兆し
オバジーンの城へ降り立つ一人の男がいた。
背中まである艶やかな髪は緑を帯びた黒で、同色の瞳は細く冷たい光を放っていた。薄い唇は冷淡なその風貌に合っている。
彼の名前はトータム・メイル。同盟国グランブルーの宰相であり、事実上政権を司っている。
やがて、謁見の間に辿り着いたトータムは、女王マリーナの前に跪いて挨拶をした。
「女王陛下におきましては、ご機嫌麗しいことと存じ上げます」
「あなたも壮健で何よりです」
社交辞令を交した後、立ち上がって振り向いたメイルと列中のトレスが目が合った。
鋭く冷ややかな瞳に一瞬、謂われ無い震えがトレスを襲い、視線を外すこともできず固唾を飲む。
戦いにおいても気負けしなかった彼が、自分の秘密を見透かされたようなその眼差しに身を固くしていると、異変に気付いたノーサが小声で訊いた。
「どうした?」
ここでやっと体が解れてぎこちなくノーサを見たが、その表情は青冷めている。
「なんでもない」
「ならいいが顔色が悪いぞ」
時間にして僅か数秒の出来事だったが、トレスを恐怖の柵を感じさせるには充分だった。
王座を後にするメイルを目の端に追いながら、トレスは己の臆病な心に固く握った拳を振るわせた。
出勤時間となった空は部屋で仕事着に着替えると、机に置いてある瓶に活けてあるブーケに囁く。
「行ってきます」
庭園でマリーナとトレスが二人並んだ姿に嫉妬したが、自分の為に恥を捨てて花嫁のブーケを得た彼の想いを信じることにした。
-たとえトレスが何者でも構わないって決めたじゃない。
部屋を出て厨房へ向かう途中で、首に掛けている『奇跡の石』がほのかに温かくなっているので紐を手繰り寄せて手に取ってみた。
いつもとは違う石の色に、空は焦る。
-これってトレスに教えた方がいいのかな。
このペンダントは異世界へ来て言葉や文化の分からない空の為に、トレスが貸してくれたのである。
だが、厨房と近衛隊のいる位置はあまりに離れているので即座に伝えることは不可能と途方に暮れていると、こちらへ歩いてくる赤毛の女剣士を見掛けて追い掛けた。
「フローラさん!!」
「えっと……、ソラだったな。私に用か?」
フローラが、切れ長の目を細めて空を記憶から探し出す。
「あの、トレスに会う予定はありますか?」
「トレス? ティエラ・トレスのことか?」
「はい。伝えたいことがあるんですけど」
よほど急用なのか空の切羽詰まった様子に、フローラが引き受けた。
「予定はないが急ぎなら伝えておくぞ」
「よかった。時間が空いたら、私の所へ来るようお願いします」
出勤時間が迫っていたのでそれだけ伝えると、フローラに一礼して小走りで厨房へ行ってしまった。
-トレスの知り合いか? それにしては、呼び捨てとは聞き捨てならないな。
今は同盟国の宰相が女王に謁見している頃だから、その付近にいれば会えるだろうと行ってみると、謁見の間から出てくる人々の切れ間に藍色の髪を見つけて駆け寄る。
「やあ、フローラ。こんな所まで出迎えかい?」
その隣にはノーサがいたが、フローラは険しい表情でトレスを凝視していた。
「なんだ」
「お前は、ソラという娘を知っているか」
「ああ」
「トレスを助けた異民族の娘だよ」
「なんだって!?」
それは青天の霹靂だった。
フローラの目が見開いて、トレスの襟に掴みかかる。
「聞いてないぞ!!」
「それより空がどうしたんだ」
メイルの件もあったトレスは面倒とばかりに先を促すと、思い出したフローラがあっさりとその手を放した。
「そうだった。あの娘が、時間が空いたら自分の所へ来てくれと言っていたぞ」
自分に気遣って会おうとしない空が、フローラに頼んでまで伝えたいこととは何なのか心がざわつく。
