表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/2

後編

「何を言っている?」


「君の疑問は或る種の思想の出発点だと言っているのさ。とある哲学者は、他の全てを疑い得るとしても私が私を認識するという認識自体は疑い得ない、と主張したけど、しかしその私とやらを消し去るには如何にすべきか、という問いも存在したのさ。具体的には仏教と老荘思想というのだけどね」


「それを理解すれば私は消えるのか?」


「少なくとも今よりは前進した気分になれる可能性は高いね」


「・・・・お前の言い方にもそろそろ慣れてきた。で? どんな話なんだ?」


「まずは老荘思想から話すとしようか。その結論は至って簡単。世界の内に区別は無く、よって私と名乗る存在もいない、ということさ」


「簡単なのは内容か? それともお前の言い方か?」


「この場合は両方だね。まあ、例によって君は理解できないだろうから、一つおとぎ話をしようか。おとぎ話と言ってもそれなりに由来のある話だけど。この話は何も無いという状態から始まる」


「何も無いなんて事があり得るのか? いままでのお前の話を聞いてるとそんなことはないような気がするんだが」


「中々に鋭くなったね。この場合の何も無いというのは、いま話を聞いている私達の側から話の内部を観察した時にだけ言える表現であって、話の内部に立てば何も無いという認識すら無い状態、というのも変だね。こう言ってしまうと、認識する存在は存在するように聞こえてしまうか。たしかに認識する存在は在るのだけれども、その存在は自身が存在するという事に対して無自覚で、かつ存在するという認識そのものにも無自覚だったと表現するのが一番適当かもしれないね」


「裏を返せば、自覚しない限り無意味だと?」


「無意味と言うよりか、有意味性が発生しないとすべきだ。意味の有無以前の地平から一般に人間が認識する状態への移行が、このおとぎ話の眼目なのだから」


「そうなのか」


「そうなんだよ。さて話を戻すと、先ほど言ったように話の内部に立つと認識する主体も存在しない状態なのだけれども、外部からでは『何か』としか表現できない存在に満ちていると見做すことが出来る」


「何も無いんじゃなかったのか?」


「別に真空に比せられるような状態だと言っていたのではないさ。内部に認識する主体が存在しない為に、内部において通用する意味を付与することが出来ないということを文学的に表現しただけだよ」


「“何一つ名前を呼ぶことが出来ない”を“何も無い”と表現したのか? 随分と違うじゃないか」


「そうでもないさ。光が入り込まないように完全に密閉された部屋を想像してごらん? たとえそこに何が存在しようとも、視覚に頼る限り何も無いのと変わらない。このおとぎ話も簡単に言ってしまえばそういう状態なのさ。光も音も振動も感じられるけど、それを意味ある現象として処理する意識が存在しないから、何も起こっていないのと同じことでしかない」


「何だか動物以下に思えてくるんだが」


「そうかもしれないね。話の内部の存在者は極めて動物的と言うか、機械的と言うか。しかしある時点で、内部の存在者は唐突に『存在する』という自覚を生じさせてしまう」


「唐突に? 何故?」


「理由は判らない。ただ、私達にとってそれが判りようは無いということだけは判っている。“嘘で嘘ではない”のと同じ理由でね」


「唐突に始まっている以上、それ以前の状態を問う事は不可能ということか」


「冴えてるじゃないか。でもその話は以前にしたから割愛させてもらおう。むしろ『存在する』と認識した以降こそが重要だ。『存在する』と認識した瞬間から世界は分裂してしまう。元々は一つだったと言うのに」


「一つ?」


「そうとも言えるってことさ。厳密にすれば主客以前、彼我以前の未分化な状態、となるけど」


「ああ、だろうな」


「分裂の具体的な内容は色々と考えられる。例えば、認識する主体とされる客体。認識の対象と認識そのもの。認識している状態としていない状態。まあ内容は自体はさほど重要じゃない。一度でも認識してしまうと世界は幾つにも分裂し、結果このおとぎ話は目の前に現れた様々な事物に惑い苦しむという結末を迎えることになる」


