(17)好きにしたら
自由に、か。だったら少し、無茶な手も指してみようかな?
時間をかけて盤を見つめている内に、思いついた一手があった。
それで形勢がどうなるかはわからない。ひょっとしたら、とんでもない悪手なのかも。だけど面白いと思ってしまった。指してみたいと思ってしまった。
つかんだ駒に、炎が燃え移る。
ぱちん。駒音は静か、されど盤上には波紋が走った。
「な──!?」
大きく目を見開き、声にならない叫びを上げる彩椰。どうやら彼女の読みの範囲を超えることができたみたいだ。胸中でガッツポーズを取る。
93玉。どうせ次に王手をかけられるのならと、先手を取って踏み出す一手。あえて、端へと。
「早逃げ? いやでも、73ならともかく」
ぶつぶつとつぶやく彼女の表情には、先程まであった余裕が見られない。私の狙いをつかみかねているようだ。
そうだ、普通逃げるなら93じゃなく73の位置だ。端は追い詰められるリスクが大きい。早逃げが目的なら、間違っていると私も思う。
違うのだ。思考の出発点が。
「鬼の牙が、盤上に漣を起こしたカ」
沈黙を破り、突然厨二病的なことを口走る睡狐。緋色の両眼を細め、実に興味深いと彼女は笑う。
鬼、牙、漣か……今の一手を名付けるなら『漣鬼牙』とでも言おうか。って、私まで何カッコつけてんだ。名前なんてどうでも良いだろ。
ともかく。彩椰の明鏡止水はまだ不完全で、付け入る隙があることがわかった。わずかでも望みがあるなら、それに賭けたい。
彩椰が想定していた次の手は、81飛車成りの王手だったはず。それを事前にかわしたことで、さらなる読みを彼女に課すことができた。形勢はわからないけど、少なくともペースを握れた。
「あーうー。変な手指されると困っちゃうよー」
お兄ちゃんどうしよう? 後ろを振り向いて彩椰は問いかけるも、狂気氏が答えることは無く。ぼんやりとした輪郭のまま、こくりとうなずきを返して来た、ように見えた。
「お、お兄ちゃーん?」
「好きなように指したら良いんじゃない?」
彼の代わりに答えてやる。
「明鏡止水に、無理に頼らなくても良いと思うけどな」
助け船を出したつもりは無い。調子を崩され、迷走した棋譜になるのが嫌なだけだ。
私の言葉に、彼女は目を丸くする。透き通っていた瞳に、わずかに濁りが混じった。
「でも。それじゃ勝てないじゃん」
「自由に指したらって言ったの、あんたでしょうが」
そもそもこの一局は修司さん、安藤さんと、各々が好きなように指し連ねて来たのだ。彩椰にだってその権利はある。好き勝手やれば良い。結果として負けたとしても、それは彼女のせいじゃない。
何もかも全部、こんな将棋にしたレンが悪いのだ。
私がそう説明すると、彩椰はパアッと顔を輝かせた。
「じゃあ! 思いっきりやって良いんだ!?」
彼女の叫びと共に、明鏡止水が解除される。透き通っていた瞳には、今は真夏の太陽のような輝きが宿っている。来るか。一切のしがらみを捨て去った、全開の水無月彩椰が。
ばちん! 元気よく駒を打つ彼女。横滑りに彩椰陣の飛車が走り、私の馬にぶつかって来る。これは!
右四間を解除して、受けを優先した? 同馬同玉で精算すれば、私の攻めが遅れると見たか? 同馬とせず逃げれば、今度は9筋まで振って王手をかけて来る? 逃げずに、桂馬や角を打って馬にヒモを付ける手は? 急いで飛車で取らずに、先に金を合流させて来るか?
様々な変化が考えられる。くそう、迷う手を指してきやがったな。
確かに思いっきりやって良いとは言った。言ったけど、このタイミングで飛車をぶつけて来るなんて、思いきりが良過ぎる。まだ中盤なのに──いや。彩椰はそう思っていないのか? もう決着のつけ時だと思っている?
