その6
翌日、朝から空は落ち着かない。
あれから、風呂からあがった空はトレスにもう一度意思を確認する。
「本当に働きたいの?」
「ああ」
「気を悪くしないで聞いてね。トレスは異世界の人間なんだよ。現実はテレビとは違って厳しいし慣れない環境で落ち込む時もあるし、それに……」
「お前は俺の親か」
あらゆる困難を想定して一気に巻くしあげる彼女に「お人好しめ」と、つい口元が緩んだ。
「あれっ!? ちょっとして今笑った?」
空が指摘するとトレスの表情が一瞬強張った。
笑うつもりはなかったが、空にはそう見えたらしく目を輝かせてこちらを窺っている。
「わ、笑ってない!!」
「別にいいじゃない。人間だから笑う時もあるって」
ーそうだ。人間だから笑う時もある。俺が笑わなくなったのはいつ頃だろうか。
空の言葉に人生を振り返ると殆ど笑わない自分に驚く。
「いつも眉間にしわを寄せてきつくないか?」女剣士談。
「剣士だからって笑っちゃいけないという規則はないよ」親友の剣士談。
「トレス様、笑ったら素敵なのに」町娘談。
幾人にも言われ続けたこの表情を改める気もなかったのに、空が言うと妙に心に響く。
「無理に笑えとは言わないけど自然に笑顔になれればいいね」
学校にいても授業は上の空で半日そわそわして過ごした。
いつもなら心配してくる友人二人も、玲奈はバスケの試合が近いので猛特訓中で智美は塾の模試と、其々自分の用事で手一杯らしく空の異変に気付いていない。
「試合、終わったら皆で遊びに行くよ」
「今度の日曜日だったね。頑張って!!」
空がガッツポーズで激励すると玲奈は力強く頷いた。三年生が引退して新チームの実力を測る上で重要な試合だけに気合の入れようも半端ない。
「こっちも日曜日に終わるから平気だよ」
智美は勉強しなくても大丈夫そうだがしっかりやっている辺りは偉い。
「私も決まったら……」
言い掛けて「しまった」と口を噤んだが、来週の予定に思いを馳せている二人の耳には届かなかったらしく追究はこなかった。
ー明日、ここへ来てもらおう。勿論、客としてだー
福太郎の言葉の裏にはトレスに本来の目的を知らせずに客として来いという意図がある。それは空も理解した。
彼の藍色の髪を黒く染めようかとも考えたが、上辺だけ繕っても久本夫妻を欺いている気がするし、なによりも髪を隠すことによってこれまで生きてきたオバジーンでのトレスを否定しているようでつらい。
だから、敢えてありのままのトレスを二人に会わせると決心した。
「ねえ。今夜食べに行こうよ。美味しい店知ってるんだ」
「いや、ここで食べる」
このパターンが一番確率が高い。そうきたらどう切り返すか……と思案に暮れるところだが、彼はあっさり承諾した。
「俺は構わないが」
「じゃあ早速行こう。混まないうちに」
ー私、変じゃなかった? 自然な感じで言えたかな。
学校の帰り道、自転車を漕ぎながら頭の中でトレスを『ふくちゃん』へ連れ出すイメージトレーニングした甲斐があった。
第一印象が大事と、トレスの格好はベージュのカーゴパンツと初めて街へ出掛けた時のチェック柄のシャツと小ざっぱりした物を選んだ。
「やけに緊張しているな」
さすが剣士だけあって、そういう感情は察してくる。
「あ、うん。そこの店のおじさんが気難しいみたいで」
福太郎さん、ごめんなさい!!、と心の中で彼に詫びた。
「トレスと気が合うといいね」
「……おい、どういう意味だ」
低い声で訊く彼に苦しい言い訳をしながら歩いていたら、ついに『ふくちゃん』の店の前まで来た。
早打ちする鼓動を抑えて扉を開けると「いらっしゃい」と久恵の元気な声が店内を響き渡る。
「二名様? カウンターでいいかしら」
普通に接してくる久恵の案内で空とトレスは並んでカウンター席に座った。まさに福太郎の目と鼻の先である。
「ご注文は?」
「お勧めはサバの味噌煮定食だよ」
「それでいい。空は?」
「私は生姜焼き定食にする」
二人の注文を伝えに久恵は福太郎の横に来て囁いた。
「なかなかの好青年じゃない。ちょっと愛想がないのが残念だけど」
確かに無愛想だが、目が合った瞬間に会釈をするあたりは礼儀がなっていると福太郎は感心する。
一方、久恵も接客をこなしながら二人の様子を観察していた。飯尾に報告すると言った手前いい加減な見方は出来ない。
それにしても、気になるのは空の方である。自分たちに評価されている意識が高まり緊張した面持ちで食事しているので楽しむ余裕もないようだ。
ーあらあら。騙しているようで後ろめたいのかしら。最後まで無事に済めばいいけど。
しかし、久恵の予想は的中することとなる。
隣で「美味いな」と呟きながら定食を無心に食べているトレスに空の胸は痛くなってきた。
幾ら抜き打ちで、といっても彼にも心の準備というものがある。そして、トレスは隠し事を最も嫌う。
「ごめんなさい!!」
もう限界とばかりに空は箸を置くと勢いよくトレスに頭を下げた。
「急にどうした!?」
唐突過ぎて目を白黒しているトレスに言いにくそうに訳を話す。
「実は、トレスに仕事を紹介してもらおうとここへ連れてきたの」
「仕事と定食、どう関係があるんだ!?」
自己嫌悪の空に代わって話がさっぱり読めない彼の為に久恵が説明を買って出た。
「初めまして。私は杉本久恵、主人は福太郎で空ちゃんはここでバイトしているの」
初耳だった。正確には知ってはいたが、店の名前や詳しいことは興味がなかったので訊きもしなかったのだ。
「常連さんの職場に人が足りなくて困っているから誰か紹介してくれって話になったの。そこで、空ちゃんがあなたを推薦したんだけど訳ありみたいだから先に私達が会って評定することにしたのよ」
「お前さんに黙って連れてこいと言ったのは私だ。彼女を怒らないでやってくれ」
怒るも何も未だ状況が飲み込めないトレスは隣の空を見つめるしかなかった。
口をきゅっと閉じて大きな瞳からは涙が零れんばかりに潤んでいるこの少女をどうやったら怒れるだろうか。全ては自分の為にしたというのに。
仮に空を怒ったとして杉本夫妻の非難を浴びるのは自分に違いない。そうなれば、また空が庇い、非難が飛び……と負の連鎖が止まらない。
「別に怒ってはいません」
「よかったわね、空ちゃん。彼、無愛想だから分かりづらくて」
意外にも毒舌の久恵にトレスは憮然とした。
「もう種明かししたから隠す必要もないわね」
「そうだな。その事情とやらは明日聞くとして今夜はゆっくり食べていってくれ」
この状況が明日も続くのかと空とトレスはどちらともなく顔を見合わせた。




