うことを止めていた。獲物か怯えた表情が消えたかと思えば、次にそこに現れたのは戦意に満ちた別人のような顔。
「それじゃ、やれるだけやってみようか――」
――否。勝利を手にするその時まで、その手に握る剣を振るい続けろ。その内は、私の与えた加護もお前を見捨てることはない。
どこかから聞こえる、そんな、女性の声を聞き流しながら――俺は一歩を踏み出した。