「要するに今の私のことだな。ただ私の場合、惑わし苦しませているのはお前だが」


「別に君に限った話ではないさ。結局のところ、目の前の事物が自分とは別個の存在者だと考えるからこそ、それに対する欲求が起きる。私もまた本質としては君の一部分でしかないのだから、それが外部の存在であろうと内部の存在であろうと自己と切り離している以上、その悩みは尽きないよ」


「簡単に言ってくれるじゃないか。論理では納得できるが、一向に実感できない。どうせなら説明よりもその自己が分離していない感覚とやらを寄越してくれ」


「はっはっは、それは無理というものだ。どんなに言葉を尽くしたとしても、その人自身の実感を渡すことが不可能なのは君だとて理解しているだろうし、それにこの話は特に伝え難いしね」


「どうしてだ?」


「気付いてなかったのかい? 目指す状態に到達してしまうと、言葉を持てるかどうか以前に語るべき内容を一切喪ってしまうだろう。なぜなら世界、この言い方すら出来なくなってしまうだろうけれど、とは自分と同義になるからだ。語る相手もいなければ、語る自分もいない。語るに値するものもない。しかしそれを説明しようとすると、その状態とは全く異なる形でしか外部に伝えることは出来ない。つまり自分とは異なるから話すという行為が可能となるのに、その内容に自分とは何も異ならない状態を持って来るなんて不可能だとは思わないかね」


「むう、それはそうなんだが・・・・」


「だからこそ私も分かり難いおとぎ話を使おうと考えたのだけどね。実はね、あの話のオリジナルはもっと簡潔に作られているが、それは本来語りえない領域をあえて言語で表現するという矛盾を回避するためだ。それは或る部分では成功しているが、その分だけ予備知識がどうしても必要となっている。でもおとぎ話が理解できたなら充分、オリジナルも理解できる筈だ。聞いてみるかね?」


「取りあえず、だが」


「それで結構。オリジナルは『荘子そうじ』の斉物論篇さいぶつろんへんの一部分である以下の文章だ。

天地は我と並び生じて、万物は我と一為り。

既に已に一為れば、はた言うこと有るを得んや。

既に已に之を一と謂えれば、はた言うこと無きを得んや。

一と言とは二為り。二と一は三為り。此自り以往いおうは、巧歴こうれきも得る能わず」



「・・・全く分からないぞ」


「現代語訳するとこうなる。

世界は私と同一であり、万物は私と一体である。

しかし本当に一体であれば、一体であると言えるだろうか。

一度でも一体であると言えたのならば、一体ではないと言えるだろうか。

一体であることと一体であると言うことを合わせて二である。二という認識と一である実体は合わせて三である。これから先は取り留めもなく増えて行く」


「世界と自分が同一であるというのは、認識する存在がいなければ成り立たないという意味か?」


「大体そんなところだね。ただし成り立たないのは意味としての世界であって、物理的な存在としての世界は言及されていない所に注意しなければならないだろう。この短い文章の中には多くの事が語られている。認識する存在と認識される存在の成立に関する依存的な関係性。主体と客体という観点に立つ為に必要な対象との断絶。その矛盾した状態の並立と、論理性によって導かれる断絶の無制限な拡大。そして断絶によって生じる対象を操作しようとする欲望や操作しようとする技術。最後はこの文章の中には明示されていないけどね」


「そうなのか?」


「そうなんだ。老荘思想の支持者達は文化や社会という存在の価値を見切っていた面がある。若しくは人と人が生み出したものを評価していなかった。それがある為にかえって人間の不必要な欲望を刺激して自らを不幸にするとして。だからこそ彼らは対象が存在するという状況そのものを打開することによって欲望の増殖を留めようとしていた」


「だが言語以外の手段で伝達することが不可能な以上、既に主体と客体が未分化な状態への帰還は論理的に叶わない。だからこの文章自体が、直接に表す事が出来ない領域を否定を利用した逆説的な照射で表現して居る訳か」


「その通り。今こうして話している私達もまた話している以上、話すという行為の呪縛から逃れることはできない。だから老荘思想は簡潔にして困難なのさ。思想と銘打たれてはいるけれども、その本質は思想と呼べない。他者に理解させるという行為そのものが内部から除外されていて、思索によってより深層へと到ることは構造として不可能。端的に実現するか、或いは無為と理解しつつ周辺で足踏みするしかない」


