その5
帰宅するバスの中で、トレスは掌にある物を見つめていた。
藍色の携帯電話。
それは退社時の出来事だった。飯尾から『ふくちゃん』へ急いで帰るように伝えられたの行ってみた。
「いらっしゃい」
久恵が明るく出迎える。
「急がせてごめんなさいね。店が混まない内に渡したかったから」
久恵が椅子を勧めたのでトレスも座っていると手元に置いていた紙袋を差し出した。
「はい、就職祝い」
「え?」
開けてみて、と久恵に促されて中から箱を取り出す。
「これ……」
携帯電話が入っていたので顔を上げて夫妻を見た。
「トレス君にぴったりの色でしょう?」
藍のメタリックな色合いは彼の髪とよく合っている。
「受け取れません」
「気に入らなかった? やっぱり黒がよかったかしら」
久恵が残念そうに呟いたのでトレスが首を横に振る。
「色々とお世話になっている上にこんな高価な物まで頂くわけにはいきません」
恐縮する彼に夫妻は顔を見合わせて笑っている。
「ほら、言った通りの反応でしょう?」
「恐縮されるような金額でもないんだよ。実は安くしていた物でね」
「……どうして俺みたいな人間にここまで親切にして頂けるんですか」
常々疑問に思っていた。空といい、飯尾といい、そしてこの杉本夫婦といい素性の知れない男に何故親身になってくれるのかと。
もはや、お人好しでは片付けられない程恩を受けている。
トレスの心情を察したのか福太郎が静かに話し始めた。
「この国に『一期一会』という言葉があるんだが、一生に一度だけ出会うという意味なんだ」
久恵も夫の隣に座って聞いている。
「この言葉が好きで店を開いたようなものだよ。だから、私は人の縁を大切にしたい。勿論、空ちゃんや君の人柄もあるがね」
福太郎の言葉に重みがあり、トレスの心に温かく浸み渡る。
「君は初給料で私達にも贈り物をしてくれただろう? とても嬉しかったよ」
「息子にも貰っていなかったの」
世話になっているんだから贈り物をしてやれ、と給料を貰う際に飯尾から言われたからしただけなのにこんなに感謝されると後ろめたさと気恥かしさでうろたえる。
「要するに私達ってお節介なのよ」と久恵が付け加えた。
杉本夫妻の好意を有り難く受け取り帰路に着くと部屋で空が待っていた。
「お帰り」
「ただ今」
いつもの他愛のないやり取りが今日は新鮮に感じる。
《一期一会》
まさしく自分とここにいる人達のためにある言葉だとトレスは胸を熱くする
もう自分の存在を疑うことはない。
空がオバジーンの自分を理解してくれて、周りの人々がこの世界の自分を知っている。
「今日、いいことあった?」
「どうしてそう思う?」
「なんか嬉しそうだから」
空にはお見通しかと先程杉本夫妻から渡された紙袋を差し出した。
「あっ、ケータイ!!」
「杉本さんから就職祝いに頂いた。使い方分からないから任せるよ」
「取り敢えず必要な人達を登録しておくね」
空は早速、藍色の真新しい携帯電話を慣れた手つきで操作し始めるとその鮮やかな指の動きにトレスは感心して唸った。
「大したもんだ」
「トレスも慣れた方がいいよ。これから必要になってくるし」
狭い所にごちゃごちゃとあるボタンと扱わなくてはいけないのかと考えただけで頭痛がしてくる。
一通り、設定が終わるとやっと顔を上げた空の目が何故か少し怖い。
「番号とかメアド、気軽に教えちゃダメだよ」
「教えるも何もやり方が分からないのに」
トレスは、これから習得せざるを得ない課題の多さにいささかげんなりしていた。
「女の人に貸してあげてもダメだからね」
これからは職場の人に誘われて『ふくちゃん』以外の店で酒を飲む機会が増えるだろう。そしたら、あの容姿だ。たちまち女性の標的にされるに違いない。
「ねえ、メアド教えてよ」
「俺分からないから」
「じゃあ、ケータイ貸して。私の入れとくから」
「次、私ね!!」
「私も!!」
「とか、なったらどうするの!?」
想像しただけで腹が立ち、携帯電話を見入っているトレスを責めた。
「いきなり怒るな」
理不尽に叱られた彼は眉をひそめる。
「ケータイは落とさない、失くさない、貸さない。分かった?」
そんなに面倒なら使わない方が気が楽と言ったら杉本夫妻に悪いので黙っておく。
「メールはともかく電話くらいは覚えよう」
ということで、早速二人並んで講習会が始まる。たどたどしい手つきで一つ一つボタンを押していくトレスにマンツーマンで指導すること三十分、やっと二人の電話が繋がった。
「もしもし」
機械を通して聞こえてくる空の声にまた感動する。
「ちゃんと聞こえるんだな」
「これでいつでも連絡取れるね」
こんな便利の物があったら戦局も変わるだろう、などと真剣に考えるところはまだ剣士である。
「空は『一期一会』って知っているか?」
一旦電話を切ってトレスが尋ねた。
「難しい言葉知っているんだね。福太郎さんに聞いた?」
その言葉が福太郎の座右の銘と空も知っている。バイトの面接で彼が言っていたのが印象的だったからだ。
「ここにきてろくな言葉覚えていないからなあ」
と、トレスは溜息をついた。
「例えば?」
「変態とかエロいとか」
そうでした……と、空も溜息をつく。
「福太郎さんが言うと温かいというか重みがあるというか」
全くその通りである。自分達が使っても恐らく口先だけの薄っぺらな感じにしかならないだろう。
「いい人に巡り会えてよかったよ」
「それって私も入ってる?」
ーああ。お前に会えたから繋がりが出来たんだ。
言葉にすれば空が喜ぶと分かっているのに、何故か素直に言えない自分に初めて苛立った。
あんなに瞳を輝かせて答えを待っているのに彼が取った行動は携帯電話を操作する真似をするだけだった。
少しがっかりした表情でキッチンへ行ってしまった彼女を目の端で追いながらトレスは自己嫌悪に陥った。
翌日、登校した空が鞄から携帯電話を取り出して受信メールをチェックしたら一件入っている。
-誰からだろう?
見慣れないメアドに首を傾げて思い出した。
-トレスからだ!!
『お前も入ってるよ』
この文面を見た瞬間は理解出来なかったが、暫く考えて昨夜の自分の問いの答えだと気付いた。恐らく、自分が寝た後も一生懸命説明書を読みながら練習したに違いない。
短いが妙に心に響く。そんな気持ちが表情に表れていたらしく智美がにやけている。
「なあに? ケータイ片手ににやけちゃって」
「ん? トレスの初メール」
「へえ、あいつケータイ持っていたんだ。というか使えるんだ!!」
あの無愛想男がねえ、と玲奈が驚いていると智美が画面を覗いてきた。
「なになに。……これだけ?」
「いいの!!」
「よし、私が返信してやる」
玲奈が空の携帯電話を横取りしたので取り返そうとしたが高々と手を上げた170センチの玲奈に届くはずもなくぴょんぴょんとその場で跳ねているだけになってしまう。
昼休み、現場でトレスが携帯電話を開くと丁度一通のメールが届いた。
『やっぱりあのシリーズはプレーンよりチョコでしょ!!(怒りマーク)』
-なんだこれは!?
意味不明な文面にどう対処していいのか頭を抱えるトレスだった。