「行ってあげたらどうだ? 幸い次の任務まで時間があるし」
友人に背中を押されたトレスは、ロングコートの裾を翻して走り出した。
また、空に災いがあったのだろうか。それとも、心が耐えられなくなったのか。
否、彼女の心配をするふりをして、メイルのあの冷淡な瞳から逃げたかったかも知れない。
空の笑顔で己の弱さを払拭したいがために、たまらず駆け出したのかも知れない。
それが剣士として、あってはならない感情を消す方法の一つなら縋るしかないのだ。
息を切らせて厨房へ到着したトレスは、オレンジ色のあの男を発見して一直線に向かっていった。
殺気立った彼の気配に、スレッダは蛇に睨まれたカエル状態だ。
-ま、また来た!! よりによって、なんで俺の所へ来るんだよ!! なんか殺気立っているし、肝心な時にソラはいないし……。
「ソラは何処だ!?」
「や、野菜園へ行って……」
トレスの鋭い視線に、タメ口を飲みこみ敬語に言い直す。
「……ます」
「野菜園だな?」
「は、はい」
トレスの姿が消えると、スレッダは脱力してしばし茫然としていると、マーサが声を掛けた。
「さっき、トレス坊ちゃんがいらしていなかったかい?」
「いました。というか、あの人はソラとどういう関係なんですか!?」
そうだねえ、と唸って答えぬまま持ち場へ戻るマーサに、またスレッダは混乱する。
-その含みのある台詞は、何なんですか!! ますます気になるでしょう!?
トレスと空の関係は、少なくとも友達以上恋人未満の域は軽く超えている気がするスレッダだった。
スレッダの言う通り野菜園へ行ってみると、空が一生懸命地面を掘っていた。
良く動く空は雑用を頼まれることが多いので、何処にでも出没するとトレスを苦笑させる。
空に近付くと、鼻歌交じりに作業をしている。どうやら、向こうで流行っていたアイドルの唄らしくアップテンポな曲だ。ノってきたの自分の下にある視界に、トレスの足が入りやっと顔を上げた。
「俺に用があると、フローラから聞いたが」
空が辺りを見回して誰もいないのを確認すると、小声で話した。
「ペンダントが温かくなったから、取り出すと石の色が変わっていたの」
リバルバが追って来た時と同じ現象に、トレスの表情が険しくなる。
「いつの話だ」
「今朝なんだけど、見る?」
トレスが頷くと、空が少し困った顔をした。
「ごめん。私、手が汚れているから取ってくれる?」
この時、空は本当に何も考えていなかった。
トレスから預かった大切な物として、他人の目に触れぬようしっかりと胸に仕舞っている。それを取るには、そのふくよかな胸元を覗きこまなければならない状況に、トレスは困惑する。
「やっぱり後でいい」
「なんで?」
「今、見ても元に戻っているかもしれないだろう?」
「見なきゃ分からないじゃない?」
なかなかペンダントを取ろうとしない彼を待つ空が、額から流れる汗を手の甲で拭った。
「くっ」
トレスの顔が失笑で歪む。
「何よ」
「顔……」
「顔?」
「汚れているぞ」
「ええっ!! 何処何処!?」
混乱した空が汚れた手で拭き、ますます顔に泥が付く様子をトレスは顔をそむけて笑いを堪えていた。
鏡代わりにと、磨き抜かれた剣を鞘から抜いて空に翳す。
すると、まるで昭和の泥棒みたいに口の周りが泥で黒くなっているではないか。
「やだ!!」
慌てて袖で拭う空に、トレスは先程の混沌とした負の感情が消え去っていくのを感じた。
「拭いてやるから動くな」
そう言ってハンカチを懐から取り出して、上を向いた空の顔を拭き始める。
伏せた長いまつ毛、ふっくらした唇、風でそよぐ栗色の髪。
自分の世界を捨てて、までついてきてくれたこの少女への愛しさが抑えきれず、そっと唇を近付けた。