「考えるだけ無駄という訳か」


「一見そのようにも取れるだろうけど、実際はそうでもないさ。老荘思想の思想としての懐の深さは、真剣に追求する自身すらも滑稽と見做せる所にある。『荘子』には様々な寓話が収められているけど、その一つに渾沌が殺されるという話がある」


「渾沌が殺されるも何も、渾沌とは状態であって殺されるような存在ではないだろう」


「だから寓話なのさ。まずは黙って聞き給え。

かつて世界には三つの王国が存在した。三つの王国は南北に並んでいたが、中央の王国が最も強大で栄えていた。

ある時、その中央の国を治める混沌という名の王が北の国と南の国の王を招いて盛大な宴を催した。南北の二人の王はいたく感激し何か御礼をしようと考えた。

考え抜いた結果、彼らが出した結論は渾沌を人間と同じようにしてやることだった。渾沌は立派な王だったが、顔は普通の人間とは異なり目も鼻も耳といった人間が持つという七つの穴が無かった。そこで二人の王は渾沌に申し出て、御礼として宴一日につき穴一つを穿つ事に決めた。

宴が続くにつれて穴は一つずつ増えて行き、終に七日目に七つの穴が開いたら渾沌は死んでしまった。

ここで話は終わってしまう」


「何故渾沌は死んでしまった?」


「理由は語られていない。でも想像はつくだろう。渾沌とは一切が不可知であるからこそ渾沌足り得る。渾沌にまさしく目鼻立ちを点けてしまっては、それは既に渾沌ではないということさ」


「だから渾沌は死んでしまった」


「だからね、老荘思想は真剣になったらそれは間違いだとも言えるのさ。人として生きている以上は語らないことは出来ない。でも世界は語り尽くせない。その狭間で逍遥と遊ぶのが老荘の目指すところなんだと私は考えているよ」


「真剣にならない、か」


「さて、老荘の話はここまでにしておこう。今度は仏教の話をしようと思うんだけどね、これは中々に複雑なんだ」


「老荘思想とは反対にか?」


「言いたい事だけを取り出してしまえば、話は同じくらい簡単に済むよ。ただ仏教自体が長い歴史を持つ上に、その歴史も宗派の対立による論争が数え切れないほどあった。だから信奉する立場の違いによって、同じ語句といえども解釈が異なる場合が多い。私が今から話すことのみが唯一の統一された解釈ではないということを先んじて断わっておきたい」


「理解した」


「それなら良い。では私が考える最も重要な要素はくうしきだ」


「空と色?」


「つまり色即是空 空即是色だ。般若経はんにゃきょうなどで見られる語句だが、色とは眼前に広がる物質的実体的世界を指し、空とは何ら実体の無い世界を指す。即ち色即是空 空即是色とは実体は有って且つ無く、実体は無く且つ有るという主張だ」


「また矛盾した話か。しかし実体が無いというのは、老荘思想のように認識によって存在を表現できるとか出来ないとかではないのか?」


「そういった部分が無いとは決して言い切れないが、基本的に仏教における空と色の概念は存在の成り立ちに関するものだ。つまり目の前の物は本当に存在するか、あるいは存在とは誤解でありこの世界を含む一切の存在者は存在しないという物質や実体に関する考察だ。だが空を理解するためには仏教の基本思想である縁起を理解しなければならない。現在の日本語において、縁起とは歴史的に伝わっているジンクスのように考えられているが、仏教の文脈において縁起が意味するのは自身の存在の根拠を周囲との関係性に置くことを指す」


「今一つ納得し難い表現だな」


「だろうと思ったから喩え話を一つしよう。『車軸しゃじく』と呼ばれる話で、縁起という概念の説明として極めて優れている。さてこの『車軸の喩』、さる高僧がとある王の招きによって王宮に呼ばれたところから始まる。


『偉大なる僧殿よ。縁起とは如何なる考えなのだろうか。仏の御教えによれば、全てのものは何らかの繋がりの中においてのみ存在し、仮にそのものを除く全てのものが消え失せたのならば、そのものもまた消え去るという。しかし私が住まうこの堅牢な王宮が傷一つも付けられる事無く、ただ他の物が消え去る事によってこの宮もまた消え去る事など私にはどうしても納得できません。どうか縁起という深遠なる考えを御教え下さい』