いつ何時『交代』を迫られるかわからないから。自分が指せる内に、勝負を決したいのか。
「燐。あんたが何故73じゃなくて93に玉を逃がしたのかはわからない。よくわかんないから、わかり易く整理させてもらうよ」
「ふん。飛車角交換なら望む所だよ」
嘘だ。せっかく成れた馬を早々に取られるなんて、悔し過ぎる。しかも、今まで遊び呆けていた飛車になんて。単に交換するだけじゃ物足りない。
かといって馬を逃がす手は、確実に攻めが遅くなる。そこから9筋に振り直され、王手をかけられたら目も当てられない。馬は現在の位置がベストなんだ。
ならば、逃げずに馬にヒモを付けるべきか。持ち駒を使わされるのも、それはそれでしゃくに障るけど。選択肢の中では一番マシな気がした。成り駒作れるし。
角か桂馬か、はたまた香車か。角を打つ手が一番強力だけど。97への玉の脱出を防ぐなら桂打。攻めに繋げるなら香打か。
うーん。角は小駒で狙われるリスクがあるし、相手玉を追い詰める時に使いたいなあ。その点香車なら一番軽い駒だし、次の飛車を取り込む手が痛いから、彩椰も受けざるをえないはず。
ぱちん。桂馬も捨てがたいけど。ここは香車でいくか。
ぱちん。金で受けて来る彩椰。この辺りはわかり易い。いや、わかり易くさせられた。
ぱちん。馬で飛車を取る。
ぱちん。その馬を金で取られる。
ぱちん。その金を香車で取り、成って王手をかける。
ぱちん。同玉。ここまではほぼ一直線。さて、ここからどうするか。
第一感は敵陣に飛車を打ち込み王手をかけ、次に龍を作る手。わかっていても受けにくく、確実に効果が見込める。けど、それで勝ち切れるかどうかは話が別だ。角と香車を渡したことで、彩椰の攻めだって刺さって来るのだから。
「……面白いじゃん」
「でしょ? 私達って相性良いのかもね!」
「まあ、ね」
彼女の笑顔に、釣られて笑う。
相性が良いか、確かにな。お互いにとって理想の局面になった。二人で創り上げた。
例えば修司さんとなら、申し訳ないけどこんな展開にはならないだろう。対話ができない訳じゃないけど、噛み合わない。きっちり咎められ、好きにはさせてもらえない。
だけど、彩椰は違う。
お互い好き勝手にやろうよって、胸襟を開いてくれる。裏も表も無い。どちらの攻めがより速いかってだけの、シンプルな勝負。私の大好きな展開にしてくれる。
望む所ってもんだ。全力であんたを倒してやる。誰かと交代する前に、全力の水無月彩椰を。
ぱちん! 渾身の力を込めて、飛車を打ち込む。
打ったのは28の地点。相手玉からは遠いけど、次に桂馬が取れる。
ぱちん。彩椰は上に逃げる。こういう時、銀立ち矢倉の銀が活きて来る。攻撃だけでなく、上部の守備にも。やや前に出過ぎている感はあるけど、それでも十分な働きをしている。
ぱちん。まずは持ち駒を増やす。桂馬を取り、龍へと成る。
ぱちん。今のは緩手だったとばかりに、すかさず王手が来る。66角打。攻防に利いた良い位置だ。
王手放置は反則負け。合駒するか、それとも逃げるかの二択を強いられる。攻め駒は温存したい。よし逃げよう。もとい、前進しよう。94玉だ。
「燐。あんたの狙いがやっとわかったよ」
何だそんなことかと、彩椰は笑みをこぼした。
まさか、今の応手で見極めたってのか? 恐るべし水無月彩椰。何だ、明鏡止水なんて使わなくても十分強えーじゃん。