『賢明なる王よ。貴方は私をこの王宮に御招きして下さるにあたって一台の車を御遣わしになられました。私はその車を使って縁起の一端を御伝えしましょう。王よ、車の本質とは何で御座いましょう。本質とはそのものの中で最も大切な部分にして、それを喪ってはそのものが成り立たぬものを示します』


『僧殿よ。愚かなる私には車の本質は分かりません』


『では余計な部分を取り除いてみましょう。余計な部分を全て取り除き、最後に残ったものこそが本質と呼べるでしょう』


『素晴らしい考えです。私もそう思います』


『では王よ。車の屋根は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『では屋根を支える柱は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『では人が座る板は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『では牛をつなぐ棒は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『では車輪は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『では車輪を貫く軸は本質ですか』


『いいえ、そうは思いません』


『王よ。貴方は車の屋根も、屋根を支える柱も、人が座る板も、牛をつなぐ棒も、車輪も、車輪を貫く軸も本質ではないと仰った。ではこれら総てを車から取り除いてみましょう。その時、何か残りますか』


『僧殿よ。何も残りません』


『では車の本質とは何でしょうか』


『本質は何処にも在りません』


『では仮に、屋根と柱と板と棒と車輪と軸を一つの所に積み上げたならばそれは車でしょうか』


『いいえ、それは屋根と柱と板と棒と車輪と軸を一つの所に積み上げたものであって車ではありません』


『その通りです、王よ。屋根と柱と板と棒と車輪と軸は、どの一つも車の本質ではありませんがその総てを喪っては車としての形を喪い、正しく組み合さなければ車としての意味を成さない。即ちこれこそが縁起なのです』


という話だ。縁起という概念を上手く説明しているだろう?」


「ああ、理解できた。確かにそのように考えれば固定的な実体という考え方は成り立たないかもしれない。しかしまだ疑問を差し挟む余地はあるぞ。関係性とは、言い換えれば何かと何かの関係のことだろう。その何かも結局は関係性によって保証されているというのが縁起の考え方なのだろうが、関係性に拠らない原子が考えられないか?」


「素晴らしい。目の前で確認できる存在について縁起が適用できる。しかしより根源的な段階においても縁起は適用可能なのか。それに気付けたことには相応の評価を与えたいが、その疑問は既に提出された問いなんだ。古代印度の知識層は極めて緻密な論理性を備えていて、背景とする思想こそ現代とは異なるとはいえ論理学が発展していた。だから仏教は救済の為に神秘を隠れ蓑とする一方、論理を用いて教義の純粋な追及も行っていた。その追及の一つに縁起も含まれていて、君の提出した疑問も当然として考えられた。結果として次の様な解が作り出されたのさ。


第一の定義として最も小さいものは厚みの無いものでなければならない。仮に厚みを持つならば、それは更なる分割が可能でありそれは最も小さなものではない。


第一の定義から次の二つの命題が導かれる。


第一の命題として如何なる厚みのある物体は、最も小さなものが隙間なく組み合わさって作られていることはない。なぜなら最も小さなものは厚みの無いものであり、厚みの無いものと厚みの無いものを重ねても厚みが生じることはない。


第二の命題として如何なる厚みのある物体は、最も小さなものが隙間を開けて組み合わさって作られていることはない。なぜならどれほど小さな隙間であろうとも、最も小さなものは厚みを持たないので例え無限に入り込もうともその空虚を埋めることは不可能である。


二つの命題より厚みのある物体が最も小さなものが組み合わさって作られていることはない」


「最も小さなものが目に映る大きさである可能性は?」


「目に見えるぐらいだったら分割可能だろうし、それに当時だって目に見えないけど存在する物があることは体験的に知っていただろうね」


「そうか。まあ、縁起がどういう概念か理解できたが、それがどんな意味を持つんだ? この世界が空であるという主張が同時に色であるという主張とどうして両立する必要があるのか?」


「それは結局のところ人間にとって空であることも色であることも両立しているからさ。或る種の仏教の素晴らしいところは、思想においてラディカルであることを放棄したことが挙げられるだろう。この世界が空、即ち何ら実体を持たない流動的で一過的であると初期の仏教は宣言した。そのことによって生きていること自体に苦しみを見出していた初期仏教徒が救済を得られたのは事実だろう。でも世界が空であると気付く、あるいは見做した所で世界の全てを放棄できない者もいたのさ。世界が空であるということは、世界の内部に何らかの価値や意味を見出したとしてもそれは永続性を持たない、やがては消え失せる幻影以上のものではないということも同時に意味しているからね。ラディカルな立場だったら放棄できない者を非難するか切り捨てるかして教義に殉じるよう求めたのだろうけど、当時の指導者達はラディカルな立場を放棄することでより多くの人々を救済する道を選んだのだろう。単純にそちらの方に多くの人が集まった結果かもしれないけど」


「そんなことはどうでも良い。お前の話を聞いてきたが、老荘も仏教も結局は現実を肯定するだけで私の悩みを消し去ることが出来る答えは見つからなかった。それどころ両方とも解答らしきものを一旦は与えておきながら、それを否定してしまっている。詐欺だと訴えたいぐらいだ」


「やれやれ、君はまだ気付いていなかったのか。とっくに答えを渡していたというのに。いいかい? どんな思想もそれが揺ぎ無い絶対だと思い込んでしまったら、それは間違いなんだ。融通無碍にして何物にも囚われないこと。それこそが二つの思想の根本なのさ」


「そんなことが解答だと? 解答が最初から無かったことを誤魔化しているようにしか聞こえないぞ」


「解答は存在しないか。或る意味でそれは正しい。或る瞬間に得られた解答も次の瞬間には喪われているかも知れない。だからこそ求め続けることが大切だと禅では言っているね」


「禅?」


「そう、禅。仏教の一派で最も実践を重んじ、肉体性を精神と同列に配する脱思考的傾向を持つ宗派のことだ。禅の特色は、他の宗派において最終目標に置かれている悟りを生きながらにして実践する点にある。しかし彼らの特徴はそれだけではない。悟った後にもまだ修業を続けるんだ。これは悟りを永続的なものではなく一過性のものだと見做していると受け取れる」


「急に話が変化したな」


「実のところ本当に話したかったのは禅だったんだ。でもいきなり話したって君は理解できなかっただろうからね。老荘と空の話を経由することで受け止め易くしてあげようという私の親切心だったのさ」


「随分と恩着せがましい。私にとって必要とは限らないだろうに」


「いいや、必要だったろうさ。君は自己の消失に関する二つの議論を理解し、あとはそれを実践する手段さえ得れば君の悩みは解決するのだから」


「お前の言うとおりかも知れないが、その手段は言葉で伝えられるのか?」


「もう此処まで来てしまえば言葉は邪魔でしかない。ただ気付けば良いだけさ。今だとか此処だとかという言葉を捨てて、今此処を見直すだけなんだから」


「そうか。やってみるとしよう」


 やがて言葉は消え、彼我の無い境地に辿り着く。




 が


「だからといって何時までも自分が消え去っていられる訳ではないよ」


「うわっ! なんでお前がまた出て来ているんだ!」


「そりゃ私は「私を眺める私」だからね。「私」が生じたら同時に私も発生するのさ」


「違う! 私が言いたいことはそういう事ではない!」


「冗談だよ。一応は君も私も人間である設定されているからね。人間は人間である限り一つにとどまり続けるのは不可能で、常に揺れ動かざるを得ない。それは老荘も仏教もそう主張していたじゃないか」


「確かにそうだ。人は揺れ動く存在であるという諦念に似た寛容さを示していた。しかし自己を消し去ることすらも揺れる事によって崩されてしまうのならば、自分を消し去ろうとする行動は無意味ではないか」


「それは違う。例え一瞬でもそれが訪れたのならば、それが訪れる前とは変ったかも知れない。少なくとも変わった可能性を保持する事が出来る。だから決して無意味なんかではないさ。だから禅宗では悟った後も再び修業を続けるのさ。それが決して無意味ではないからね」


「そうなのか」


「そうなんだよ」



 かくして対話は終わらず、続く。




荘子を“そうじ”と読むのは、これが本の名前だからです。

人名だと“そうし”となって濁らないんですよ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